お待たせしました、と慌ただしく真島の前に現れたなまえの手には、お目当てのバッグが握られていた。
真島は暖かな背中に微睡むような気持ち良さを感じながら、なまえを見る。
その顔がどこかのほほんとしているものだから、なまえは少し驚きながらその顔を見つめていた。
ん、どないしたんや、と眉間に浅く皺を寄せた真島の一言に、今日っていいお天気ですね、と返す。
すると、せやなあ、お姉ちゃんを待っとる間、背中がずうっとぽかぽかしとってあったかかったんや、と真島は穏やかさを口にし、体を伸ばした。
なまえは、やはり真島は『せやな』と返してくれるのだと静かに微笑む。
「ほな、行こか。」
「はい。今日はよろしくお願いします。」
頭を下げて、今日を共に過ごす真島に改めて挨拶を済ませる。
いつも通りの自分でいたい、そう思っていたのに、真島本人を目の前にしてはそれがとても難しい事だと知った。
妙にかしこまってしまった自分自身に緊張感が悪戯をする。
暖かな日差しの中にいる真島の姿を見て、不意にも胸を高鳴らせるのだ。
まったりとしていた表情や雰囲気を一新し、なまえが見慣れた、いつもの真島がそこにいた。
なまえは自然と髪に触れ、弄ぶでもなく、ただその髪を耳にかける。
「じゃあ、俺が先に降りるわ、」
「…いいですよ、今日は私、スカートじゃないので。」
「せやったわ…。まァ、しかし、お姉ちゃんが足滑らせて落ちひんなんて事も無いからのぉ、」
カツ、カツ、と革靴の鳴る音、コツ、コツ、とヒールの鳴る音が順番に仲良く聞こえてきた。
数段先を降りていく真島に、高低差が逆転していると気付く。
初めて真島の頭頂部を目にする、右側に大きく分け目が作られており、一定の長さに揃えられた毛先や頭髪は、どこも黒々としている。
珍しい光景はそれから数段後に終わってしまったが、今からようやく二人の企みが始まるのだ。
待ち侘びていた、今日というデートの日を。
晴天の下、朝日が似合わない神室町へと二人は並んで歩き出した。
はよ行くで、と真っ先に車道側を歩いて行く真島の左側に立つ。
「今日はお車じゃないんですね、」
「車で神室町を行き来すんのは面倒やからなァ、」
「確かに、駐車場代とか掛かっちゃいますもんね、」
「まァ、別にウチのに車回させても良かったんやが、…折角のお姉ちゃんとのデートが台無しになってまうからな。」
それに、今日は健全な真島吾朗として神室町に行くんや、と胸を張って歩く姿がどこか子供のように感じられて、なまえは、そうですね、と返事をする。
じゃあ、今日は健全なデートが出来るんですね、と話を振り返してみれば、言葉を詰まらせながらも、おう、と答える真島の様子は苦しそうだ。
さ、酒は飲んでもええんやろ?と恐る恐る聞いてきた真島の、懇願するような瞳に、とある人物の言伝を思い出し、OKサインを出す。
デートプランの有無は気にしない、しかし、夜もまだ一緒にいれるなら、どうしても行きたい所があるのだ。
それはあの居酒屋の気さくな厨房の彼との約束だ、真島にもあそこのモツ煮が美味しい事を教えてあげたい。
多少のアルコールを事前に許された真島は、既に上機嫌と言うように鼻歌を歌っている。
何の歌かはよく分からなかったが、その鼻歌の癖が強い事だけは分かった。
どうして、本当にこの人は、こんなに楽しそうなのだろう。
まだ神室町に着いてもいなければ、ついさっき顔面強打したばかりだと言うのに、彼の瞳にはこの景色がどのように見えているのだろう。
なまえには視界の全てが暖かな色に染まっている、真島のいつもと変わらない格好も日差しの暖かなフィルターにかけられて、やんわりと世界に溶け込んでいる。
ただ歩道を歩いているだけ、それだけでもなまえにとっては、真島の左側に立ち、並んで歩いて行けるこの道が好きだと思えた。
なまえと真島は天下一通りに立っていた。
あれから、真島から今日のデートプランの話が上がり、その話を聞いた上で、なまえは真島の希望通りで大丈夫だと告げた。
その為、二人は家から近い通りをあえて避け、この場に立っている。
理由は何か、今日は健全に神室町に遊びに来ているのだから、やっぱりここから入るべきやろ、と健全な真島吾朗がそう言ったのだ。
そこまで拘らなくても良かったのだが、向こうがそこまで健全を突き詰めてくるからには、それに応えなくちゃ、と真面目であるなまえの一面が顔を覗かせた。
じゃあ、行こか、と二人は交互に言葉を交わし、今日限りの舞台である神室町に足を踏み入れたのだ。
