「みょうじさん、今日はホンマに有難うございました。今、車呼んできます。」

おい、ともう一人の男に声を掛ければ、はい、と言う返事の後に、店の外へと出ていってしまい、店内に男となまえが二人きりで取り残されていた。
この人達にはなまえの遠慮が通じない、いつの間にか後ろにいる真島と言う存在があるからだろうか。

「…あの、この話は真島さんには内緒にしてください。その、恥ずかしいので、」
「そらぁ、勿論です!ワシらもこないな事してたやなんて、親父にバレるのは…、」

そうですね、とお互いに抱えるべき秘密があると頷いていると、先程店を出た男がなまえ達の元へとやって来た。
話を聞いていると、どうやら既に車が店の前に着いているようで、男達は二人顔を見合わせながらも、とりあえずは、と喫茶店を出た。
確かに店を出てすぐに黒のセダンが止まっている。
男達はそのセダンの運転席側に立つと、微かに空いた窓の隙間から聞こえてくる運転手の声と、何やらやり取りをしていた。
その会話は、身内同士であるのだと言うような、砕けた口調で交わされるもので、なまえはそのやり取りを終始眺めている。
男達は数分話した後、こちらへ視線を投げると、その内の一人が、こちらへ。と後部座席のドアを開けた。
暗い車内から漂う革の香りに、なまえはシートに腰を下ろす。

「みょうじさん、お気を付けて。今日はホンマに有難うございました、親父の事を、…よろしく頼んます。」
「いいえ、私の方こそ…、」


「誰に、何を、よろしく頼む言うとんのや。」


聞こえて来た声は、本当なら聞こえて来るはずのない、この場に居合わせていない人物のものだった。
会話の続きも行方不明、なまえと男も驚きに言葉を失っている。

「おい、はよ閉めんかい。…これ以上、手間掛けさす言うんやないやろなァ?」

低い声がなまえを通り過ぎて、男の耳に刺さる。
男は狼狽えるよりもまず、彼の放った言葉に深く頭を下げ、すんません、失礼します。と静かにそのドアを閉めた。
車内の沈黙は運転席に座る人物の溜息で破られ、なまえは溜息混じりに吐かれた声にようやく理解する。

「真島さん、どうして、」
「どうしてもこうしてもあらへんやろ、俺はただ車がいるやろなぁ思て、持ってきただけや。」
「…でも、」
「走るで、ちょっとしたドライブや。」

ガリッと鳴るシフトレバー、何かが外れたように聞こえるパーキングブレーキの解除される音、ゆっくりとアクセルは踏まれ、なまえと真島を乗せた車はその場を離れた。
町に蔓延る光源が暗闇に泡のように浮かんで、夜景は穏やかに流れていく。
なまえの中にその景色が自然と流れ込んで来て、一体この状況がどんな状況なのかとか、突発的な密会を取り付けた彼らがどうなってしまうのかとか、雑念に似たものが挨拶もなしに出て行ってしまった。
真島は運転を始めてから無口になってしまい、なまえもその邪魔をしない様にと口を噤んでいる。
話しづらい雰囲気では無かった、今はただ言葉なんて要らないと思っていたからだ。
今夜の夜景が流れていく様を、なまえはぼうっと他人事のように眺めていた。



***



黒い波が寄せては返し、ぼろぼろと崩れてはまた同じ事を繰り返す。
人々の喧騒とは違う騒めきに包まれる、肌を、髪を、衣服を撫でる潮風が涼し気で、夜の海を知る。
今日、早く帰ると言う約束が遂に破られたのだと気付けば、何処からとも無く煙の匂いがした。
真島の吐いた煙が潮風に攫われていく、すぐに煙は塊のように解けて消える。

「真島さん、」
「夜の海っちゅうんは、味気ないのう。」
「どうして、ここに…?」
「ここならお姉ちゃんと二人っきり、静かに話が出来る思うただけや。」

デートは明日じゃないですか、と真島に向かって言えば、こう言うんは明日じゃあかんねん、と返ってきた。

「あいつら、なんて言うとった。」

真島が口にした『あいつら』とは、きっとなまえと一緒にいたあの二人組の男達の事だろう。
なまえは彼らと交わした言葉を漏らしてしまわないように、ごめんなさい、と自分自身に釘を刺す。
その様子を真島は黙って煙を吹かしながら、何も言わずに見ていた。
すれ違った視線の先には煙草を咥える横顔があり、その口元は微かに上に歪み、真島は笑っているようだった。
予想外の表情になまえは、今自分がいる場の空気は思ったより重いものでは無いのかもしれないとざわつく。

