街角を彩るのは、オレンジや黒、紫の配色。白くてまんまるとした可愛らしいお化けや、目、鼻、口をくり抜かれたカボチャなんかも、あちこちの店に寄り道をしている今日はハロウィン。少し外に出るだけで、賑やかな雰囲気が漂い、夕暮れ時の神室町はダークゴシックに染まっていく。
なまえも先程まで外に出ていた。理由はいつもと変わらず、ただ買い物に行かなければならなかった。あまり重くならなかったビニール袋をぶら下げ、自宅に戻ってきた訳だが、なまえはここで疑問に思う。出かける前に、確かに施錠した筈の扉が少し開いている。仮に鍵をかけ忘れたとしても、流石に扉の、この隙間に気付かない訳が無い。突然、沸いた疑問に不安を抱えながら、きっと自分の気のせいだと、その扉を開けて中へと入っていった。
辺りは暗闇が流れ込み、部屋のどこにも明かりはない。それはなまえにとって当然のことだった、なまえは家を留守にする時に、部屋の照明を落として買い物に出たのだから。しかし、妙な胸騒ぎがする、心当たりの無い不安になまえは玄関の明かりをつけた。眩しさに目を瞑り、すぐに目を開ければ、誰もそこにはいなかった。明かりがあるだけで、なまえの不安は取り除かれた様な気がして、安堵のため息を漏らす。鍵をかけ忘れることなんて、今まで一度も無かったのに、と呟きながら、玄関先に靴を置き去りにし、なまえはリビングへと向かおうと一歩踏み出した時だった。
不意にどこからか、ぐちゃぐちゃと聞いたことの無い音が聞こえてきた。なまえの家にペットはおらず、なまえがたった今帰ってくるまで、この家には人などいなかったのだ。例え、その足を止めようとも、その音だけは止まらない。こうしてなまえが底知れぬ不安に襲われていても、気味の悪い音は今尚、続いている。
頭の中は真っ白に弾けたまま、自分が何をすべきなのか見つけられずにいた。ただ、この状況が異常であると言うことしかわからない。それなのに、なまえの中で一つの欲求が膨らみ始める。この音の正体は一体何なのか、好奇心が悪戯に唆られた。廊下とリビングの境界線沿いの、壁越しに顔を覗かせる、息は自然と止まっていた。
まず見えたのは、微かな光だった。光を辿ってみれば、どうやら冷蔵庫の扉が開けっ放しになっているようで、もっとと身を乗り出した時だった。次に見えたのは、冷蔵庫のすぐ近くに何やら蠢く影があった。それはなまえより大きい影で、その影から先程のぐちゃぐちゃとした音が聞こえてくる。
辺りをよく見てみれば、冷蔵庫の中身だろうか、食器と思われるものが無造作に散らばっており、この影は食事をしているのだと思った。冷蔵庫の寒色がその大きな何かの近くにあるせいで、それが一体何者なのか分からずにいた。光源に姿を黒く塗り潰されてしまって、詳細が見えないのだ。
大きな咀嚼音が響く部屋で、なまえとそれは同じ屋根の下にいる。なまえは恐怖に囚われてしまった、何故と頭が答えを求めていく内に、思考は矛盾し、不可解な点で躓き、正解を導き出せない。意味が読み取れないこの影の事を、とても恐ろしいと思った。それをこうして息を潜ませ、覗いている自分の置かれている状況がやっと異常であると気付いた時の、走る戦慄は言葉では言い表せない程だった。逃げるべきだと頭がまともな回答を持ってきた所で、あの影は突然不審な行動を取り始めた。
影がぶるぶると震え、突然自分の胸を強く叩く。咀嚼音の次は肉を叩く鈍い音が部屋に響き始め、更にその体を大きく震わせ、その影は床に何かを吐き出した。
遠目からでもそれが分かった、床に広がっていくのは赤黒い液体。迂闊だった、恐怖に緩んだ口元が、いつの間にか小さく悲鳴を上げていて、その声に反応した影がこちらへと振り向いた。部屋の暗闇で顔はよく見えない、しかし、口元から滴る血液のようなものだけは、はっきりと見え、なまえの目線上にその影の何かと重なる。喉に引っ掛かるような呼吸音が不気味で、影が声を発するのと同時に、なまえは悲鳴を上げて、この部屋を飛び出した。
「……まさか、」
影だけ取り残された部屋に、どこかで聞いた事のある関西弁と大きく咳き込む声だけが暗闇に消えていった。
***
呼吸が荒くなる、胸の奥もきつく締め付けられている様に痛む。決して振り返りはしなかった、もし追われていたなら…と考えると恐ろしくて、そんなことは出来ない。何故、あんな恐ろしいものが自分の部屋に居たのだろう、そして、それは一体何を口にしていたのだろう。