夜に比べれば控えめな人の波に、はぐれてしまわないよう、二人はお互いの隣にいることを意識し、その波に身を投じる。
どこかの誰かさんが行きつけにしているようなバーの看板や、何度も立ち寄ったことのあるコンビニ、今は消灯している大きな照明付きの看板、見慣れた建物の並びになまえは不思議と新鮮な気持ちを抱えていた。
十二時ぴったりに解ける魔法のように、明るい神室町は質素で消極的な印象を受けた。
天下一通りを真っ直ぐ進んでいると、暖かく漂うソースの匂いに意識を奪われる。
その食欲をそそる匂いを吸い込めば、たこ焼きやな、と真島は右手の親指で指し示す。
身を乗り出した視線の先には、天下一通りから泰平通りへと続く道の手前に位置するたこ焼き屋の看板が見えた。
匂いにつられていくなまえの姿を目で追いながら、真島が買うたろか、と声をかければ、食べましょう!と前向きで嬉しそうな声が返事になって返ってきた。
店先に並べられたメニューから、なまえは悩ましい声を上げる。
真島は、これとかええんちゃうか、となまえに尋ねては、更に彼女の優柔不断さに拍車をかけた。
ドリンクは今は要らないとしても、問題はフードメニューだ。
シンプルなものから、店がこだわっているトッピングのものまで、なまえは一通り目にしては、うんうんと唸りながら悩んでいる。
「…お姉ちゃん、俺のワガママ聞いてくれるか?」
「え、はい、なんでしょう、」
なまえの意識がたこ焼きから真島へと変わった瞬間、真島は受付の男性に、このたこ焼き、一つ頼むわ、と手早く注文を済ませた。
ありがとうございます、今お持ちします、と店員の声になまえは察する。
「お姉ちゃんに、俺の頼んだたこ焼き食うてもらいたいんや。」
ええやろ?とこちらを覗き込む真島の目には、してやったりの文字が。
「お姉ちゃんは優柔不断なんやなァ、」
「真島さんは即決でしたね、」
「せや、こんなん悩む必要のない悩みや。」
「真島さんのそういうところ、羨ましいです。」
なまえの瞳に小さな星が浮かぶ、真島はその眼差しを悪くないと思いながら、更に話を続けた。
「お姉ちゃんは見かけによらず、欲張りっちゅうことか、」
「…よ、欲張り…?そんな、言い方やめてください…、」
「ああ?ホンマの事やないか、何を恥ずかしがっとんねん。」
なんか、恥ずかしいです…!と瞳に転がしていた星はどこかへ消え、なまえは顔を背けてしまった。
一体何を恥ずかしがることがあるのだろう、と真島は首を傾げる。
真島には、なまえが理想とする慎ましい女性と言う答えを見つけられなかった。
理想なんて有って無いようなものだが、こういう時ばかりその顔をちらつかせてくる。
なまえは欲張りであると言う印象を払拭したいと思っているのに対して、真島はあれもこれもと目を輝かせて悩んでいる姿が可愛らしいと思っていた。
このすれ違い、いつ和解するか、きっとまだ先の事だろう。
「お待たせしました。こちら、お会計が…、」
ぎこちない雰囲気の中、店員の声がそれを遮る。
そのおかげもあり、真島は店員から鰹節の踊るたこ焼きを受け取り、その様子を見たなまえはバッグから財布を取り出し、コイントレーに百円玉を三枚、十円玉を一枚並べた。
丁度お預かりしますね、と手を伸ばす店員に、レシートは不要である事を告げ、少し離れた所にいた真島の元へと駆け寄って行った。
その手には小さな舟にたこ焼きが八つ相席しており、辺りに白く漂う湯気とソースの匂いをなまえは胸いっぱいに吸い込んだ。
「お姉ちゃんに買うたるつもりやったんやけどなァ、」
「ふふ、別にどっちでもいいじゃないですか。それに食べたいって言ったの私ですし、」
「お姉ちゃんがええなら、ええわ。」
ほれ、と差し出された楊枝の先には、ほかほかでまんまるなたこ焼きがあった。
ソースにマヨネーズ、鰹節にわざわざご丁寧に青のりまで、全てが一つのまんまるの上に乗っている。
なまえは猫舌である事を思い出し、二、三度息を吹きかけてから、その小さくて美味しい爆弾を口に運んだ。
舌に広がるその熱に熱い熱いと口にし、たこ焼きを食べたい気持ちに駆られ、少しだけ、と歯を立てれば、更に中からとろりと広がる閉じ込められた熱に苦しんでいた。
はふはふと口の外に熱を逃がしているなまえの姿は、とても忙しそうだ。
その流れがまるでお決まりのようだと、真島は自分の口にもたこ焼きを運んでは、上手くその熱と付き合いながら、一人食べ進めていく。
二人のたこ焼きはまだ六つ並んでいる、真島はあと二つか、三つやな、と口に残る歯応えのある蛸を噛んだ。