覚えているのはざわめく波の音、真島の言葉、神室町へと戻る車中で見た流れていく景色。
遠目に見えていた町の景色も、いつの間にか車のすぐ外にあって、なまえはその景色が自分のアパート近くに来るまで沈黙を口にしていた。
それから、なまえは家の前で車を降り、下がっていく運転席の窓越しに、ありがとうございました。明日はよろしくお願いします。と真島に告げた。
おう、また連絡入れるわ、と言い残し、真島は運転席の窓を閉め、そのままなまえのアパートを後にする。

小さくなっていく車のナンバープレートがぼやけてしまうまで、なまえはアパートの前に立っていた。
それからはあっという間で適当な夕飯をとり、適当に入浴を済ませ、布団に潜った。
ただ真島と約束した明日が迫っているのを感じながら、今夜二人で話した事を何度も何度も思い返しては、真島の言葉や行為の意味を一つずつ飲み込んでいく。
おやすみなさい、と照明の消えた暗い部屋に言葉を放した。

『明日は、明日だけは、ただの男として付き合うてくれ。』

真島の放った言葉が今も頭から離れない。
明日が待っている、真島が待っている、その言葉への返事が待っている、あの海が待っている。
天井を見つめる瞼を閉じた、ゆっくりと眠りの淵に誘われて間もなく、なまえはその向こう側へと落ちていった。



***



自然と瞼が開かれ、視界を覆っていた暗闇が消える。
目覚めはすっきりとして、なんの曇りもなく、眠気に後ろ髪を引かれたりしない。
部屋の時計を見れば、平日とあまり変わらない起床時間に驚く。
本当なら、もう少し遅めの時間に起きるつもりだったが、目覚めてしまったものは仕方がないと、なまえは寒色の早朝、鳥のさえずりを聞きながら、布団から出ていった。

布団から出て、まずやった事と言えば、携帯に真島からの連絡が来ていないかどうかの確認だった。
ぱっと光る小さな四角のディスプレイには、メールアイコンがたった一つ。
なまえは穏やかな感情のまま、そのメールアイコンの表示を消すべく、メールフォルダを開いた。
新着は一件、差出人は真島、タイトルは今日のデートについて、内容は準備が出来たら連絡が欲しいと、あの関西弁で綴られていた。
送信時間は深夜帯で、昨日別れた後にこのメールを送ってくれたのだろう。
静止していた感情が大きく揺れていく、今日は真島との約束の日であると。
そして、昨日真島が口にした、祈るような願いをなぞるように思い返す。
彼がただの男でいてくれるなら、なまえは自分も同じようにただの女でいようと思えた。
癒えた傷口も、吐き捨てた自己嫌悪も、全ての始まりも、待ち構える全ての終わりも、何もかも今日はこの部屋に置き去りにして、純粋にみょうじなまえと言う一人の女として、真島の隣に立ちたい。

部屋の寒色を外から差し込む暖色の光がゆっくりと溶かしていく。
なまえは携帯をテーブルに置き、窓際へ近付くと、閉め切っていたカーテンを左右に押し広げ、部屋いっぱいに暖色を取り込む。
眩しい、けれど、ほんのりと暖かい。
窓枠に綺麗に収まった景色は晴天、青空にゆったりと流れる雲は自由気ままで、太陽さえも青空にその身を預け、空はただそれを良しとしている。
とても清々しい程に晴れた空を見て、なまえは早く真島に会いたいと洗面所へと向かう。
どうしてだろう、単純だからだろうか、なまえと言う女が、自分自身が。
単純で良い、素直のままで良い、ただ真島に今日はいいお天気ですね、と伝えたかったのだ。
きっと、彼は空を見上げてくれるだろう、そして、せやな、と返してくれるだろう。
その会話が聞きたくて、そんな他愛もない会話がしたくて、なまえはようやく身支度を始めたのだった。


それからなまえが最後の確認として鏡の前に立ったのは、身支度を始めてから約一時間ほど後の事だった。
あの夜に買った黒のパンツ、ライトベージュのカットソーに身を包み、化粧はいつも通りのナチュラルなものを選んだ。
デートと言うならば、少しだけ物足りないのかもしれない。
しかし、今日のデートはそこまで自分を作り上げなくていい、今日だけは彼もただの男なのだ。
だからこそ、なまえもあまり着飾らず、いつもと変わらないふらっと外に出て行けるような装いで良かった。
なまえの身支度は整い、緊張に高鳴る胸を落ち着かせ、待ちぼうけをくらっていた携帯電話を手に取り、着信履歴から『かっこええお兄さん』を選んで、ボタンを押し込んだ。

