真っ白に立ち上る湯気、明かりのついたキッチン、ダイニングテーブルには大きめなランチボックスとそれより一回り小さなランチボックスが並べられ、それらの隙間を埋めるように様々なおかずが置かれていく。
時計を盗み見る、まだお昼の時間にはなっていないようで、なまえは着々と、黙々と、菜箸を動かして次々におかずを作り上げた。

ただの思いつきだった。
なんとなく会いに行きたくて、手頃な理由を探せば、愛妻弁当、なんて単語がテレビから聞こえたものだから、なまえはすぐさまお弁当作りに取り掛かった。
目標はこの弁当を完成させ、お昼休みが始まる前に真島の元へと届ける事。
きっと真島の性格が移ったのだろう、なまえは何度も空想上で驚く真島の姿を想像しては一人で笑みを浮かべていたりするのだ。
換気扇の大きな音に掻き消されながら、なまえの楽しげな鼻歌がキッチンに響いている。


なまえの前には蓋のされたランチボックスが大小二つ並んでいた。
出来るだけバランスの良く、けれど、好きなおかずはちょっぴり多めにして、ほかほか、出来たてのお弁当を前になまえは満足げに口角を上げている。
愛妻弁当であるからして、となまえはランチクロスを二枚手にしては一つずつ丁寧にそれらを包んでいく。
箸も二人分用意して、いつも愛用しているトートバッグにぎゅっと詰め込む。
温もり詰まったトートバッグをテーブルに置き去りにすると、なまえは時計を確認し、今から支度をして家を出ても充分間に合うだろうとエプロンを外す。
一人がけの椅子の背もたれにエプロンを預け、なまえは部屋の照明を消し、トートバッグを引っ掛け、玄関先へと向かう。
真島のいる場所は仮にも建設現場だ。
長いスカートは避け、パンツスタイルの動きやすい服装を選んでいたなまえはヒール靴などではなく、ぺったんこなパンプスを選ぶ。
余計な心配も要らぬ怪我も真島の前ではしたくないし、させたくないと思っていたからだ。
外出の準備は済んだ、これからなまえが向かうのは西公園、神室町ヒルズ建設予定地である。


以前、西公園への入口、真島が真島建設として事務所を構える神室町ヒルズ建設予定地への入口は寂れた公衆トイレにあると話を聞いた事があった。
しかし、真島の気遣いにより、もし何かあった時はここから出入り出来るようにと、西公園公衆トイレの入口以外にもう一つ秘密の入口を設けてくれた。
つまり、今日は真島にサプライズを仕掛けるのと同時に初めてその入口を使う日になる。

肩に掛けたトートバッグの重み、一人で密かに抜け出す午前中の明るい街、まるで昔のように胸を高鳴らせて歩く真島へと続く道、不意に幸せが寄り添っているような気がした。
道行く人達と住まう世界は違えど、手にした日常はまるっきり同じもので、秀でて特別でも無く、ただただ普通の毎日を送る事がとても嬉しいものだと気付いた。
最初から気付かなかった訳じゃない、奪い、奪われる世界に生きる彼に寄り添うのを決めたあの日から、彼と過ごす日々に喜びは転がっていた。
だからこそ、今自分が手にしている日常も、この肩に掛けたトートバッグの重みさえも喜びであり、幸せであるのだと知る。
いつでも真島に対して伝えたい気持ちや言葉、してあげたい事はたくさんある。
その中で今日はこの道端で見つけた喜びと幸せを伝えようと思う、何も飾らず、ありのままに。
早く会いたい、なまえは待ち切れない思いのまま、歩く足を早めた。

なまえは途中、コンビニに立ち寄ると、暖かなお茶を二つ買い、あの秘密の入口へと向かった。
確か公園前通り沿いにあるバリケードの一つが入口になっていると教えてくれた。
暖かなお茶を握り締める、最近は季節柄冷え込む日が多くなったと微かに冷えた手のひらにそう思う。
しかし、自分の事よりも心配なのが、一番心配なのが、真島の格好である。
あの季節感を無視したような薄過ぎる格好に、なまえはいつも風邪を引かないか、お腹を冷やして痛めないか、と心配でならない。
辺りの人はマフラーや手袋、コートを着ていて、白い息を吐き出す。
凍える吐息が行き交う中、なまえはより真島に早く会いたいと思うようになっていた。
酷く涼しそうな格好の真島に早くこのお茶を渡したいという強い気持ちから、なまえは西公園へと急ぐ。


