「今から一人、構わないか」
「ええ、どうぞ」

 神室町某所。こじんまりとしたスナックの店内は無人で、先程やって来た男の他には、カウンター内で酒の用意を始めている女がいた。この仕事をして長いのだろう、女の所作には無駄が一切感じられない。男は正面の席に腰掛けると、女の顔を見ていた。多くの時間が流れ、男はようやくこの場所まで辿り着いたのだ。最後に会ったのは二〇〇六年の冬で、再会を果たせたのは二〇一九年の冬だった。
 男はかつて東城会の六代目会長である堂島大吾だった。つい最近、近江連合の渡瀬勝と共に二大極道組織の解散を実行した張本人である。つまりは元六代目会長である男が小さなスナックにやって来たのだが、その理由はカウンター内にいる女にあった。落ち着いた雰囲気が柔和なその女は、

「やっと、面と向かって良い話が出来る」

 ──── なまえ。
 名を呼ばれた女は酒を注いだばかりのグラスを堂島大吾の手元へと差し出すと、濡れた手を拭っている。女はかつて堂島弥生の元で大吾と共に暮らしていたみょうじなまえだった。堂島家の娘であることを公にはせず、神室町から離れた地で慎ましい生活を送っていた。東城会が近江侵攻を阻止してからも遠方での生活は続いたのだが、その数年後に神室町へと戻り、街の一角に小さなスナックを開いた。

「そう、それはよかった」

 あれから十三年もの時が過ぎた。東城会の会長として組織の運営を担っていた大吾は幾度となく組織内外の抗争、対立という局面に立たされてきた。時には命の危機に陥り、時にはトップに立つ人間としての重責に苛まれていたが、今の大吾はどこか肩の荷が下りたように安堵の様子が窺えた。
 だが、時が過ぎたのは大吾だけでなく、なまえも同様だった。出来るだけ待つと告げたなまえも等しく歳をとり、その左手の薬指には控えめに光る指輪が嵌められている。大吾はその薬指の輝きを目にすると、苦笑したまま酒を嗜む。

「その薬指の指輪、よく似合ってるよ」
「ええ、私の大切な人からの贈り物なんです」
「大切な人、か」

 指輪の表面は経年の劣化により、僅かにくすんでいるように見えた。恐らく一度も外さなかったのだろう、細かな傷による曇りだと気付けば大吾はより多く酒を流し込む。

「それで、良い話って?」
「お前ももう聞いてるだろ、」
「東城会と近江の解散でしょう?」
「ああ。だから、あの時の答えを聞きに来たんだ」

 なまえは唇をやんわりと噛み締めた後、カウンター内を抜け出ると大吾の隣に腰掛けた。手元には何もない。なまえは黙り込んだまま、左手から指輪をそっと引き抜き、あれから十三年が経ったと口にした。指輪が外された薬指の根元には、過ぎ去りし十三年を共にしただろう指輪の跡がくっきりと残っている。隣に大吾の姿はなかった十三年だ。
 苦楽を共にしたのも、日々の幸せを共にしたのも、心を強く揺さぶられる悲しみを共に乗り越えたのも、堂島大吾ではない誰かとの十三年だ。悔やまれる、叶うならばその隣に居てやりたいと思える空白の期間だった。あまりにも膨大な時の流れに、心変わりがあったとしても構わないと思えた。誰かを一心に思い続けることは容易ではない、ガラスの靴を履いて延々と雪原を歩き続けることと同じだ。

「なあ、今度こそ俺と一緒に居てくれるか」

 独り、打ち明ける。二〇〇九年には言えなかった胸の内を。嗜むように流し込んだ程度の酒では酔い切れぬ唇が若い青臭さに焼けている。もっと早くに言えていたらどれほど良かっただろう。悔やんでも悔やみ切れぬ思いを抱えて、ここまで一人で歩いて来た。神室町を離れ、元の生活へ戻った彼女がこの街にいるという知らせを聞いた日には、眠らせていたなまえへの思いが呼び起こされるほどだった。
 答えを急かすつもりではないが、大吾がなまえを見た時、その横顔がどこか寂しげに見えた。心変わりの可能性を垣間見たが、それは間違いであると、なまえの言葉に気付かされる。働き者の女の細い腕が、指先が左手の薬指に触れる。何を思っているのだろう、あの指輪は『指輪』であり続けたのだろうか。それとも、彼女を縛り付けるだけの『首輪』だったのだろうか。

