視界に飛び込んできたのは、凶器の鈍色と血の赤。
数え切れない程の人数だった彼等も、いつの間にか両手で数えるくらいにまで減ってしまい、なまえは常に緊張していた。
その姿勢は映画にのめり込んでいるとも言え、彼等が別の場所へ移動する度、誰かが単独行動をとろうとする度、一人が仲間を庇って離れ離れになる度、誰かが負傷する度、自然と表情が変わっていく。
ある時には不安そうで、ある時には悲しそうで、ある時には安堵し切っていて、ある時には絶望している。
絶体絶命の状況、救助も無いに等しい世界になまえはいた。
目に見えないそれは人の体を奪い、人間を生物兵器と変える。
知能さえも奪われた人間を生物兵器と呼ぶには、あまりにも出来すぎた言葉のようで、そんな出来た存在ではない。
満たされることの無い欲求の奴隷、手当たり次第に人の血肉を貪り、生死を問わず、肉塊に成り果てても尚、忌々しい存在。
頭を撃ち抜く、頭を砕く、頭を潰す。
決して簡単ではないそれをやり切れず、腐敗した肉塊に呑まれていく彼等を息を潜めて見ていた。
真島となまえが選らんだホラー映画は、謎の感染ウイルスによって街の人々がゾンビと化してしまう内容のものだった。
なまえはそう言った映画はあまり苦手では無いが、ゾンビが突如現れようものなら驚き、恐怖に駆られるくらいには素直な鑑賞をする人間だった。
ここで一呼吸置くことにする。
少し前のめり過ぎた自分を引き戻し、上がり切った熱を冷まそうと飲み物を口にすれば、多少炭酸の抜けた甘い味が広がり、ポップコーンの塩っぱさが欲しくて、それに手を伸ばす。
しかし、それを手探りだけでは中々見つけられず、なまえはスクリーンに合わせっぱなしの視線を外して、手元を見た。
ここの座席には折り畳みのテーブルが設けられていて、確かそこに置いていた筈なのだが、と不意に右隣にいる真島の方を見れば。
ポップコーンの新しい住所は、真島の膝の上になっていたようで、なんだかんだちゃっかりと自分の所に置き、手袋も当たり前に外している真島に笑みが零れた。
隣人や辺りの視線は全く気にならない、空席で埋められているからだ。
実はこの場所、五番スクリーン内はガラガラと言っていいほど、空席が目立っている。
しかし、それでもちらほらと人の頭が見えることから、この映画を見に来たのはなまえと真島だけでは無い。
やはり休日のデートは恋愛映画で決まりなのだろうと、ここに入ってくる時そう思った。
一番から四番スクリーンに吸い込まれていく男女の多さに苦笑したけれど、定番をあえて外す事も案外悪いことでは無いと知る。
何故なら、真島はちゃっかりとポップコーンを自分の膝に乗せる人で、こう言ったゾンビ映画が好きな人なのだと知る事が出来た。
真島の口からは直に聞けていない、しかし、なまえにはそれが分かる。
先程気が付いたのだ、この映画を見る真島の表情がとても楽しそうで、上がったまま下がってこない、にやけた口元がそう告げている。
真島にしては素直な表情をしていると思い、ポップコーンが口恋しかった事を忘れ、なまえは行き場の失った手をそのままに、青白く照らされたその顔を黙って見つめる。
あまり見ちゃ悪いかな、と思う頃には随分と遅かったようで、真島の黒目が、黒目だけがなまえの方を見た。
顔を動かさず合わせられた視線に、なまえは心臓を掴まれたような気がして、口から小さな悲鳴が出ていく。
その反応が好感触であると、真島は大きく口を歪ませ、歯や舌を覗かせて笑う。
声を殺してにやにやと笑っている真島は、ポップコーンを一つ、二つ、と掴み、悲鳴の出て行ったなまえの口に一つずつ押し込んで行った。
塩っぱさが恋しかった口はそれを素直に受け入れ、真島の手が止まるまでなまえはポップコーンを食べ続けた。
もういらないと首を横に振れば、いくつか残っていた手のひら上のポップコーンをたった一口で、真島は食べ切ってしまった。
黒目も正面に戻り、なまえも同じように視線をスクリーンへと帰した。
腐敗した肉塊が波のように押し寄せる街並み。
手にした銃も残りの弾が頼りない数で、仲間と呼べるほんの数人はみな疲労や苦悩が滲んでおり、希望の『き』の字も見当たらない。
何も変わらないのは世界だけ。
人と関わりのないものだけは、他人事のように、ありのままに、この腐敗する世界に留まっている。
何者にも脅かされない自然と無機質のコンクリートだけが、安寧を手にしていた。
人が人の手によって滅んでいく、何度も恐怖に晒され、それでも生きる為に戦いを選ぶ。
弾ける血飛沫、次から次へと千切れていく腐敗した四肢、苦痛の呻きなのか、悲鳴なのか、区別がつかない鳴き声、嬉々として人を襲うゾンビ。