乱雑なバリケードの隙間を通り抜け、秘密の入口から中へ入れば、横たわる鉄骨やコンテナ、その時を待つ重機とトラック、そして、真島組の看板が掛けられた建物があった。
周囲を見渡し、真島の姿を探すのと同時に安全面に気を配りながら、なまえは真島組事務所へと向かう。
近くに人の姿はなく、本当にお忍びでここへやって来たのだと実感が湧き、次第に口元が緩んでいく。
事務所一階の戸に手をかける、殺風景でいてシンプルな事務机と椅子が並ぶそこに真島の姿は無かった。
代わりに組員もとい従業員と思われる人間が数名座っており、こちらを不思議そうな目で見つめた後、驚きに声を上げた。

「ああ?誰や、こないなとこに……、」
「…こ、こんにちは。お仕事お疲れ様です…、」
「あ、姐さん……?!」

うわあああ、とざわめき出した事務所内、一気に室内の雰囲気が変わり、今まで座っていた椅子から立ち上がると、皆一斉に、お疲れ様です!とその場で頭を下げた。
その圧に押され、なまえもつられて、ありがとうございます…!と頭を下げる。
姐さんはそんなことしないでください…!と従業員達の必死な呼び掛けに顔を上げて頷く。
まだ落ち着かない雰囲気のまま、ここへやって来たなまえを見て、もしや…と思った従業員が声を掛けた。

「…もしかして、親父ですか?」
「ええ。でも大丈夫です、ここで待たせてもらえれば、」
「も、勿論です…!こんな所まで本当にお疲れ様です。さ、こちらへ、」

彼らに言われるがまま、近くの椅子に腰掛けると、次から次へと何か必要なものはないかと訊ねられた。
肌寒くないか、喉は乾いていないか、空腹ではないか、退屈しのぎに雑誌など用意してくれる優しさに、感謝の気持ちを伝えていく。
何かあれば、すぐに言ってください、と再び頭を下げ、従業員達は事務所を後にした。
なまえはここでようやく肩に掛けていたトートバッグを膝元に置き、椅子の背もたれに背中を預ける。
決して退屈ではない、けれど、考え事をしてしまうくらいには時間の空白を持て余していた。
真島はどんな反応をしてくれるだろうか、人から驚かされる事の無い相手だ、不安と興味と緊張が一緒くたになっていく。
ぼんやりとどこかを見つめているのに、手はずっと二人分の昼食が入ったトートバッグを抱き締め続けている。
少しだけ不安が勝ってきた頃、なまえは、あの人は何をしてるんだろう、と本音を漏らす。
誰もいない、無人の事務所だからこそ、弱気なそれをぽつりと呟いた。



「……待たせたのう、なまえちゃん、」

せやけど、なんでこないな所になまえちゃんがおんねん、と聞き慣れた声が聞こえてきた。
事務所の入口の方へ視線は流れて行く、そこにはなまえが会いたくて仕方なかった彼が立っている。

「ま、真島さん、どうして…?」
「まぁた真島さん言うとるわ、なまえちゃん。」

見慣れた格好に見慣れない黄色のヘルメット。
なまえは初めて見る真島の仕事中の姿に釘付けになっていた。
相変わらず上半身は寒そうで、けれど、きちんと頭に被ったヘルメットの真面目さが真島の強烈なファッションセンスを更に強調させる。
ガラガラと戸が閉まり、真島はゆっくりこちらへ近付くとなまえの手にしていたトートバッグに首を傾げた。

「なんやそれ、荷物かなんかか?」
「まあ、そんな所です。」
「大事そうに抱えとるが、何が入ってんねや。」
「それは、もう少ししたら教えてあげます。あ、そうだ、これ、」

なまえはトートバッグから真島の為にと買ってきたお茶を取り出し、革の手袋に押し付けるように渡す。
すまんな、と照れ臭そうに受け取る真島の反応が嬉しくて、なまえは、どういたしまして、と添えた。

「にしてもや、なんでなまえちゃんがウチの事務所におんねや、」
「ああ…、あの、えっと、」
「ウチのモンがえらいビックリしとったわ。そんで俺んとこまで来て、なまえちゃんが来とる言うから、来てみればホンマになまえちゃんがおって、」
「……ちょっとした出来心でした、会いたくて、」

真島が近くの椅子に腰掛けると、一緒になまえも腰掛けた。
未だ手付かずだったペットボトルに口をつける、温かいお茶が流れ込んできて、体をゆっくりと温めてくれる。
じんわりと温まる腹部にほっと一息、密かに事務所にある時計を見た。
あともう少しでここも昼休憩の時間になるだろう、なまえは昼休憩に入ったタイミングで、この中身を何も知らない真島へ渡そうと考えている。

