ぐずぐずに泣き濡らした頬に革の指先が触れた。
真島が悲しみを宥めてくれたお陰で、胸がすっきりとしている。
それでも尚、頬を濡らす涙をその指で攫おうとしてくれているようで、なまえは真島をただ見つめていた。
真島もなまえの事を見つめてはいたのだが、なまえが涙に潤んだ瞳で見つめ返してからは、どこか照れ臭そうに視線を逃がす様になった。
しかし、革では要領を得ないと、真島は革手袋を外しては放り投げた。

真島の指先が涙を一粒ずつ攫っていく。
何度なまえが瞬きをしてそれを零そうとも、真島は何度でもそれを拭った。

「…そない泣くなや。お姉ちゃんの泣き顔は、あんま可愛くないのう。」
「な、なんてこと言うんですか、…人が泣いている時に、」

まあ、好きで泣いてる訳じゃ無いですけど、と視線を逸らしたなまえに真島はこう続けた。

「お姉ちゃんの笑うとる顔が俺は好きや、…泣かせといてなんやが、もう泣き止んでもええんやないんか。」
「…はい、分かりました。真島さんがそう言ってくれるなら、」
「おう、なんべんでも言うたる。それにもう充分過ぎるくらいに泣いたやろ。」

小さく頷いたなまえは、体が痛いと呟きながら、その体を起こした。
結局まだコンクリートの上から離れられずにいたが、いつまでも寝そべっていると明日のデートに響く気がして。
先に起きたなまえにつられて、真島も後を追うように体を起こす。
二人並んで座る様を、夜空も夜の海も見ていた。

「…随分、泣き散らしたなァ、」

まだ頬に触れる指は離れない。
涙をなぞるように指先は暖かく、その肌に触れる。
呼吸の際に鼻が鳴ってしまえば、真島は笑うでも無く、なまえの赤くなっているであろう鼻の頭を撫でた。

「もう、大丈夫ですから、」
「いや、まだや、」
「あの、真島さん、」
「まだまだや、」
「えっと…、」
「…なァ、お姉ちゃん、」

はい、といつも通りに相槌を打ったつもりだった。
なまえは少なくともそうだと思っていた。
しかし、いつも通りと言うならば、今目の前にある、切なさに取り残された真島の表情は何なのだろうか。
肌に触れていた真島の指先が躊躇いを含む、なまえは力無く離れて行く指先を止められなかった。

「真島さん…?」
「お姉ちゃん。今度は俺の話、聞いてくれや。」

勿論と頷いたなまえが救いだと言わんばかりに、真島の表情が揺れる。
真島のその様子は初めて見るものだった。

「俺は堅気の人間やない、東城会の人間や。」

それがどういう意味かわかるか、と教え諭すような口調で、真島は酷く真剣さを醸している。
なまえにはその言葉が持つ意味が、計り知れない程に強大なものだと知っていた。

「今ならまだ間に合う、せやけど、これから先はもう戻れへん。」

なまえは静かに頷く、懸命に真島の言葉を聞いている。

「東城会の名を背負う前に、俺も一人の男や。…せやから、お姉ちゃん。俺の我儘を聞いてくれるか…、」

なまえは再び頷いた。

「明日は、明日だけは、ただの男として付き合うてくれ。」

真島は弱々しい声でそう告げた、なまえは精一杯自分の涙を拭ってくれた、武骨な手を包むように握り締めた。
まるで別れを惜しんだあの夜と同じ様に。
なまえは何も言わなかった、その代わりに寄り添う手のひらが返事であると真島は気付いた。

「…ほんまに物好きな、お姉ちゃんやなァ、」
「真島さんだって、物好きが好きな、物好きじゃないですか、」
「せやな、…せや、お姉ちゃんの言う通りや。」

物好き同士、ろくなことにならへんわ。そう呟く真島は、いつもと同じ真島に戻っていた。
切なさを吹っ切ったように真島は笑う、なまえも歪む視界を最後に一滴ずつ零して笑う。
そして、再び自分の役目を思い出したかのように、真島の指先は最後の涙を拭っていった。