「ま、真島さん…?」
「大体察しはついとる。これでも長い事、あいつらの親やっとるんや、」
「……真島さん、」
「今からお姉ちゃんに話さな、あかん事があんねや。」

横顔がゆっくりとこちらを向く。
眼帯越しに真島の右目がなまえを捉える、なまえは並んだ両目でその表情を捉える。
是非、となまえの短い返事は、真島になまえの手を取らせた。
革に包まれた指先の感触を確認するように、なまえはそれを握り締め、真島に連れられるがまま、歩いて行った。


二人が腰を下ろしたのは、この地面と海の境目だった。
綺麗に切り取られたコンクリートの上は、今まで座っていた車のシートより固く、座り心地が良いものとは言えなかった。
足元に広がる海も今は闇に染まっており、黒々としている。

「あいつらと話しとったお姉ちゃんの事やから、俺の秘密ちょっとは知っとるんやろ。」
「…はい、真島さんが東城会の人だと、」
「そうか。確かにその通りや、お姉ちゃんとは、堅気の連中とは違う人間や。」

分かりきっていた事だった、そう答えれば、真島が首を縦に振る事を。
胸の傷に血が集中していく、どろりと流れ出たそれがなまえの胸からぼたぼたと零れ落ちていった。
棘が微かに震えた気がした、何かの前触れと言いたそうにぐらぐらと揺れる。
なまえはずっと聞きたかった疑問を言葉にした。


「どうして、教えてくれなかったんです…、」

それを口にするまで気付かなかった。
いつの間にか滲む視界の理由を、それを発した声の弱々しさを、真島も切なそうな表情をしていたという事も。
なまえの歪んだ視界がぽろりと一粒、瞳から零れた。
じわりと頬を不規則に濡らしていく涙が熱くて、それを遮るものは何も用意していなかった。
潮風も涙を攫いやしない、疑問は波音に掻き消され、暗闇が気休め程度に顔に影を落とすだけだ。
真島は小さく、あぁ、と間を置き、なまえの手を力無く握った。

「俺もホンマつまらん見栄張ってもうたんや、」

しょーもない思うやろ、俺もや、と呟くように続けた言葉を受け止める。

「…俺は分からんかった、あの時、何でお姉ちゃんにホンマのこと言わんかったのか。その事にもあんま時間を割かなかったんや、せやから、ツケが今んなって俺んとこに来たんや思うわ。」

「お姉ちゃんを泣かせるような見栄なんぞ、張らんかったら良かったんや。」

独白のように淡々と時折、言葉の端々に苦味を残しながら、真島は今、感情を吐露していた。
なまえはそれを波音混じりに、ひたすらに聞いていた。
挟む口を持たず、涙を拭う腕も持たず、真島の独白を素直に聞いていた。

「なァ、お姉ちゃん。…すまんかった、」

たった一言、唇が紡いだ切なさの塊がなまえの前に差し出された。
これを受け取ってしまえば、胸の傷は癒えるのか。
この切なさを砕いて吹き飛ばしてしまえば、棘は抜けるのか。
悲しみや傷、涙に切なさを足した所で、深く爪痕を残した自己嫌悪が無かった事になるのか。

そんなものは初めから必要としていなかった。
なまえが初めから、最初から欲しかったものは、手にしたかったものは、言葉じゃない。
目の前で同じ様に顔を曇らせて、独り善がりの感情を我がものとしてくれる、彼だった。
なまえは握られた手を払い、代わりに真島にその身を預けた。
真島は、うおっ、と驚いていたようだったが、突然しがみついて来たなまえを受け止める余裕は無く、二人はそのまま真後ろに倒れた。

お互いに真横を向いてコンクリートに体を預ける、脇腹には鈍い衝撃と地べたの固さが伝わる。
さざ波が静寂を口ずさむ、横たわる二つの体は小さい方が大きい方へ身を寄せ、大きい方はその小さな体を抱いた。
そして、女の孕んだ悲しみを宥めるように、男はただその小さく丸まった背中を何度も何度も撫でていた。