自然と目が覚めた金曜、早朝。
いつもより早い時間に目が覚めてしまったのに、視界はすっきりと冴えていた。
部屋は青の濃淡に染まっており、それがなまえに夜が明けたばかりなのだと告げる。
もう一度眠ってしまっても良かったのだが、珍しくそんな気にはなれず、代わりに部屋のクローゼットの前に立つ。
控えめな音、ゆっくりと開かれるそこには、なまえの衣服が並べられていた。
順番をきちんと守り、その時を今か今かと待ち続けている健気な洋服達を横目に、なまえは袋を一つ手に取る。
見た事のあるショップのロゴが入ったその袋は、新品未使用の服があの時のまま、綺麗に収まっている。
なまえはそれを袋から取り出すと、すぐ近くにあるテーブルの前に座り、そのタグを取り始めた。
鋏を持ち出しては、タグと衣服を繋ぐ糸だけを切断していく。
今見てもそれは素敵な洋服だと思った。
色合いも、生地の肌触りの良さも、デザインも、形も。
なまえが背伸びをしたくなった年齢の壁だって、この服なら越えられる。
買って良かったのだと心からそう思えた。
金曜、なまえしか知らない密やかな早朝。
なまえの行動が、この後に待ち構えている出来事が、その傷口を塞いでくれる事を、なまえはまだ知らなかった。
***
昨日、一昨日と変わらない朝の時間に人波に揉まれ、今週四回目の出社を済ませ、今週最後の仕事に着手する。
今日はいつもより早く家に帰ろう。
ただそれだけを理由に時計の針が進んでいくのを、手元に残る仕事を一つずつ消化しながら待ち続けた。
何度も何度も針は回り続け、太陽もそれに倣うかのように青空の上を曲線を描きながら、辺りの風景をも巻き込んで、時間の経過を教えてくれる。
空が表情を曇らせ、橙に染まっていく瞬間はいつも見逃してしまう。
ふと気付いた時には遅く、青空がその瞼を閉ざして眠りについた後の夜闇が広がっている。
それは今日も同じなのだろう、しかし、今は空が眠りに落ちる前の橙色、少しだけ夜の尻尾が見えている。
なまえの今日だけは早く帰ると言う約束を取り出し、手元に積まれた仕事はもう無理に減らさなくてもいい量である事を確認した。
これなら、定時に上がっても大丈夫だろうと、帰り支度をこっそりと始める。
やはり金曜ともなれば、長い付き合いの得意な人でさえ、同じような事を考えるものだと知った。
辺りを漂う、今日は早く帰ろうと言いたげな雰囲気が、ここにいる人全てに感染するまであと一歩の所だった。
順調に退社していく人の背中を追って、なまえも職場を後にする。
景色は静観、時は黄昏。
空の微睡みで町は黄昏を気取る、その景色がやけに綺麗だと、歩みを遅くさせ、遠目に見惚れていた。
早く帰ろうと思っていた手前、予想外に綺麗なものを見つけてしまったなまえは、少しだけ町を歩いてから帰ろうと行く宛のないまま、神室町のどこかへと向かう。
人の波も今だけは同じ色に塗り潰されている。
適度な疲労と散歩のようにゆっくりとした歩く速度、控えめに感じられる騒めき。
自然と頭の中が空っぽになっていく感覚に長く浸っていると、どこからか不穏な音が聞こえて来た。
喧騒に紛れてなまえの耳に届いたのは、町の裏の顔を象徴する雑音。
たった数秒の悲鳴が、なまえに血の匂いを思い出させる。
辺りを見回しても、それに気付いたのは一人だけで、悲鳴に手を掴まれたなまえは連れていかれるようにその場所へと足を進めた。
大通り脇の細い路地、左右に分岐されたいくつもの曲がり角を、声のする方へ向かって行く。
何かあった時の為に携帯を握り締めながら、無機質、重い沈黙、コンクリートの壁の先へ顔を覗かせた。
呼吸が止まる、息を呑んだのはなまえだけだった。
地べたにはいつの日かのように人が倒れている、そして反対にその場に立っている人もいる。
建物の影が地面の水溜まりを黒く塗り潰す、これはきっと血溜まりなのだとなまえは知っていた。
この光景に似たものをなまえは見た事があるせいで、なまえは暴力の飛び交った喧嘩の後を、今この目で見ていると気付いたのだ。