なまえは目まぐるしい死闘の数々を見届け、再び緊張に心を預けた。
つい目を覆いたくなるようなシーンもいくつかあった。
その時には顔を隠そうと持ち上げた手のひらを、真島の手が何度も攫っては優しく握り締めた。
そして、こちらを覗き、小声で怖いか?と問い掛けられれば、不思議と恐怖は薄れ、目を覆いたくなるようなシーンも、そのやり取りが終わる頃には次の場面へと変わっていた。
優しく手を握り締める真島を見れば、繋いだ手をそのままにして、しばらく映画を見ているなんて事もあった。
しかし、その大体は飲み物を取ろうとしたり、ポップコーンをつまもうとして解けてしまうのだが、必要とした時に、必要だと思われた時に、それを差し出してくれる真島の行為が嬉しかった。
ゾンビ映画の結末は、希望を掴んだ後にやってくる絶望か、破滅か、戦いが続くかのどれかである。
なまえと真島はそれを最後まで見届け、流れ始めたエンドロールに大きく深呼吸を挟む。
同じ姿勢になりがちだった体を伸ばし、映画の制作に携わった人物達の名前の羅列を眺める。
とても良い映画だったと思う。
詳細にそれを説明する語彙力は無かったが、真島との時間や感情が詰まった映画で、きっとこの日を胸の引き出しにしまうだろう。
そして、いつか再びそれを取り出し、思い返すのだ。
彼と二人でこんな映画を見たという事を、彼の優しさが嬉しかった事を、彼のその優しさに惹かれていたという事を。
さ、行こか、となまえより先に立ち上がった真島が言う。
なまえも、はい、と返事をし、空の容器になったカップを手に、二人は五番スクリーンを出た。
観客は少ない、映画を見終えた今でもざわめきは小さいままだった。
扉の先の世界は退廃した様子など無く、何も変わらない。
ただ久しぶりだと感じる明かりに目を眩まされる。
隣を見れば、同じように目を細め、怪訝そうな顔付きで目を閉じたり、開いたりを繰り返している真島がいた。
二人は険しい表情で隣に並んでいる、それをお互いが気付いた時、それをお互いに目にした時、一瞬でその表情は弾けた。
まずはなまえから、そして次に真島がそうだった。
「真島さんったら、そんな怖い顔して、ふふ、」
「ああ?お姉ちゃんも可愛ない顔しとったやろが、」
交わされるのは冗談を含んだ言葉。
徐々に光に慣れた二人は相変わらず隣に並び、なまえは頬を緩めながら映画の感想を、真島は相槌を打ちながらなまえと同じように映画の感想を口にした。
これから上映される映画を見ようと、入口からはどんどんと人が入ってくる。
その中ではぐれてしまわないように、真島はなまえの肩を抱くのでは無く、今度は寂しそうにぶら下がったままの右手を取った。
寂しそうとはきっとなまえは思ってはいない、しかし、真島はがら空きの手の甲を見た時に、自然とその手を取っていたのだ。
大きな手に包まれる感触、革の滑らかな肌触り、変に緊張し出す自分自身の手の内に、なまえは照れながらも真島の手を握り返した。
手を取って貰えた事に溢れる暖色の何かを感じながら、なまえは真島の左手に包まれる右手の居心地の良さに浸っていた。
「パンフレットとか、買っていきますか?」
「そんなもん、いらんわ。」
「どうしてです?」
「見たくなったら、また来ればええ。それだけやろが。」
「そうですね。じゃあ、その時は私も誘ってくださいね。」
真島は、せやな、と一言置いたのだが、その次には軽く鼻で笑い、でも、ええんか?と続けた。
なまえはその言葉の意味をどう捉えていいのか分からず、首を傾げる。
「お姉ちゃん、怖がっとったからのぅ。」
「そ、それは、ちょっと、驚いただけです…!」
「正直に言うてみぃ、痩せ我慢はあかん言うやろ。」
怖かった、です…。と素直に、しかし、真島の表情の変化に過敏になりながら答えた。
真島の手がやんわりとなまえの手を握り、ククク…と喉を鳴らすように笑えば、ほんなら、次はおもろいゾンビ映画にしようや、となまえを見た。
「ゾンビ映画に面白いとか、そうじゃないとかあるんですか…?」
「あるであるでぇ、お姉ちゃんもビックリするようなヤツとかのぉ、」
「それって、怖いって意味の面白いですか?それとも…、」
「そないな事、教えられへん。それに今ネタばらししたら、つまらんやないか。秘密や、ひ、み、つ。」
真島の企む顔が楽しそうで、ちょっぴり意地悪だとなまえは思ったのだが、これは二度目があると思っていいのだろうか、と考える自分を見つけ、握られたままの手が再び緊張を思い出していた。
この手をどう握れば、どう握り返せば、どのタイミングで離すべきなのか、出来ることならこのままでいても良いのか、分からなかった。
真島の横顔は、なまえの緊張にまだ気付いていないようだった。