二人の間に涼しい風が吹く、じっとりと湿った雰囲気が一掃される。
見つめ合う二人、包み込む静寂、辺りには誰もいない。
お互いが磁石のように引き寄せられていく、きっともうすぐ二人は唇を重ねるだろう。


と、思われた一瞬、どこからともなく、怪獣の呻きのような音が響き、その雰囲気を引き裂いた。
心当たりがあるのは、なまえの腹部である。
二人は目を丸くして言葉を失う、この感覚、前にどこかでも。

なまえの視線は、手当たり次第にあちらこちらへと逃げ、真島も珍しく視線を夜空へと逃がす。
意識しすぎは良くないのだと気付かされる、きっとまともに真島の瞳を見れないだろうと思っていた。
しかし、全てが過去の繰り返しという訳ではなかった。
恥ずかしさに視線を逸らし続けていた罰だろうか、視界がゆっくりと揺れた理由に気付けない。

苦味、それが口内に広がる。
なまえの味わった事のない苦味が二人を繋いでいく。
苦い、確か真島は、先程まで煙草を吸っていたのだと、頭が数分前の真島の姿を引っ張り出してくる。
しかし、ぼんやりと停止していた思考が急いで稼動し始めた。
未だに重なる唇は微かに震え出す、焦りから開きっぱなしの瞼を下げてみたものの、それはどうやら遅すぎたらしい。
ほぼ同時に唇は離れていった、熱はこの瞬間から奪われ始め、苦味はゆっくりと薄れていく。

誰かの笑いを堪える声が聞こえてきた。
それが誰かは察しがついている、広がる視界の中心にいるのは、やはり笑いを堪えている真島。
乙女心が牙を剥く、腑に落ちない、今はそんな雰囲気じゃなかった筈だ。

「真島さん…!笑わないでくださ…、」

なまえの意志を遮ったのは真島自身だった。
大きな体に抱かれ、背中に腕を回し、優しく包み込まれる。
首筋に吐息を感じる、真島の顔はそこにあるのだろう。
しかし、真島の揃った毛先が何度も頬を擽る。
なまえは我慢を覚えながら、与えられたお返しにと真島の背中を何度も撫でた。
彼の気が済むまで、幸いな事に辺りには誰もいない、この埠頭にはなまえと真島の二人しか居ないのだから。
もうええ、と言ってくれるまで、なまえはこのまま真島の事を引き受けていようと、そう思った。



案の定、真島は、もうええ、と言った。
おおきにな、と付け加えてくれた事で、真島が今度こそ、いつも通りに戻ったのだと分かった。

「真島さん、明日はどこに連れて行ってくれるんでしょうか。」
「…秘密や。そないな事、今ここで種明かしなんか出来へんで。」
「私、楽しみにしてるんです。約束をしたあの日から。」
「奇遇やな、俺もや。」

二人はどこか、靄が晴れたかのようにすっきりとした顔をしていた。
きっと二人は泣いていたのだ。
目に見えようとも、目で見えなくとも、心が緊張し、張り詰め、誰に悟られるでも無く、泣いていたのだ。
感情の吐露、どちらも相手を蔑ろにはしなかった。
その熱く扱いにくい感情をしっかりと受け止め、お互いにそれを飲み込んだのだ。
まるで何かを契るように。
切られた糸がまた結ばれる、失われた感情も失われた色も、あの空白の感情も全て、今この瞬間をもって完全に補完されたのだ。

「…明日、デートが終わったら、またここに来たいです。」
「ほんなら、最後はそこで腹を割って話そうや。」
「はい、明日が楽しみです。」

ああ、と真島の声を最後に、二人はまだしばらく埠頭から離れられそうになかった。
そんな二人の身を寄せ合う姿を、夜空はただ黙って見つめていた。