「今なら一緒に居ていいの?」
「辛い思いをさせてきたのは分かってるつもりだ」
「東城会の六代目だったあなたに比べたら、大したことないわ」

 何も変わっていない。自身のことより、他者のことを気にかける性格も。辛いと言ってしまえば楽になれるだろうに、頑なに弱みを見せない姿も。あの頃のなまえのままだった。

「だから、驚いたよ。お前が神室町に戻ってきた時、まだその指輪を着けてくれていたと知って」
「だって、私のために買ってくれたものだから」
「捨てられていてもおかしくないと思ってたんだが、」

 出来なかったと言う。堂島大吾という男を忘れて、他の誰かに心を預けることが。やはり、なまえは真面目な人間であり続けたのだ。自身の為に買ってくれた指輪を、自身の薄情な理由で捨てられないと。なまえの中に変わらない思いが残っているのだと知る。それとなく問い掛ければ、一度だけ頷いて見せた。

「……じゃなきゃ、あの時貰った安い指輪着けてない」
「安い、か。あの時、丁度手持ちが少なくてな」
「手持ちがないなら、無理して買わなくても良かったのに、」
「ガキだと思うかもしれないが、どうしても渡したかったんだ」

 未練がましくたって構わないと思えたのは、長く傍に居続けたからではない。たった一人しか心を許せない相手がいたとして、その相手と離れることを受け入れられる人間がいるのだろうか。抗えない、わけではないはずだと強い衝動に駆られ、せめてもの賭けとして指輪を贈ったのである。

「お母さんはなんて?」
「自分の出る幕はない。好きにしな、だと」
「……ふふ、お母さんらしいね」

 なまえはようやく緊張気味だった硬い表情を崩し、次の目的地について訊ねた。大吾から次の拠点が大阪、蒼天堀になると聞いたなまえは何も持たぬ手のひらを見つめる。

「ここと変わらない騒々しい街だ」
「じゃあ、すぐに慣れそうだね」

 すると、熱の乏しい手のひらを握り締める大きな手に視線を奪われる。約束を取り外した左手に、計り知れないほどに苦労した男の手が重なっていた。逸らせぬ視線の先で密かに言葉を交わす。静寂は流暢に二人の間を取り持ち、二人にしか通じない言葉を介す。時折、緩やかに溶け、琥珀色の酒に沈む氷の音だけが聞こえる。

「なまえ、俺と一緒に大阪へ行ってくれないか」

 静寂は破られた。答え合わせの時間である。これから男が歩まんとする道はより険しく困難であると女には分かっていた。無理強いは出来ないが、聞かずには居られなかった。今日の目的は全てこの一言にある。遅過ぎた恋慕の結末は何であろうと受け止めるつもりだった、だが、

「私、昔からずっと大吾くんのこと待ってばかりだった」

 容易くカタギとしての日々は送れないだろう。ヤクザであったことが自身を苦しめる日がくるだろう。

「大吾くんだけが大阪に行ったら、次会いに来るのに五年はかかると思うの」

 なまえの昔と変わらない笑顔を見てしまったら、明確な答えを聞くのは無粋な気がして、大吾はそれ以上何も言えなかった。

「だから、もう待ってあげない」

 口付けはなまえからだった。あまりにも自然な口付けに大吾はそっとなまえの背中に腕を回すと、自身へと引き寄せる。触れるだけで充分だったそれは長くは続かず、再び二人の間を静寂が取り持っていた。


***


「……なあ、変だと思わないのか?」
「何が?」
「俺はお前に、好きでもない奴と結婚なんかするなって言ったんだぞ」
「そうだね、」
「それなのに、俺がなまえに一緒になってくれって言うなんて」
「……じゃあ、行かなくてもいいの?」
「それは話が違うだろう」
「なら、もう変なこと言わないで」

 すっかり空になったグラスを片付けるなまえの姿に見蕩れていた。綺麗だと自然に零せば、咄嗟に顔を上げて恥じらうなまえに口元が緩んでいく。そして、突然慌ただしくなったなまえが詳しいことは後で連絡してと添えると、神室町との別れが惜しくも、決して悪いことではないように思えた。


end.