西公園には恐ろしい顔をした男が現れる。
これはなまえが神室町を歩いている時によく耳にする話の一つだ。他には金属バットを持った強面な男が街を彷徨いているだとか、やたらとキラキラした衣装を着た強面な男が徘徊しているだとか、それくらいである。その中でも特に気になっていたのが、先程の恐ろしい顔をした男の話だった。しかし、その噂話にしか存在しない男は、ホームレス達の住処となっている西公園のとある街灯の下、静かに佇んでいた。
寂れた景観、断続的に点滅する街灯、人の気配を感じることの出来ない空間、それら全てはまるでその男の為にあるかと言う程に、彼の存在を異様に引き立たせている。彼は俯いているようで顔が翳っており、その表情を読み取ることが出来ない。
恐ろしい顔の男に出会すと一体どうなるのか。噂話の良くないところ、それは書きかけの小説のように結末が分からないところだ。なまえは西公園にそのような男が現れると言う話しか知らない、何故なら街で耳にする噂など、それ以上は深く語られないからだ。男は依然として沈黙を貫いている、なまえも恐怖に停止した頭のまま、同じく沈黙に感染している。
そして、なまえは気付く。俯いていた男はいつの間にかその顔でこちらを見つめていることに。体が大きく跳ねた、心臓の鼓動も加速して脈を打ち始める。そこで初めてなまえは男の顔を見ることになる、『恐ろしい顔』の意味がようやく分かった瞬間だった。顔など見えない、その男は顔を隠すように顎を削ぎ落とした般若の面を着けていた。自分に向けられた視線から目が逸らせない、もし逸らしてしまったなら…と嫌でも考えてしまう思考が呪わしい。どうして危機的状況に更に恐怖心を煽るのか、考え得る最悪の結末まで描いて見せた、呪われた思考を自分でも止める事が出来なかった。
きっとこのままではいけない、何としても逃げなければと酷く考え過ぎた頭をそのままに、なまえは踵を返した。しかし、恐怖に硬直した体は思う様に動いてくれず、走り出す前に足が縺れてその場に転倒してしまった。跪く様に着地したなまえはその姿勢である事に構わず、急いであの般若の男を探した。ぐらつく視線がぴったりと男に焦点を定めた時、なまえは戦慄する。その男はこちらへと向かって走り出しており、あの街灯の下には居なかったのだ。何も言わず走ってくる姿に、体は自然とその場を駆け出した。
自分の足の速さについては知っている、俄然あの男の方が速い。それでも、もし、奇跡なんてものが起きてくれたなら、と藁にもすがる思いで次の足を前に出した瞬間、無理して走らせた体のバランスが大きく崩れた。二度目の転倒は、先程より体の至る所に強い痛みを感じさせた。目の前に広がるのは黒いアスファルト、なまえの感情も体もぼろぼろだった。視界がぐにゃりと歪む、目頭が熱い、頬より暖かな涙が溢れる。地に伏せた体を少し起こすと、丁度同じタイミングで革靴の踵の鳴る音が聞こえた。見上げた先には、あの般若の男が立っていた。
自然と体が尻餅をつかせる、内心では物凄く焦っている筈なのに、ゆっくりと後退りをしている自分の体の勝手が分からない。呼吸が荒くなる、過呼吸になってしまいそうだ。般若の男は未だ何も口にせず、ただその場に立ち止まったまま、なまえをひたすらに見下ろしている。
尖った靴の爪先のプレートが鈍く光る、きっちりと着込まれた黒いスーツ、顎の無い般若の面、そしてその面の左目を覆う眼帯。その統一性の無い疎らな格好でさえも不気味だった。どうして彼はなまえを追いかけて来るのか、どうして何も言わないのか、どうして恐怖に怯み怯えるなまえに何もしないのか。あまりにも要領の得ない静寂に耐えられなくなっていた。突然、どん、と背中に伝わる鈍い衝撃が走る。後退りした先には無機質な壁があったようで、この背中はもう後ろへ下がれないと言うように壁にぴったりと密着してしまった。
