相変わらず積まれたままのビールケース、夜風に泳ぐ暖簾、ガラス戸は暖簾と同じように夜風にガタガタと揺れている。
店内は明るい、前回、前々回と同じように大勢の客で賑わっており、ガラスの向こうにある顔は皆どれもほんのりと赤く、笑顔ばかりだった。
大きな音を立てて戸は開かれた。
その音に反応した店員はすぐに活気ある挨拶をなまえと真島に投げ掛けた。
真島よりも先に目配せをしたのはなまえだった、視線の先に探したのはあの厨房の彼。

「今日もえらい混んどるのぉ、」

真島はなまえの思惑に気付いていない、ただ混み合う店内を何度も見回しているだけだ。
なまえは厨房の彼とたった一回目を合わせると、軽く頭を下げた。
相手もつられたように頭を下げる、ここでようやくなまえは彼との約束を果たせたような気がして、まだこちらの目配せに気付いていない真島の後ろ姿を見た。
今夜の蛇の気分は魚だろうか、ここに初めて来た時も刺身定食が美味しいと教えてくれたのは真島だ。

もしその食欲に火がつけられるなら、つけてやりたい。
美味しいものを教えてくれたお礼がしたかった、なまえはいつも真島から何かを与えられ、差し出されてきた。
真島にとっては些細な事だったかもしれない、けれど、なまえも与え、差し出す側になりたかった。
夜が深まる、それが意味する事も分かっている。
もうすぐ分かれ道に立つだろう、ふと波の寄せる音が聞こえた。
その刹那、埠頭での真島とのやり取りが甦り、なまえの胸が静かに高鳴り始める。
とある未来の顔が見えた気がした。



「…お姉ちゃん、どないしたんや、」

真島の一言でなまえの海が消えていった。
ぱちんと弾けて消えた海が次第に居酒屋の賑わう店内へと姿を変える。

「向こうの席や、はよ行くで。」

真島の奥には先程の店員が立っており、席へ案内されるのだと知り、ごめんなさい、と一言挟んでから、店員と真島の後をついて行く。
先行く店員は、今日はちょっと混んでまして…、と店的には喜ばしい事情を説明してくれた。
すみません、こちらの席になります。と通されたのは、いつの日かと同じテーブル席だった。
慣れたように腰掛け、手にしたメニューに目を通す。
真島おすすめの刺身定食があり、なまえが先日食べる機会のあったモツ煮もそこには並んでいた。
真島に何を食べるか問えば、真島はやはり刺身定食と答えた。
それなら、となまえはモツ煮定食を選んでは、ここのモツ煮とっても美味しいんですよ。と返した。

「モツ煮…て、お姉ちゃんここ来たんか?」
「えーっと、まあ、ちょっと…、」
「そうか、…なんや妙な気分になってきたわ、」

案内してくれた店員が置いていったお冷を手に取り、中に浮かぶ氷を一つ口に含んではガリガリと噛み砕く。
なまえはその意味が分からずにいたが、真島が水を飲む姿を見てなまえもお冷に手を伸ばした。
冷ややかなそれを飲み込む、喉を潤してすぐなまえは店内を歩く店員とアイコンタクトを取り、控え目に手を上げた。
注文の意図を読み取った店員はこちらのテーブルへとやって来るようだ。



お冷の入ったコップは二つある。
一つは氷も水も減ってしまったもの、もう一つはまだ中身がたっぷり残っているもの。
注文を済ませた二人の間に会話は無かった。
真島は妙な気分と口にしてから、ただお冷の水と氷にかまけてばかりで、無口になった真島になまえの思考は首を傾げている。
周りの楽しげな声や食器の音がよく聞こえてくる、この席には料理を待つ弾んだ声が無い。
思考が『疑問』を『緊張』へと取り替えてしまい、心が今更疲労したように張り詰める。
真島が今何を考えてお冷を流し込んでいるのか。
相槌を打つように、なまえ自身もお冷を流し込んでは悩ましい思考が問い掛けた。