「ま、ええわ。なまえちゃんがここまでやって来るんはそう滅多にあるもんやないからのぉ、」
「…迷惑でしたか?…突然押し掛けてきて。やっぱり連絡くらいした方が……、」
「俺も人の事は言えんからなァ、ちょっと前までは俺もなまえちゃんみたいなことようやったわ、」
「ふふ、そんな気がします、」
「せやから、今回は大目に見たる。次からは連絡くれや、」

はい、と頷いてなまえはお茶の二口目を飲む。
たぷんとペットボトル容器の中を流れては沈む薄緑が口当たり優しい。
真島もその後何口かお茶を流し込み、二人は事務所内でささやかな会話を楽しんだ。
自分達の仕事について、これから作り上げる神室町ヒルズについて、ちょっと前まで困った連中を相手にしていた事など、真島は自分が話せる事の全てを時間が許す限り、なまえに話していた。
そして、時計の針は進み、事務所の外がやがて静かになり始めた頃、それに気付いた真島は、お、昼飯の時間か、と口にした。

なまえの体が僅かに跳ねる、遂にこの時が来たとトートバッグの柄の部分をぎゅっと握り締め、飯でも行こか、と誘う真島にあの事を告げる。

「吾朗さん。あの、お昼のことなんですけど、」
「なんやねん、いきなりかしこまって、」
「このバッグの中、見てみてください。」

今までなまえが抱えていたバッグを真島に差し出すと、真島はそれを受け取り、その中を覗く。
丁寧に詰め込まれたランチボックスが二人を待っている、真島はまだよく分からないと言った顔でなまえを見た。

「…なまえちゃん、もしかして、」
「お昼作って来たので、一緒にどうでしょう……?」

ぽかんと開いた強面な口元が可愛らしく映る。
且つ恐る恐ると言った口調で真島は訊ねる、これをなまえが作ったのかと。
一度頷けば真島は更に目を丸くして、そうか、なまえちゃんが、と今度は真島がトートバッグを膝に置いていた。

「本当はお弁当を渡したくてここまで来たんです。それに一緒にお昼食べられたらいいなって思ったりもして、」
「そんなら、早速食べようやないか。」
「……はい、お昼にしましょう…!」


真島は近くのテーブルにトートバッグの中身を広げた。
サイズの違う二つのランチクロスの結び目を解いていく、なまえは真島のその姿を見ていたいと思った。
真島が可愛い包みのランチボックスに驚きながら、どこか表情を柔らかにしながら、それを丁寧に扱い、嬉しそうに見つめている姿が。
なまえちゃんのから温めよか、と言ってくれる彼のそれを選び、事務所に備え付けてある電子レンジに投入する。
電子レンジの中で暖色に照らされるランチボックスに、ふと真島に伝えたかった事を思い出す。

「そうだ、吾朗さん。聞いてください、今日ここへ来る時に……、」

なまえはついさっき見つけたばかりの幸せについて、自分の素直な気持ちを交えて口を開く。
なまえの言葉を真島は真剣に聞いてくれた、日常の些細な隙間に幸せがあると語るなまえの顔をずっと見つめながら、時折頷き、時折相槌を打って聞いていた。
電子レンジの呼ぶ音も忘れてなまえと真島は二人きりの幸せを分かち合う。
それから数分後、二人が自分のそれを手にし、向かい合うように座り、いただきますと箸を手にすれば、場所は違えど、まるで家にいるように感じられた。
自分の目の前でがっつく様に弁当を食べる真島の姿も新鮮で、なまえも遅れて弁当に手をつけた。

「なまえちゃんの味がしとる、美味いわ、」

ひょいひょいと箸先でおかずを次から次へと口に放り込み、咀嚼し、飲み込んでは白米か、再びおかずを拾い上げるの繰り返しで、真島はひたすらなまえの弁当を食べていく。
幸せな溜め息が零れる、幸せには、喜びには、底も無ければ天井も無い。

「吾朗さんの好きなものを作ってきましたから、」

だから、そんなに急いで食べてしまわず、もう少しペースを落として、会話でも交えながらこの時間を過ごしてみませんか、となまえは箸を置き、真島の方を見やる。
それに気付いた真島は大きく頬を膨らませたまま、近くに置いていたお茶のボトルを手にした。
口内をすっきりさせた真島は、楽しそうやなァ、見ててこっちもつられてしまいそうや、と見つめ返す。

「また作らせてくださいね、お弁当。」
「おう、また作ってや、愛妻弁当っちゅうのを。」
「吾朗さんからそんな言葉が聞けるなんて思ってませんでした。」
「何言うてんねや、言わせたんはそっちやろ?」
「ふふ、そうかもしれません。」

せやろ?と口の端を上げて笑う真島に、なまえは同じように笑顔を見せ、こっそりと幸せな溜め息を逃がした。