赤黒い液体は、誰かの、何かの血液であると、勝手に決め付ける自分がいた。近くの華やかな街まで、電柱の白熱灯に照らされた暗闇の中を走り続けるなまえの足は、次第に動きが鈍くなり、遂にその足は完全に止まってしまった。せめて、神室町まで行ってしまえば、助かるような気がしていたのだが、走っていくと言うのは無謀だったようで、なまえは肩を上下させながら必死に酸素を取り込んでいく。
膝に手をついた所で一つ気付く、それは悲しいお知らせだった。どうやらなまえは突然の恐怖に耐えかね、まともに靴すら履かず、こんな路上まで来てしまったのだ。少しだけ自分が情けなく思えた、しかし、咄嗟の出来事だった、けれど…と自分をただ慰める言葉も見つけられない。まだ整っていない呼吸のまま、なまえは歩き出す。
一人、胸に大混乱を抱えて歩いて行く道の先に、奇妙な人影が見えた。それは複数人でこちらへと走ってきているようで、なまえはすぐには気付けなかったのだ。こちらへ向かってくるのは人の形をした、別のものだと言うことに。
自分の部屋で見た、あの影がフラッシュバックする。とても容姿が似ている、格好はまるで違うが、その荒みようがあの影と重なった瞬間、なまえはようやく気付く。その人の群れはこちらへ向かっているのでなく、なまえの元へ向かっているのだと。叫ぶようになまえの名を口にする大群から逃れようと、なまえは体の疲労など気にせず、駆け出した。行く宛はない、当たり前だ、危機を感じて家を飛び出して来たのだから。
***
「あァ?!逃げたやと?!何やっとんねん、このボケが!」
なまえの部屋からは男の怒鳴り声が響き続けている。その男は携帯電話を片手に、赤い何かに塗れている口元をジャケットの袖で拭う。男の足元には中途半端に食い散らかされた皿が重なっており、冷蔵庫の扉も開いたままで、冷気はだだ漏れ。
「仕事増やさんと、さっさと見つけ出して連れて来んかい!ええな?!」
とても強い言葉尻で通話を無理矢理に終わらせると、その男は床に腰を下ろす。冷蔵庫から漏れる寒色の照明が映し出したのは、男が身に纏うパイソンジャケットと下に履いている革パン、そして、左目を覆う眼帯だった。
「ったく、なまえもなまえや。声も掛けんと勝手に逃げよって…、」
まだなぁんにもしとらんやないか、とぶつくさと文句を垂れるこの男は、いつの日かの夏の夜と同じように、なまえを単純に驚かせに来た真島だった。今回もまたあの時と同じゾンビの格好をしており、真島は床に置き去りにした皿から、食べ物を摘み上げては口へと運んでいく。
そもそも何故、真島がなまえの部屋にいたのか。それは前回、真島は部屋の外で待ち伏せをしていた。当時は一緒に心霊特番を見ようと誘われ、まずは初っ端から驚かせようとして、結果的には成功したのだが、その後はこっぴどく怒られた。
確かにこの格好をするのに時間をかけ過ぎてしまった、一人で大人しく待っていたなまえは、さぞ怖い思いをしていただろう。しかし、今回は前回の失敗を繰り返さぬよう、予め部屋の中で待っていた。怯えているなまえの所へ行くのは良くない、ならば、初めから部屋の中に居れば良いのだと、思っていたのだが。
予想は思いっ切り外れてしまった。真島は溜息を吐き、その場で食事を続ける。口にしていたのは、なまえが作りすぎて食べきれなかったおかずだった。最初はほんのちょっとの出来心と空腹感に、一つだけ摘んでみれば、濃過ぎず薄過ぎずの丁度いい味付けのもので、真島の手は止まらなかった、いや、止められなかった。こらぁ、ええ嫁さんになるなァ、なんて呑気に考えていた所で、咀嚼不十分な具が喉に詰まったのだ。苦しみもがきながら、真島は近くにあった水と、何かのドリンクを口に流し込めるだけ流し込んだ。
ここで死んでしまっては意味が無いと、喉の奥へと流し込んですぐ、今度は真島の器官のどこかに飲み物が入ってしまったようで、そのむせる衝動を抑えきれずに口の中に残っていたドリンクを吹き出した。口に広がるトマトの酸味からして、水の次に流し込んだのはトマトジュースだったらしい。そして運悪く、そのタイミングでなまえは突然悲鳴を上げて、逃げ出してしまったのだ。