コップの底が鳴る、遂に真島は中身を飲み干してしまった。
その後に少し間を置き、ため息みたいな深い息を吐く。
このテーブルはまだ周りと同化出来そうにない。

「…お姉ちゃんは、今何を考えとる、」
「真島さんこそ、…突然黙り込んじゃって、」

あ〜…と空っぽのコップを握ったまま、真島は中身のないコップの内側を覗き込んでいる。
煮え切らない何かを持っている、そんな顔をして座っていた。

「私は、真島さんが何を考えているのか、考えてました。」
「…で、今の俺は何を考えとんのや、」
「お水飲み切っちゃって、おかわりが欲しい、…ですかね、」
「ほぉん…、そうかもしれへんなァ…、」
「ええっ、本当ですか…!」

お姉ちゃんはホンマに…、と固まっていた表情を崩して顔を左右に振った。
しかし、眉間の皺が浅くなったように見え、なまえは真島の煮え切らない何かに少しだけ触れたように思う。


「飯食ったら、埠頭まで行こか。」
「はい、」
「ところで、お姉ちゃんはいつこの店来たんや。一人か?二人か?」
「ひ、一人ですよ…!ちょっと仕事帰りにお腹が空いたから、寄ったんです。」
「…じゃあ、そん時食うたんか、」
「ええ。とても美味しかったので、今日は真島さんにも食べてもらおうと。」
「そういう事なら、はよ言わんかい!」

なんや、思わせ振りな事言いよって…、と突然真島は椅子の背もたれに全身を預けて、今度はそれはそれは大きなため息を吐いた。
このテンションの高低差になまえは面食らってしまい、何も言えなかった。

「…せやったな。物好きなお姉ちゃんに付き合えんのは、同じ物好きだけや、」
「な、なんですか、急に無口になったかと思えば…!」
「俺もお姉ちゃんに似てきたんかのう…、」

ぶらん、と長く垂れた腕で、真島は自分の顎髭を撫でた。
なまえは真島の横顔を見つめながら、残りのお冷を飲み干した。
すると、今度はなまえが妙な気分になってしまったようで、今は真島とぶつからない瞳を見る。
飲み込んだ水が喉の熱を奪いながら、真っ直ぐに落ちていくのを感じた。

「男っ気が無いのが、お姉ちゃんのええとこや。忘れたらあかんで。」
「…真島さんの良いところが分からなくなってきました、」
「何言うてんねん、俺はええとこしかないやろが、」
「ん〜…、そうですね、真島さんは良いところがたくさんあります、」
「今の間はなんやねん、」
「いえ、お気になさらず、」

お互いに、お互いの口角が上がっていくのを目の当たりにする。
なまえは何度も視線を逃がし、その合間に真島を見た。
真島は一定のペースで繰り返される瞬きを挟むだけで、なまえに焦点を当て続けている。
ようやく、このテーブル席も周りの賑やかさに混ざる事が出来た。

「モツ煮、そない美味いんか、」
「真島さんはいつも刺身定食なんでしょう?」
「なんで知っとんのや、」
「ここのお店の人、真島さんがいつも刺身定食を注文してるって覚えてるみたいですよ、」
「なっ…、ホンマかいな…!」

私生活の一部でも覗かれた気持ちになったのだろう、真島はテーブルに両手をつき、身を乗り出すようにしてなまえの顔を驚きの表情で見ている。

「ったく、どこのどいつや…。人のプライベートをべらべらと…!」
「だから、今日ここに来たかったんです。真島さんにもモツ煮食べてもらいたくて、」
「せやったら、今日はもういつものモン頼んでもうたから、食えんちゅう事やな、」
「…そんなことないと思いますよ、」
「どういうことや?」

驚きから疑問の表情へと移ろう様を見届けたなまえは、きっと彼のことだ、約束は守ってくれるだろうと信じていた。
自分自身も含めて、彼もきっと、真島の美味しいと言う言葉を待っているに違いない。

「料理が来るまでの秘密です。お腹減りましたね、」

なまえは自然とお冷のコップに手を伸ばしたのだが、残念、既に中身は空っぽである。
さっき飲み干したんだった、と思い返すと、真島にも問う。
お冷のおかわり、いりますか?の返事はすぐに返ってきた。
いや、ああ、…貰うわ、と浅い皺を眉間に寄せながら、真島はなまえの方へコップを寄せる。
店内を見渡し、その後ろ姿を捉えると、なまえは店員の離れて行く背中に呼び掛けた。