もう逃げられないのだと確信したなまえは、その両目から止める気の無い涙を流し始めた。視界が何度もぐにゃぐにゃと歪み、熱い涙の流れていく感覚が繰り返されている。目尻から溢れるそれは頬を伝い、輪郭に沿って流れてしまえば、後は落ちていくのを待つのみ。声は出せなかった、本当は咽び泣いてしまいたかった。正体不明の恐怖にこれ以上、晒されていたくなかった。
相も変わらず揺らぐ視界にまだ男は居続ける、何処にも行く気配は無い。けれど、遂にその男は再び足を前に進ませた。これより先に行く事の出来ないなまえに近寄るように。
きっと、わたしは、と心が呟いた時、なまえは目の前が真っ暗になった。近寄る男、後は意識が途切れてしまうのを待つ女。啜り泣く彼女の目の前までやってきた男は終始無言のまま、その場に腰を降ろした。顔を上げた先に般若がいる。あまりに近い距離にまた男の顔が翳っていた。男はその武骨な手をなまえへと徐々に近付けていく。なまえはもう抵抗の二文字すら意味が無いことだと俯いた。
しかし、その手の行き先は喉元では無く、なまえの頬へと行き着いた。少し硬い指先が泣き濡らした頬をなぞる、親指で涙を拭ってはまた他の箇所の涙を攫う。触れた指先から男の体温が伝わる、自分のものと全く同じ温もりに恐怖が仄かに溶け始めた。それでもまだ止まりそうにない涙は零れていく、その度に何度も何度も両手の五本指で拭い続けている。優しく触れたかと思えば、強く肌をなぞる感触に、どこか不器用さを感じながら、なまえは目の前の男を見つめていた。
不意に男の指先が止まる。その般若の瞳がなまえの瞳と一直線にぶつかり、お互いに何度訪れたか分からない静寂に包まれた。般若の男は今何を思っているのだろう、なまえは何も分からなかった。隠された素顔は般若に遮られ、表情を読み取る事が出来ない。自分の頬に触れた指先の温もりでしか、その男を知ることが出来ないのだ。
いつの間にか乾き始めた涙になまえは気付きもせず、男の不気味な程に白い般若に手を伸ばした。面からはみ出た男の頬に触れてみる、男は今も尚、何も口にしない。相手が同じ人間である事を確かめるように、ただの噂話だけでの存在でないように、なまえは何度も頬を撫でた。振り払おうとしない態度に、それが許されている様な気がした。なまえが男に言葉を投げ掛けようと唇を震わせた時だった。
再び目の前が真っ暗になった。自然と目を閉じなければならないと思った。唇を震わせたあの瞬間、男の口元が同じように言葉を紡ごうとしていたのだ。けれど、男は思い留まり、言葉を発する代わりに、今こうして自分のもので彼女の薄く色付いた唇を隠している。上唇には無機質で硬い感触、下唇には肉付きの良い柔い感触。般若である『彼女』の面と、それを着けた男と交わす口付けは、まるでその二人と唇を重ねてしまった様に思えて、なまえは密かに羞恥を覚えていた。
何故、口付けをしたのかは分からなかった。ただそうしなければいけない、そう言った直感のようなものが漠然と現れたのだ。唇が離れ、男はなまえを立ち上がらせると、最後に残った涙の粒を拭って振り返ること無く、その場を去っていった。一人ぽつりと残されたなまえは最後に何か言葉を掛けたかったが、彼の走り去る姿にそれはやめようと思った。
西公園には恐ろしい顔をした男が現れる。彼が何者なのかは分からない、けれど、その男は実在する。冷めた唇の熱を惜しむように自分の指でなぞった。もし彼も同じ様に恋しく思ってくれるなら…。となまえは得体の知れぬ般若の男の指先の感触を思い出しながら、その場を後にした。
冷めた熱が恋しいのは、この拭われた両頬も同じなのだ。西公園から神室町へと続く、たった一枚の扉を抜けようとした時、不意にあの街灯の下に佇む顔の翳った男の姿を目にする。その一瞬で失われたそれが微かに戻ってくるのを感じて、なまえは後ろ手で静かにその扉を閉めた。
| その般若は慈愛を匂わせる |