一から十二を並べた円の中を針だけが忙しそうに走り続けている。
なまえはと言えば、近くの椅子に腰掛けて有り余る時間の中を待ち続けていた。
つい最近になって、真島が建設事業を立ち上げ、朝は早く夜は遅くにしか会えない生活になってしまった。
一日において真島と顔を合わせる時間は減っただろうか、増えただろうか。
よくよく考えてみると、あまり変わらないような気もしていたが、やはり当の本人が居なければ居ないで寂しいものだ。
暗転したままの携帯画面、冷蔵庫の中でその時を待つ一人分の夕食、まだ潜る気にはなれない寝室のベッド。
もう随分とダイニングテーブルとは仲良しになった。
真島の帰りが遅い事もあり、なまえはこのテーブルの上で眠りに落ちてしまう事が増えた。
真島は無理して待たなくていいと言っていたが、なまえは、待ちたい、その一心で毎夜毎夜真島の帰りを待っている。
そして、また今日も時間がなまえを眠りへと誘う。
こくりこくり、と頭が上下する、なまえは自然と下がっていく瞼に抵抗したが、その健闘も虚しく、視界は眠りに閉ざされた。
***
遅くなった帰路の先にはいつもこの部屋がある。
暖色の照明、温かな空気、生活感のある家具、家電、もくもくと湯気が立ち込める湯船、控えめな味付けの食事、そして、ダイニングテーブルで眠る彼女。
その部屋には何もかもがあった、真島が抱えた疲労を忘れさせてくれる優しさが、彼女も含めて全て揃っている。
一年前の自分ならきっと玄関先で無造作に靴を脱ぎ捨てていた事だろう。
しかし、所帯を持った今では彼女の靴が並ぶ玄関で、爪先の尖ったそれを脱ぎ捨てる事はない。
例えどんなに疲労を背負って帰って来たとしても、溜息一つ吐かずに靴の踵を合わせ、彼女の隣に並べる。
最初は照れ臭いと思う時があった、慣れないことはするもんじゃないと。
けれど、日を追う毎にその光景がいつの間にか二人の日常になり、二つが寄り添う玄関を見るのが真島の日課にもなった。
これはいつもダイニングテーブルで眠ってしまうなまえには教えていない、真島だけの秘密である。
真島はこの光景を見てようやく家に帰って来たのだと実感するのだ。
ドアの開く音に鈍感な彼女は、今日もまた真島の言い分を無視して、その帰りを待っていた。
真島を出迎えたのは、なまえの無防備な寝顔と穏やかな寝息。
「まぁた居眠りかいな…。ホンマに何遍言うてもわからんやっちゃなァ、」
今まで何度なまえがテーブルに寝そべる姿を見て来たことか。
ブランケットも何も掛けていないその寝姿に、真島がいつも風邪を引かないかと心配している事も、なまえは知らないだろう。
アホやなァ、とつい口に出てしまうが、本心は更に別の所にあった。
待たなくても良いとは言ってはいるが、なまえにも真島には譲れない何かがあって毎夜毎夜真島の帰りを待っている。
なまえのその譲れない何かを知らない訳じゃない、寧ろ知っているからこそ、自分の事など、と思うのだ。
それでも、自分にだけ許されたこの寝顔を見てしまうと、ああだこうだ、どうのこうのと考えていた事がどうでも良くなる。
やっぱりお姉ちゃんには敵わんなァ、と口ずさむ。
真島が選んだ言葉は素直なものでは無いが、それには照れ臭くて口には出来ない真っ直ぐな気持ちが込められている。
風邪の心配に耐えられなくなった真島は羽織っていたジャケットを脱ぎ、未だ夫の帰宅に気付かないなまえの肩にそれをそっと被せようとした所で、何故かその腕を止めてしまう。
躊躇いである、埃と汗に塗れて激務を共にこなしたジャケットはきっと汚れているだろう、そんなものを彼女の肩へ掛けてやれる気になれなかった。
すんすんと鼻を鳴らし、自分の上半身を嗅いでみる。
一度躊躇ってしまうと思考もそちらへ傾いてしまうもので、やはりやめておく事にする。
せめて代わりの毛布でも取ってこようと真島が腕を戻した所で、テーブルに寝そべっていた彼女の体が微かに揺れた。
ゆっくりと寝そべっていた上半身を起こし、はっきりしない目でこちらを見ている。
「…ああ、帰ってたんですね。また私ったら眠っちゃって、」
「せやから言うてるやろが、俺のことはええからはよ寝とき、て、」
「待っていたいんです、いつも言ってるじゃないですか。」
「知っとる。…ちぃとばかし聞きたくなっただけや。」
眠気眼を擦り、なまえは微笑みながら、おかえりなさいと真島に声を掛けた。
おう、と真島は手にしたままのジャケットに再び袖を通す。
「ふふ、そのジャケット掛けてくれてもよかったのに、」
「あァ?…これはあかん、なまえちゃんにはやれへんのや。」