ついこの間と同じだと笑みが零れた。
なまえが熱を出してしまい、真島がちゃっかりと差し入れをしてくれた日のようだと思ったのだ。
真島はまだ携帯を取れずにいるのだろうか、呼び出し音は止まらずに続く。
耳元に意識を集中させていたのだが、不意に部屋の外から聞こえる、勢い良く階段を駆け上がってくる乱暴な足音に気を取られた。
それは丁度、なまえの部屋の前でピタリと止まり、不思議な事に携帯電話の着信音も聞こえてくる。
これはどこかで見たような、聞いたような、と妙な直感になまえは玄関へと向かい、閉ざされたままの扉を開けた。

その瞬間にまずいと思った、強い手応えを感じる、あくまでもそれは物理的な意味で。
鈍い音と衝撃、これはまたあの日の時のようだ、と頭を抱えて、扉の向こうへ顔を出せば、やはり。
一枚扉を隔てた向こう側には、顔を手で押さえながらうずくまる真島の姿があった。
その手には携帯電話が握られており、未だ着信音を鳴り響かせている。

「まっ、真島さん…!」

悲鳴のような声を上げながら、なまえは急いでうずくまる真島の近くへと駆け出す。

「大丈夫、ですか…?」
「お、おう、心配せんでええ、…ただちぃ〜っとばかし顔が痛いだけや。」
「ごめんなさい。まさか真島さんが居るとは思わず…、」

流石に妙な直感に従ったとは言えず、ひたすらに謝罪を続ける。
ようやく痛みが薄れて来たのだろう、真島はその場で立ち上がり、地に着いてしまった膝元をぶっきらぼうに払う。

「もう本当に大丈夫なんですか?私も結構、強く開けちゃったかもしれなくて…、」
「こんなんかすり傷みたいなもんや、痛くも痒くも…、」

真島の言葉が遮られた。
その理由はなまえには分からない、これはきっと多分、真島が自分でそうしてしまったのだろうと気付くのは、次の言葉を耳にしてからだった。

「…今日はえらい美人やないか。」

頭のてっぺんからつま先の全てに、目線を上下に投げかけた真島の言葉になまえは頬が緩んでいくのを感じた。
まだ出会って数分しか経っていないのに、笑顔さえまだ見せていないのに、ぱっと一目見ただけで、この人はどうして、そんな嬉しい事を言ってくれるのだろうと、なまえは声を上げて笑っていた。

「なに笑てんねん、…ホンマにおかしいやっちゃのぉ、」
「だって、真島さんが美人だなんて言うから。まだ顔を合わせて少ししか経ってないのに、」
「ええやろ、俺はただ正直なだけや、」

なまえの笑いは次第に小さくなり、やっと落ち着いた所で、なまえも言葉を投げた。
先程の真島と同じような言葉を、笑ってくれたなら嬉しいと思惑を胸に秘めながら。

「真島さんも、今日は格好いいです。とっても。」
「今日は、ってなんやねん、昨日泣き過ぎたせいで目ん玉曇っとるんちゃうか。」

いつも格好ええです、の間違いやろ、と真島は眉間に皺を寄せて凄んだかと思えば、にかっと大きな口で笑っていた。
かっこええお兄さんですもんね、と返せば、せや、とたった二文字が返ってきた。
聞き慣れた返事だった、何気ない会話でもそれはよく耳にしたし、メールをしていても、その文字を見ることは多々あった。
それなのに、その返事が聞けて良かったと安堵する自分がいた。
自信満々で、さも当然と言いたそうな含みを持たせた、その二文字がなまえは聞きたかったのだ。

「もう準備はええんか?」
「あ…、バッグ取ってきますね…!急いでこっちに来ちゃったから、」
「おう。ほんなら、待っとるわ。」
「はい、ちょっと行ってきます…!」


再び扉の向こうへ戻っていくなまえを見届けた真島は、ぼんやりと空に目線を移した。

「行ってきます、か。…悪くないのぉ、」

ゆったりと泳ぐ雲が気楽そうだと思えば、差し込む太陽の光の眩しさに気付く。
今日は晴れていて、日差しも仄かに暖かく、過ごしやすい日だと。

「よう晴れとるなァ、」

真島はなまえが出てくるまで、煙草にも手を付けず、ただ空を静かに眺めていた。