立ち尽くしている二人組の男達がこちらを見やる、なまえは恐怖に口を塞がれている。
あの日の路地裏での出来事がフラッシュバックしていく中、目の前の男達はなまえの予想外の事をしてみせた。
「…お、おい、この人、」
「あ、ああ、もしかして…、」
男達はお互いに目配せをした後に、怯えるなまえの前に二人並んで立ち止まった。
「…すんまへん、あなたはみょうじさんではないですか、」
「……あ、あの、わたし、」
おい、怖がっとるやないか、もっと普通に言わなあかんやろ!と、もう一人の男が声を掛けてきた男に注意を促している。
「みょうじなまえさん、ですね、」
「はい…、」
「自分ら、真島組のもんです。すんまへん、こんなお見苦しいところを、」
「…い、いえ、でも、あの、どうして、」
なまえの曖昧な問いに目の前の男二人は顔を見合わせ、小さく頷いた。
過剰な怯えは何とか拭え、なまえはこの二人が有難いことに、自分に危害を加える気が無いのだと察する。
「…今からお時間、頂けないでしょうか。」
「みょうじさんにお話があるんです、」
「じゃあ、あの、どこか他の所で、お話しませんか…?」
危害を加える気が無いのだと分かっていても、警戒心だけは捨てられない。
確かに関西弁を話している辺り、あの人の所の人間なのかもしれないけれど、なまえが彼らの全てを信じる理由にはならなかった。
「分かりました。じゃあ、ここから近いアルプス言う喫茶店で、話しさせて下さい。」
それじゃあ、行きましょう。と男達はなまえを連れ、三人は凄惨な路地裏から離れた。
なまえが地に伏せている人物の事を気にしているのが、男達には丸わかりで、大丈夫ですよ、と声を掛けられた所で、なまえはまた少し表情を曇らせた。
その男達はなまえと距離を取りながら目的地へと向かう、時折こちらを振り返ってはなまえがいるかどうかの確認をしている。
きっと隣に並ぶのは良くないのだと、彼らはそう思っているのだろう。
それはどういった感情の伴うものなのだろう、見慣れない二つの背中を見つめながら、自然と前後に揺れる腕に視線を移した。
下に伸びる腕の先にある、軽く握り締められた拳。
それが振るわれる感触を知らない、それを振るう理由も分からない。
それらとは無縁の生活を送っていたなまえにとって、彼らの、真島の生きる世界は、神室町の影の世界だと言う事しか分からなかった。
ぼんやりと難しい事を考えている内に、正面の二人の足は喫茶アルプスと言う店の前で止まっていた。
さあ、中へ。と促され、三人は一緒に店内へと足を運んだ。
店員は三人を席へ案内した後、お冷とおしぼりを三つ、三人分置いて行くと、そそくさとテーブルから離れて行く。
「わざわざ、すんまへん。」
「いえ、…それで、お話と言うのは…、」
「みょうじさんは親父の事、どう思ってるんでしょうか。」
親父、聞き慣れない言葉に、沈黙を破れずにいると、ああ、すんまへん。と本日何回目かの謝罪を口にする男は、なまえに親父と言う言葉の意味を教えてくれた。
「つまり、その、私が真島さんの事を、どう思っているかって聞いてらっしゃるんですね、」
「ええ、…でも、別にワシらはみょうじさんの事を試しとる訳やないんです。」
更に思考が、くしゃくしゃに絡まった糸くずのように混乱する。
「ワシらは、親父にいつも世話になっとるんです。こんな自分らでも親父の為に何か出来ることがあるんなら、」
それをやらな、あかん思うとるんです。と、なまえの目を真っ直ぐに見つめて話す男達の目が何かを貫く。
彼らの目からは恐怖などは感じられず、代わりに何かを懸命に訴えているように見えた。
その訴える何かをなまえは受け止めた、まだ警戒心は居残り続けていたが、これくらいは受け止めても良いだろうと思えたからだ。
「そう、ですね…、私は……、」
なまえは胸を詰まらせる思いを少しずつ言葉にした。
自分でも気恥ずかしいと思えるような言葉だったが、真面目に聞く姿勢をとってくれる彼らにちゃんと伝えておきたい事だった。
喫茶店の窓の外、黄昏を飲み込むように藍色の闇が近付いて来ていた。