きっと太陽も自棄を起こしているに違いないと思った。ここ数日は猛暑と言う猛暑が続き、うだる様な暑さに見舞われながら、日中を過ごす事が多くなった。けれど、決まった周期で姿を変えて行く、飽きっぽい月は涼しい顔で、過ごしやすい夜を与えてくれる様になった気がする。
そこは個人差があるだろうけれど、なまえは部屋の窓をほんの少しだけ開けて夜風を通し、揺れるカーテンを横目に好きなアイスを一つ食べる、最近の夏の楽しみと言えばこれだった。
納涼、その方法は色々ある。なまえの場合はそう言う方法だっただけで、エアコンの効いた部屋で涼しさに甘えるのも良い方法と言えるだろう。そう言えば、と何かを思い出したかの様にテレビを点ける。いつもこの時期になると、夏のお楽しみは不意にやって来るのだ。好奇心を擽ってくれる、心霊と言う二文字が。
まるで震えているかの様な歪なフォントが画面を埋める、不気味なBGMも流れてくる。本当にあった、だとか、恐怖の、だとか、使い回され過ぎて、最早、胡散臭く感じてしまうその文字になまえはぞくりと背中を震わせた。出来る事なら見ない方が良いに決まっている。毎年この手の番組を見た後は妙に背後を気にしたり、部屋の暗闇や影に怯えてしまったり、と生活に支障をきたしてしまう。それでも見始めてしまったが最後、今年も去年と同じ運命を辿るのだろう。
番組が始まってすぐ、まだ一つ目の恐怖映像も流れていないのに、なまえの携帯が鳴った。びくんと大きく鼓動と体が跳ねる、おまけに少し情け無い声も出てしまった。心臓が痛い、ばくばくと収まりのつかない鼓動を労わる様に胸に手を置き、着信のある携帯に手を伸ばす。画面には、真島さんと文字が表示されていた。
「…もしもし、」
「なんや、その生気の感じられへん声は、」
「それは多分、もの凄く驚いたからです。」
「俺の電話にいつもそない驚いとるんか?…寿命が無くなってまうで。」
「違います、丁度、今心霊番組を見てたんです。まだ怖い映像は流れてませんけど、」
「それって今日やるヤツやろ、俺も見たい思うとったんや。」
じゃあ、今から家に来ますか?と尋ねれば、おう、行くわ。と真島の楽しそうな声が返って来た。しかし、真島は組の事務所にいるとの事で、多少時間が掛かると言っていたが、なまえはそれでも良いと思っていた。一人で見るより、二人で見た方が良い。その方が受けるダメージも抑えられるだろうし、何より誰かが側に居てくれる、それだけでも気の持ちようが違ってくる。なまえは念の為、とテレビの音量を下げ、アイスも今の内に食べ切ってしまおうと急いで齧り始めた。シャリシャリとした感触とその冷たさにまた背筋が震えた。
***
真島の来訪はなまえが思っていたより遅いものだった。確かに時間が掛かると前置きされて居たが、未だになまえの隣に真島の姿は無い。心霊番組も既に半分以上は一人で見ていたなまえは、どこから引っ張り出して来たか分からない薄手のブランケットを頭から被っている。そして、三十分も前から体を断続的に走る震えを止められずにいた。目を覆いたくなる様な映像が流れる度に、目を覆う事を忘れてその全てを受動的に見てしまう。
恐怖が体を好き勝手に走り回っては、この場に居ない真島に一人、八つ当たりをする。どうしていっつもそうなの、から始まり、早くあの暖かみのある体にしがみ付きたいと恋しさを募らせていた。やっぱり見るんじゃ無かった、と後悔がなまえの顔を真っ青に染め上げようとした時だった。