「それはどうして、です?」
「……まァ、なんや、その、」
突然居心地が悪くなってしまったなまえの真正面に、真島にしては珍しくぼそぼそと呟くような口調で話し始めた。
「なんちゅうか、アレやな、…男臭いやろが、」
真島はなまえの顔が見れなかった。
だから、中々返事が返って来ない事や、なまえが目をぱちくりとさせて驚いている事に気付かなかった。
「ご、吾朗さん…、」
「な、なんや、」
「ねぇ、こっち向いてください、」
「なんでそないな事…、」
はやく、となまえにしては珍しく強気な言葉に、真島は内心驚きと先程自分で口にしてしまった情けなさを引き摺ったままでなまえの方を見た。
気恥ずかしさを隠そうと眉間に皺を寄せ、口をへの字に結んだ真島とは対照的に、なまえは口元を柔らかく緩ませて椅子から立ち上がると、真島の方へと近寄っていった。
距離を詰めるなまえに、真島は少しずつ後ろへと下がっていく。
「待ってください、待って、」
「あかん言うてるやろが…!はよ向こう戻れや…!」
「お願い、待って、」
「…あんなァ、なんでもかんでも、お願い言うたらええってもんちゃう…ぞ…、」
真島の語気の強い言葉が止まる。
自分の懐に飛び込んだなまえの感触に、真島は体の動きも思考も同時に止めてしまう。
ジャケットの中で背中に回された腕、真島の胸元で呼吸をするなまえの体が上下している。
自分の肌となまえの顔が近い事に危機感を覚えるものの、既に入浴を済ませたであろうなまえの体に触れるのを躊躇い、彼女を引き剥がせずにいた。
「なまえちゃん、ホンマに堪忍や…、」
真島の触れられない革の指先が空中で悶えている。
「吾朗さんもそういうの気にしてくれてるんですね、」
「…当たり前やろが、汗まみれ埃まみれでええとこないで、」
「汗まみれだとか、男臭いだとか、そんなこと気にしません。」
「なまえちゃんはそうかもしれへんが、」
吾朗さん、なまえが呼び慣れただろう真島の名前を口にする。
静かにその声に耳を傾け、なんやねん、と返した。
「今日も本当にお疲れ様でした。おかえりなさい。」
真島の背中に回された腕に微かに力が籠り、なまえの抱擁に頑なだった意思が揺らいでいくのを感じ、真島は革手袋を雑に取り外して遂になまえの体を抱き締めた。
更なる抱擁になまえは顔を上げたが、真島の顔は横を向いていて、その感情の程が読めない。
「ホンマに、なまえちゃんは俺の気も知らんで、ホンマに…、」
「吾朗さんだって私の気持ち、知らないじゃないですか、」
「阿呆か、そないなモン聞かんでも分かんのや、」
「あの、吾朗さん、」
自分の腕の中で小さな声を上げるなまえに、真島は分かっとる、となまえの体と少し距離を置いてから、彼女の唇に触れた。
短く触れるだけの接触になまえは呆然としているようで、真島はただそれを目の前で見ている。
「……せやから言うたやろ、なまえちゃんの考えとる事は聞かんでも分かるっちゅうのが、」
「な、何も分かってないじゃないですか…、」
「なんやと!さっきなまえちゃんは、吾朗さん、って言うとったやないか!」
「それは、別にキスしてほしいから言ったんじゃなくて、苦しいから離してほしいって意味で…!」
「今ならまだ間に合うで、」
「私ですか、」
「せや、俺はもう引き下がれへん。意地や。」
「……吾朗さん、」
「ただいまのキスは…?」
「なまえちゃんがそう言うなら、何回でもしたるわ、」
「…ありがとうございます、」
なまえは苦笑していたものの、決して面倒であるとかそう言ったマイナスな感情ではなかった。
こうして真島と遠慮なくじゃれ合う事の出来るこの時間が好きなのだ。
だからこそ、例え途中で眠りに落ちてしまうと分かっていても、真島の帰りを待つ。
再び唇と唇が触れ合った時、これから始まる二人だけの時間に自然と口角が上がっていくのを感じた。
***
あれから真島は遅い夕食を食べ、今は入浴中である。
なまえは真島の着替えやタオルを脱衣所に用意していた。
ここに置いときますね、と声を掛け、廊下へと出て行った何気ない瞬間、なまえの目に一つの景色が映る。
そこは玄関で、自分のよく履く靴と真島の尖った靴が並んでいた。
なまえは玄関にしゃがみ込むと、その二つが礼儀正しく並んでいる様に心が弾むのを感じ、玄関先一人で笑みを零した。
真島は知らないだろう、なまえが二つ仲良く揃っている靴を見るのが好きだと言う事を。
そして今日も無事にここへ帰って来てくれた事を喜び、感謝している事を。
こうしてまた真島となまえの一日は積み重ねられていくのである。