「お待たせ致しました。刺身定食とモツ煮定食です。」

二人の目の前には注文した通りの料理が並べられた。
今回も隣同士なジョッキの中にはビールとサワーが注がれており、これは二人のちょっとした息抜きのようなものだった。
メインである刺身とモツ煮、白米にお味噌汁、お新香も小皿に盛られ、温かく美味しそうな湯気がもくもくと登っていく。
先に気付いたのは真島だった、自分のお盆の上に見知らぬ器がある事に。
首を傾げ、なんやコレ、と言いたそうな、あからさまな表情になまえは微笑む。
もうひとつの約束が果たされた瞬間である。
これは厨房の彼との些細な約束であり、確かにそれは果たされたのだ。

「…モツ煮、食べられそうですね、」
「お姉ちゃん、一枚噛んどるな、」
「一枚噛んでるって言うよりかは、頼まれたんです。」
「頼まれたやと、」

「真島さんに、モツ煮が美味しいって教えてあげて欲しいって、」
「はぁ…、ホンマにお節介なやっちゃな、」

真島はお盆に横たわる箸を手に取ると、真っ先にイレギュラーである器、モツ煮を摘んだ。
迷える箸先を寡黙な唇が食み、二、三度と咀嚼を繰り返していく。
ごくりと飲み込んだ後は、ん、と一言置き、美味いと呟いた。

「次来たら食うたってもええわ、」
「じゃあ、またここに来ましょうね。」
「そん時はお姉ちゃんも違うもん食っとき、」
「……私もですか?」
「また美味いもん見つけといてくれや。そしたら、また何度でもここに連れて来たる。」

それはまるでなまえと真島に二人の歩む未来があるかのような言葉だった。
来ようと思えばここにはなまえ一人でも来れる、しかし、真島は連れて来ると口にした。
その言葉が持つ意味を察し、その言葉の響きを耳で受け止め、その言葉を飲み込む。
真島が見据えた未来に自分自身があるのだと、勘違いしても良いのだろうか。
その言葉は約束か、それとも契りか、ただの戯言か。
本当の姿を目にするのはまだここではないのだと、なまえは節操無く捲し立てる気持ちを抑え、水を一口含んだ。
また、あの寄せる波の囁きが聞こえたような気がした。



波の崩れ行く姿や深まる夜空が断片的に見える。
手を掴まれている、なまえも真島も。
無意識に流れていく時が二人の背中を押している。
今日はどれだけ自分に素直になれただろうか。
ありのままでいること、それもなまえが密かに真島と交わした約束だった。
時計の針は止まらない、次第に減っていく料理も元には戻らない。
空になっていく食器、満たされていく空腹感、着実に迫り来る終わり、アルコールを摂取していると言うのに増えるどころか、減っていくばかりの口数。
ご馳走様でした、の一言が一つの区切りに思えた。
今夜の食事は二人にとって、とても大切なものになるだろう。
なまえも真島もそのひと時を思う存分に堪能し、お節介だと散々口にしていた真島も、厨房の彼のお節介に感謝していた。


二人は今、夜風に吹かれている。
食事を終え、会計を済ませ、店の外に立っている。
大通りへ向かう足は止まらず、どこかでタクシーを拾うべく、歩き続けた。

「腹いっぱいになったか、お姉ちゃん、」
「ええ、今日のご飯もとても美味しかったです。」

ホンマに美味かったのぉ、と何かを惜しむように零した真島とは目線が合わなかった。
なまえも少しだけ真島を見たが、すぐに視線を逸らす。
今はあまりその姿を見ていられないと思った。
切なさが滲む、これから埠頭へと向かわなければならない。
どれだけ心が近付き、触れ合おうとも、全てはそこで決断しなければならない。
なまえは真島の惜しむ瞳の揺れを知らない、真島はなまえの感情の揺れを知らない。
この瞬間だけは誰もその心の内を読み取る事は出来ない、二人がまさにその通りだった。
あの時微かに見えた未来の顔が変わってしまわぬよう、なまえは夜闇の中で自分の手を握り締めていた。

「…なァ、」
「はい、」
「…やっぱり、今のはナシや、」
「…はい、」
「すまん、」
「いいえ、」

それから二人がタクシーを捕まえたのは数分後の事であった。



***



バタン、と重たい音を残して、タクシーは遠くへ走り出す。
昨日ぶりだと埠頭では夜空と海が二人を待ち構えていた。

「着きましたね、」
「おう、もうここまで来てしもうた、」
「そうですね、」
「あっという間の一日やったわ、」
「私は、とても楽しい一日でした。」
「……そんならええんや、」