不意に鳴り響いた来客の知らせ。何も変わらない静けさを不気味と決め付けていた所為で、なまえはまたその体を丸ごと跳ねさせたが、そんな不意打ちの驚きより、ようやくやって来た真島に恐怖で強張っていた顔を綻ばせ、駆け足で玄関へと向かった。
ドアスコープから扉の向こうを覗く。見慣れた蛇柄のジャケットを素肌の上に纏った、眼帯姿の人物が立っている。それはなまえの待ち人の真島だった。しかし、その丸く切り取られた視界にどこか違和感を覚えた。いつもなら仏頂面で正面に立っている事が多いのだが、今この扉の向こうにいる真島はずっと俯いたままだ。なまえは違和感を覚えたのだが、やっとこの状況から抜け出せると目の前に転がる安心に手を伸ばし、何の疑いも持たずに扉を開けてしまった。
「真島さん…!遅いじゃないですか…!どれだけ私が待ってたと…、あれ、真島さん?」
なまえにしては珍しくマシンガントークをぶっ放してしまったのだが、目の前に居る真島は全く反応を示さない。依然として俯いている、たまにビクビクと不気味に体を震わせていた。なまえも流石に真島の異変に気付いたらしく、扉の外に一歩足を踏み出した時だった。
ドア越しに感じる衝撃と鈍い音、その顔は下を向いているのに真島の黒い指先はドアの縁をしっかりと掴んでいる。ここでなまえは本格的に真島の様子がおかしいと確信したが、なまえは真島さん…?と問い掛けた。
返事は無い、代わりに何処からか呻き声が聞こえてくる。この時点でなまえはまずいと直感的に扉を強く引き寄せたが、既に掴まれてしまった扉はなまえのものより強い力でびくとも動かない。腕と扉ががたがたと震える、なまえは混乱の最中にもう一つ気が付いてしまった。いつまでも俯いていると思われた真島の顔が沈黙したまま、真っ赤に血走った瞳でなまえの姿を捉えていた事に。被っていたブランケットがはらりと床に落ちる、いつの間にか忘れていた心臓の痛みを思い出していた。
自分でもこんな声が出せるのだと初めて知った。酷く耳障りで全く可愛げの無い声、冷静な判断を下せる筈のない頭は既に九割が真っ白の空白で、気が付くと反射的に目の前の扉を蹴飛ばしていた。決められた範囲しか開閉出来ない扉は、勢い良く真島の顔面に激突すると、真島を弾き飛ばしてはその弾みで二人を遮る様に閉ざされた。
なまえは鍵を掛ける事を忘れて、何処かへ隠れなきゃ、と混乱を引き摺りながら辺りを見回す。滲んだ視界とリビングから聞こえてくる、今ではお飾りにしか聞こえないテレビの悲鳴に呼吸する事も忘れて、真っ先に目に入った脱衣所へと逃げ込む。そして見つけた洗濯機の影になっている隙間に無理矢理体を押し込み、震える声を抑えられずに何とか呼吸をして見せる。今にも途切れてしまいそうな呼吸を繰り返すと、玄関の方から荒々しく扉が開く音がして、がら空きの両手で口元を押さえ付けた。
今日の真島は普通じゃない、あんなに赤く血走った目を今まで見た事が無い。まるで一度死んでしまったかのように不気味な程に白い顔色が恐ろしかった。それらの光景と共に蘇る呻き声に、もしかして…と一つの答えを見つけてしまう。
全ての特徴と一致する、ゾンビの三文字が自然と浮かび上がってくる。玄関から近い脱衣所には真島の呻き声が届き、なまえはその声すらも聞きたくなくて耳を塞いでしまいたいと思った。廊下の様子を伺う様に顔を慎重に覗かせると、真島は丁度脱衣所の前をゆっくりと徘徊していたが、幸いな事になまえには気が付いていなかった。盗み見る様に真島が通り過ぎるのを確認すると、その窮屈な隙間から這い出し、脱衣所の壁越しに真島を見た。
