「真島さん、ひとつだけ私の我儘聞いてくれますか、」
「我儘やと?珍しい事言うんやなァ、」

いつの間にか涙の乾いたなまえの瞳に、強い何かを感じる。
何かを決意した瞳に真島は、言うてみぃ、とだけ繋げた。
すると、なまえは微かに笑って真島を見ては、ありがとうございます、と発した。

「私に時間をください。真島さんの、一年ほどの時間を。」
「一年やとぉ?その時間、なんに使おうっちゅうねん、」

う〜ん、と照れた表情で、なまえはその意味を告げる。

「身の回りを少し綺麗にしたくて。」

なまえが告げたのは、彼女の人生を賭けた決意そのものだった。
真島の隣で同じ未来へ足を進めると言う事は、平凡な日常を過ごせなくなると言う事だ。
今まで送ってきたような生活はもう出来ないだろう、人生で一番大切なものを手にする代わりに、奪い、奪われる道に足を踏み入れなければならない。
真島になまえの名を呼ばせる、それはその理不尽さを受け入れる事であり、馴染みのある生活から自分の存在を抹消する事でもある。


「もちろん、いつまでも隣に置いてくれるんでしょう、」
「なるほどな、そう言う事かいな。」
「だめですか…?」
「早とちりはあかんでぇ、言われなくてもそのつもりや。」

じゃあ、待っていてくれますか?と潮風の匂いのする言葉を食らうように、真島は、しゃあないのう、と答えた。

「俺はよう待つ側に立たされる男や。ええやろ、お姉ちゃんの事も待ったる。」
「ありがとうございます。…これから、少し忙しくなりますね。」
「せやな、でもたまには顔見せなあかんで、」
「はい、またたくさん付き合ってください。私も真島さんと会いたいので。」
「せやったら、さっさとやることやって、俺んとこに来いや。」

あんまり待たせすぎるとええ男が台無しになってまうで、と言ってみせる真島の顔が嬉しそうだから、なまえは柔らかく微笑んだ。
その後も二人は埠頭でささやかな未来について話し合っていた。
思い付いたことをすぐ口にし、明るさも仄暗さについても話の限りを尽くした。
結んだ糸の強さを確かめるように、真っ直ぐ伸びた道の上にある小石を払うように、言葉を交わす。


「待っとるで、……お姉ちゃん。」
「はい、……真島さん。」

お互い名残惜しさに口を噤み、まだそれを呼べないまま、身を寄せ合った。
背の高い彼の肩に頭を寄せるのは背の低い彼女で、またしっかりとその糸を強く、強く、結ぶ。
遠くに浮かんで見える街の明かりを静かに見つめ、なまえと真島は一年後の遠い今日の日に、またここで会おうと約束を取り付けた。





***





月日は流れる。
終わりと始まりが混同するその日から、なまえは人生に大きく関わってきたもの全てに別れを告げる。
切れぬ縁は無数にある、けれど、別れを告げなければ、覚悟の責任を負えない。
一年の内に出来ることはほぼ全てこなした、まだいくつか心残りはあるが、それはまた新しく歩き出す今日この日から始めようと思う。

時計の針は何周もぐるぐると回った、カレンダーも何枚も破り捨てた、月曜から日曜まで何度も一週間を迎え入れた、窓の外に居座る景色も四回ほど変わって行った。
日差しや吹く風の強弱、日の長さや日の短さ、定められた順番の中でなまえは過ごした。
一人の時もあった、二人の時もあった。
喜び、怒り、哀しみ、楽しささえも一緒に分け合い、隣に居てくれる相手を日常の一部とした。


しかし、なまえは今一人でいる。
何度も訪れた海風の吹くこの場所へ訪れた。
今日で丁度一年経つ、一年前に取り付けた約束を果たしに来た。
彼は嘘を嫌う人だ、なまえは少し前に別れたタクシーの中で考えていた事がある。
きっと彼は、あの人は。



「なまえ、」

運命に、首輪を引かれる。

「遅かったやないか、待ちくたびれてもうたで、」

ごめんなさい、と紡ぐ。

「ええわ、ちゃあんとここに来たことの方が大事や。」


振り返るその先には、相変わらず飄々として立っている彼の姿があった。
晴れ渡る空の下、真島は蛇柄のジャケットを羽織ってそこにいた。
頬撫でる風は冷たい、溢れる喜びは暖かい。

「吾朗さん…!」

駆け寄り、飛び込む先は肌寒い季節だと言うのに涼しげな胸元。
鮮やかな色の散りばめられた真島の懐へ、なまえはその身を寄せた。
包み込まれる、この日を待ち侘びたのだと力強い抱擁を体で感じながら、なまえは微かに聞こえる鼓動を聞いていた。

「約束の日や、ホンマにもうええんやな、」
「はい。長いことお待たせして、すみませんでした。」
「もう後戻りは出来ん。なまえ、俺の所へ来るんやな?」
「…その為の一年です。どうぞ連れて行ってください。そして、その隣に私を置いてください。」

堅気にしては上出来や、ようやった、と大きな手がなまえの健気な頭を撫でた。

真島もなまえのその言葉を待っていた。
自分を一心に見つめ続けてくれたなまえを、隣に置きたい気持ちは充分すぎるほどだった。
名を呼ぶ事を許され、一人の人生を預かる、死がふたりを分かつまで。
その重みが人生の喜びであると知った、それはなまえと真島の二人だけの喜びである。


ここでふとなまえは思い出す、タクシーの中で考えていた事の続きだ。

「やっぱり、吾朗さんは一番乗りなんですね、」
「あァ?なんや突然、」

なまえは小さく笑い声を上げながら、とある考え事について真島に話し始めた。

「こういうのって、言い出しっぺが先に居なきゃいけないじゃないですか。でも、吾朗さんは私より早くここに来そうだなって思ってたんです。」
「その理由はなんや、」
「吾朗さんって少しせっかちな所があるから、きっと私に早く会いたかったんじゃないかなって。」

自分で言うことちゃうやろ、と呆れた声がなまえの頭上から降ってくる。
背中に回された腕も外され、なまえはちょっと言い過ぎたかな、と真島の顔を下から見上げた。
すると、予想外なものがそこにあった。
季節特有の肌寒さのせいなのか分からないが、真島の頬や耳が赤らんでいた。
それに妙にそわそわとしていて、落ち着きが無く、表情も硬い。

「…まァ、そういうことにしといたるわ、」
「ふふ、ありがとうございます。」




二人はそれから埠頭で時間を忘れて話をした。
そして、真島が待機させておいた車に乗り込み、二人は埠頭を後にする。
窓越しに流れる景色をなまえは黙って見ていた。
今日の景色は今までのものと違うように思えたからだ。
雲の泳ぐ空も、道行く人の姿も、質素な神室町の街並みも、新しい立ち位置で、新しい角度から見つめていた。

不意にその街並みの隙間にある路地裏へと続く道に目が留まる。
あの日の出来事が今でも鮮明に思い出される、真島と初めて出会う事になるあの日の事を。
どないしたんや、と真島の声に弾かれ、なまえは過去を懐かしむように笑った後、昔の事を思い出してただけです、と返した。
そして、再び窓の外へと視線をやれば、もうあの道は見えなくなっていた。



神室町の表社会から、みょうじなまえと言う女が消えた。
神室町の裏社会では、東城会のとあるヤクザに女が出来たと言う噂が密かに生まれた。

噂の女がそのヤクザの妻として生きていくのは、これからもう少し後の話である。



end.