空腹を軽く満たした二人は喫茶アルプスを後にし、神室町を行く宛を決めずに歩いていた。雑踏の中に身を置いていると、あの頃よりも随分と伸びた背丈のことを忘れ、二人は少年少女に戻った気分だった。ただ、あの頃と違うとすれば、互いの手は外気に触れて熱を奪われ続けていることだ。その手を取る理由が今の二人には見つからない。
「どこ行こっか」
「なんも決めてねえよ」
「懐かしいね、こうやって二人で神室町を歩くの」
「なら、懐かしついでに寄ってくか?」
「ど、どこに?」
「確か、あん時はお前にぬいぐるみ取ってやったよな」
ぱあ、と顔色が明るくなったのはなまえだ。すっかり忘れてしまったと思い、気にもしていなかったかつての細部を、堂島大吾は忘れずに覚え続けてくれていたのだ。ただ、惜しむべくは、当時大吾に取ってもらった丸い文鳥のぬいぐるみが手元にはないことである。身内の騒動に巻き込まれた際、逃げ出すことに必死で自宅に置き忘れてしまった。取りに戻ることも出来ず、今になっても尚、失われた小さな優しさや温かさを恋しく思う時がある。
「また取ってやるよ、何個でもな」
「いいの?」
「こんなんでお前にしてきたことの償いになるとは思ってねえ。でも、今日はお前の為に何かしてやりたい気分なんだ」
「それじゃあ、私の言うこと聞いてくれるってこと……?」
「……あんまり吹っ掛けんなよ」
「どうしようかな、へへ、」
途端に外気の冷たさを忘れたかのようになまえは浮き足立ち、大吾の手を取る。そして、真っ先に掛け出すと最寄りのゲームセンターへと向かった。この時ばかりは人混みを気にしたりだとか、大吾の困惑だとかを悔やまない程度に受け流して冬の路地を進んでいく。頬を抱き寄せる冬の凍える風をものともせず、繋いだ手の温もりだけで充分だった。あの頃は大吾がこの手を引いてくれたが、今は違う。今はなまえが大吾の手を引き、街を闊歩している。失われた青春が姿形を変えて目の前に甦る。すっかり変わってしまった街の景観と大人になった少年少女を連れて。
行先はかつてをなぞるようでも、これからを切り開くようでも、どちらでも良かった。今、二人が隣に並んで歩くことが実現していれば、それで良いのだ。いつでも断絶の選択肢はちらついていた。逃れる為に捨てるのか、捨てる為に逃れるのか。向き合うことを諦める為に離れるのか、離れる為に向き合うことを諦めるのか。運命とは些細な糸が集まって編み込まれたものである。時に美しく、時に醜く編まれたそれを平凡な人生であったとは言えないだろう。
決して大きく交わることのない糸も存在する。たとえば、今ここで紡がれた物語もその一つである。史実とは大きく異なる、分岐点の先に続く未来だが、それでもこの物語が誰かの空白を埋める糸であって欲しいと願う。何故なら、彼の人の半生はあまりにも災難と選択の連続だった。常に何かを迫られ、決断せざるを得ない。大きな縄の綻びに括り付けられる程度の、ささやかな物語で良い。常に頑固な姿勢の幸福を砕いたその一片を散りばめられたなら幸いに尽きる。
そして、物語は進んでいく。幼い赤子がその足で一歩を踏み出すのと同様に、歩みを止めぬ者によって物語はひとりでに進んでいくのだ。堂島大吾はみょうじなまえの為に、最後の一日を共に過ごすことを選んだ。みょうじなまえは堂島大吾の心の在処を知っていたからこそ、本来人に見せることのなかった素顔を見せることにした。愛おしさを紐解き、大切の在り処を確かめる。もし、この日だけでも満足の行く時間を過ごせたなら、この二人はどの未来へと歩んでいくのだろうか。その答えになり得る場面描写を少しばかり編んでいくとする。
***
辺りはすっかりと薄暗がりに染まり、二人は白い吐息を連ねながら夕闇の神室町を歩いている。車のヘッドライトが眩しく交差する昭和通りを、なまえは建物沿いに、大吾はガードレール沿いに歩く。楽しい一日だった。どこへ行き、何をしたか。それはあまりにも平凡で特別感などない、そんな遊びだった。だが、胸は深く満たされていた。通学中に行き先を変更して海に行った日のことを思い出すほどに、二人は自由な時間を過ごしたのだ。
ゲームセンターでは、当時とまるっきり勝手の違うクレーンゲームに大吾が悪戦苦闘した。しかし、なんとか手に入れた文鳥をなまえに渡せば、昔と変わらないビジュアルをしたぬいぐるみがひどく愛おしい。ゲームセンターを後にすれば、あのポケサースタジアムはどうなっているのかと七福通り西を目指す。すると、既に別のテナントがビルに入っており、寂しさを友として思い出を語った。どうしてもコースのカーブで脱線してしまうなまえの機体を、完璧なカスタマイズした大吾の機体が走り抜けていく。その鮮やかさはコースアウトを悔しむ間もなく、ゴールの瞬間まで見蕩れるほどだった、と。
「今日はすごく楽しかったね」
「そうだな、懐かしい感じがしたよ」
「また大吾くんに取ってもらっちゃったね」
「お前は下手だからな」
「……大吾くんだって、何度も両替に行ってたのに」
「取るって決めた以上、後に引けるかよ」
すっかりからかい合うことにも慣れた。二人の間に畏まった空気はない、何も気負わずに話すことがどれだけ幸せなことだろうか。あれ程までに長く傍に居たと言うのに、今日ほど心の距離が近づいた日はなかった。二度と取りこぼしたりはしない、ささやかな幸せを密かに抱き締める。
「そう言えば、この道も通ったことあるよね」
「……そういや、そうだな」
「えっと、確か」
「ル・マルシェがある通りだ」
そう、ル・マルシェ。大吾くんと一緒に外のショーケース見たよね。まあ、子どもにしちゃあませてたかもな。
今もガラスの向こうに並ぶ貴金属やドレスの美しさを覚えている。散りばめられた宝石がドレスを引き立たせ、鮮やかなドレスは数多の輝きを纏うことで気品のある印象を漂わせていた。今日の終着点も恐らくそこなのだろうと、どこか見覚えのある店の外観に不意に胸が高鳴っていた。