何も変わらないその後ろ姿に涙が止まらない。なんで、どうして、と言葉を繋げても答えは見つからない。しかし、ここには居られないと踵を返した途端になまえの体はバランスを崩し、その場に倒れ込んでしまった。大きな物音に気付いた真島はすぐさま振り返ると、見つけたと言わんばかりになまえの方へと歩み寄る。後退りもままならない脱力し切った体が重たい、そして、少しばかり真島の歩みの方が早い。
完全に目の前まで距離を詰められたなまえは、ただ黙って真島を見上げていた。涙が熱い、呼吸は苦しい、終わりが見えた瞬間だった。真島は沈黙した部屋中に高笑いを響かせ、なまえに覆い被さる様に飛び掛かった。
首元に熱く湿った吐息が掛かる。それは大きく開かれ、今にも噛みつかんとする歯列が触れた。悲鳴さえも出ない、もう間もなく皮膚を突き破る痛みがやって来る。なまえは強く目を瞑った、今だけは現実から逃れられる様にと。
痛みは、いつまで経ってもやって来ない。開かれた瞳が自分に覆い被っている真島だけを見れば、襲われる手前だった、その証拠に今でも首筋に湿っぽい吐息を感じている。すると、不意に濡れた何かが痛みの代わりに首筋を一舐めした。再び可愛げの無い声を上げると、真島の姿をしたゾンビはその体を震わせた。微かながら、あの高笑いが聞こえる。
「ヒッヒッヒ…、ヒーッヒッヒッヒッヒッヒ…!」
不思議だった。その真島の笑い声でなまえの涙が止まって行くのだから。
「ええのぉ…、今までで一番ええ反応やでぇ、ヒッヒッヒ…、」
「ま、真島さん…?」
「随分と可愛い声を聞かせてくれたなァ、なまえ、」
普通に言葉を話しているが、顔色も良くなった訳では無いし、未だに目は充血している。
「…よぉ出来とるやろ、プロに頼んでやってもろたんや。」
なまえが絶句している事などお構い無しに、一人で話を進めて行く真島になまえは無表情で話を聞いていた。つまりは全て真島の作戦だった。当初は普通に会いに行こうと連絡を入れたが、まさかなまえが心霊番組を見ているとは思わず、絶好のチャンスや!と思い立った真島は急いでゾンビに化ける準備をしたのだとか。その準備に時間が掛かり、なまえの家に来るのが大幅に遅れてしまったらしい。
「前にな、桐生ちゃんにもサプライズで使うた事があったんやが、そん時もえらい驚いとったのう。」
「…真島さんって本当に馬鹿、大馬鹿ですよ!」
「な、なんや、急にそない大声出しおって…、」
ぴたりと止まっていた涙がまたぼろぼろと溢れ始める。真島は号泣するなまえに驚きを隠せない。
「わ、わたしが、どれだけ、怖かったか…。ひとりで、真島さんのこと待ってたのに、全然来ないし…、来たかと思ったらなんか変だし、」
「俺の芝居もなかなかのもんやったろ?」
「…本当にゾンビになっちゃったんだって、思って、どうしようって、」
「すまん、今日のは俺が悪いわ、」
せやけど、と続けた真島を睨み付けると、相変わらずの優れない顔色で、堪らんかったんや、と項垂れた。
「あない反応今まで見た事無かったわ、…ほんまに可愛らし思てな、」
「今更何を言っても、遅いですからね…!」
「せやったら、今日は朝まで一緒におったるわ。それなら、ええやろ?」
真島にしては珍しく良いことを言ったとなまえが口を噤んで頷くと、真島はほんなら、今日は添い寝や!と声高々に笑い出す。それに呆れたなまえは真島を力任せに退かすと、まずはその格好なんとかして下さい!と脱衣所へ引き摺って行く。
二人の入った脱衣所からは、優しく洗ったってや、と言う真島の声と、自分でやって下さい!と厳しいなまえの声が聞こえてくる。肝心の心霊番組は二人が戯れている間に既にエンディングを迎えており、エンドロールだけが流れていた。
| 覗かせる歯列 |