どこか別れを匂わせる真島の言葉に不安を覚えた。
なまえは不安を手にしたまま、真島の手を引き、海と地面の境界線まで連れて行った。
そこは二人が感情を吐露し、寝転がり、涙を拭い、弱さを飲み込んだ場所。
静かに腰掛け、なまえは真っ先に靴を脱ぎ捨てては自分の隣に並べた。

「真島さん、お話をしませんか。」
「奇遇やな、俺もそう思っとったんや。」
「それはよかった、」
「せやろ、」

真島もなまえの真隣に胡座をかく、靴を脱ぐつもりは無さそうだ。

「真島さん、今日は私とデートしてくれてありがとうございます。」
「礼なんぞいらん、俺がそうしたかっただけや。」
「真島さんのそういう所が好きです。」
「初っ端から大胆やなァ、もうそないな話してええんか、」

ええ、と頷いたなまえに、真島は鼻から息を逃がした。
そうか、と返した真島は後ろに倒れ込むように寝転がった。
大の字に伸びた真島は遠い夜空を見上げている。

「お姉ちゃんは正直どう思ってんねん、」
「何を、ですか、」
「なんでもかんでもや、俺のこと、今日のこと、これから先のこと、…つまり全部や、全部。」

わたしは、となまえは少しずつ胸の内を明かし始めた。
真島はそれに相槌を打ちながら、余計な口は挟まず、ただ聞いていた。


「初めはとても怖い人だと思っていました。」
「でも、そんなのは嘘みたいに真島さんは素敵な人でした。」
「顔を合わせたり、お話をしていく内に…、いいな、と思うようになっていました。」
「……真島さんが東城会の方だと知るまでは。」

髪が揺れる、真島は口を閉ざしている。

「今でも、真島さんの口からそれを聞けていたらって思う所があります。…真島さんのこと、考えるようになってましたから、」
「本当は、ほんの少しだけ真島さんを忘れられたら、と思った時もありました。ごめんなさい、でも一つだけ確認したい事があって、二人で行った場所へ通ったりもしました。」

不意に訪れた涙は潮風の匂いがした。
震える声のまま、更に思いは吐き出されていく。

「真島さんの事を探してたんです、踏ん切りのつかない自分を納得させる為に。」


「わたしは、そこで真島さんの背中を見つけました。」
「そして、今日この日を迎えて、真島さんの傍に居て思いました。」
「これから先も、真島さんの隣に居られたら、と。」

そこでなまえの独白は終わった。
真島は夜空を見上げたまま、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
なまえは待っている、真島の言葉を。
しかし、今の真島には時間が必要だった。
彼女の独白を聞きながら、ぼんやりと眺めていた夜空が綺麗だと思えたからだ。
あと少しだけ、さざ波と降りそうな夜空、彼女の本当の声を忘れぬ様に胸に留めておきたかった。

真島にも、彼女に伝えたい事があった。
それはたった一つの疑問で、それだけが真島の想いの全てだろう。
体を起こした真島は後頭部を掻きながら、ようやくその言葉を口にした。

「俺はお姉ちゃんみたいには考えとらん。小難しい事を考えんのは昔から苦手でのぉ…。せやから、今から言う事が俺の全部や。」


「俺はいつまで、お姉ちゃんって呼んだらええんや。」


なまえはやはり泣き濡らした顔をしていた。
その顔で真島の方を振り向き、ただ瞬きを繰り返している。

真島はいつでもなまえの事を、愛称のように『お姉ちゃん』と呼び続けていた。
なまえが照れ臭がっていた事が理由なのだが、その真島の疑問に一つの可能性を見出す。
勘違いは勘違いではなかった、霞んでしまうかもしれないと思っていた未来が確立された、その疑問を打ち明けられたことで。
真島さん、と名を呼べば、お姉ちゃんもいつまでそないな、つれない呼び方すんねや、と返される。

女の名はみょうじなまえ、男の名は真島吾朗。
この世に一つしかない特別な文字、この世に存在することを許された文字、愛おしいと聞けば真っ先に浮かぶ文字。

熱が落ちる、潤んだ瞳から。
笑みが見える、涙の意味を上書き出来た口元から。
眉間の皺が浅くなる、不安を忘れた額から。


無機質なコンクリートの上で二つの影が一つに重なっていた。
喜びを、安堵を、幸福を、愛しさを口移しする。
午後九時を迎えようとしている埠頭に二人以外の人影はない。