本来なら、トリックオアトリートやでぇ〜!と驚かせるつもりだったのに、と真島はまた一つ口におかずを運ぶ。うん、うまい、と一人でぼやきながら、自分の子分からの連絡を待つ。一刻も早く、彼女をこの部屋に連れて来てもらわなければ、真島自身がこの部屋で待っていた意味が無い。だからこそ、早く、せめてこのおかずを食べ切ってしまう前に。
***
とても家に帰りたい、そんな気分だった。帰っても良いのだろうか、帰れる事なら帰りたい。こういう時の頭と体は素直だった、実は今なまえは自宅の近くを歩いていた。正直な話、裸足で外を走り回るのには限界があり、靴を履き忘れたと言う事実だけで、なまえの心は折れてしまいそうだった。あの影の事を思えば、戻るべきでは無いのだけれど、もしかしたら、と期待を捨て切れない。しかし、思う。
冷蔵庫の食べ物が無くなってしまえば、きっとあの部屋から出ていくだろうと。確か覚えている限りでは、そんなに食べ物は無かった筈だ。作り過ぎて余らせたおかずも、ただ皿の数が多いだけで、量は無い。ただ一回だけ、せめて靴を取りに行くくらいは許されるだろうと、なまえは自宅へ続く道を寂しい足元のまま、歩いて行った。
そして、恐る恐る辿り着いた部屋の扉を開けてみれば、相変わらずの闇が居座っていた。けれど、あの不気味な咀嚼音は聞こえてこない。なまえは予感が当たったのかもしれないと、再び廊下の壁越しにリビングを覗いてみれば、本当にあの影の姿は無かった。
一体、あの影の正体は何だったのだろう、とほっと胸を撫で下ろし、恐怖を忘れた足取りでリビングの照明をつけた。カチッと鳴った音の後に照明が映し出したのは。いつもと変わらない風景の部屋だった。辺りを見回しても、不気味な影の姿は無く、なまえは糸が切れたかのようにその場に座り込んだ。
「本当に、何だったんだろう…、あれ、」
ぽつりと呟いた独り言、大きな溜息の後に怖かったと口にするつもりだった、急に視界を塞がれるまでは。
***
真島が一服から帰ってくると、そこには待ち焦がれていた彼女がいた。結局、余り物は美味しく平らげてしまい、満腹感もそこそこに口寂しさから煙草を吸いに行っていたのだが、まさか、彼女がこの部屋に戻って来るとは。嬉しい誤算というもので、真島は足音を消し、その場に座り込む背後へと近付く。
息を殺し、こちらに気付く素振りすら見えない彼女に対して、込み上げてくる笑いを堪えながら、遂に真後ろまで来た真島はその手で彼女の、なまえの両目を覆った。革越しに伝わる感触に、ヒヒヒ…と声を漏らした時だった。
耳を劈くように大きく、けたたましく響いた悲鳴に真島は体を硬直させた。それからはなまえの必死の抵抗により、手を振り払われ、その勢いで真島は後方に尻餅をついた。あまりの驚きように、真島は言葉を失っていた。肝心のなまえは真島の手を振り払った後、壁際まで慌ただしい様子で避難している。しかし、突然の出来事にパニックが収まらないのだろう、今度は壁際で悲鳴を上げており、これはまずいと真島は急いでなまえに駆け寄った。
「おい!落ち着かんか……、…?!」
真島の頬を綺麗に叩いたのは、こちらを全く見ていないなまえの手のひらだった。何回かは避けたり、何回かは顔や頭にそれを貰ったりを繰り返し、全く落ち着きそうに無いなまえを見て、近くのソファーからクッションを手に取り、それを盾にしながら、ゆっくりと近づいて行った。盾にしたクッションが何度も弾んでいる、なまえの何かを振り払おうとする手の勢いが強いせいだろう。なまえの目の前までやって来た真島は、そのクッションでなまえの頭を軽く叩いてみせた。
「……え、な、なに、」
「ったく、ホンマに世話の焼けるやっちゃ、」
「あれ、真島さん…?」
なんで?と全く状況が理解出来ていない顔で、真島を見つめている。
「驚き過ぎや…、」
「え、なんで、それって、どういう…?」
訳が分からないと主張するなまえに、真島は仕方が無いと今までの企みを全て話す事にした。この部屋に居たのは真島であったこと、なまえが血液だと思っていたのは真島が吹き出したトマトジュースであったこと、実は真島がおかずをつまみ食いしていたこと。
「でも、私、逃げ出した先で、真島さんみたいな人達に追われて…、」
「あれはウチんとこのヤツらや、アイツらも混ぜてなまえを驚かそ思うとったんやが…。なまえが勝手に出てってもうたからなァ…、急いで探しに行かせたんや。」
なまえは口をぽかんと開けたままにして、真島の気まずそうな顔を見た。鼻をすする音が水気混じりに変わっていく、口元もぷるぷると震え、眉間に深く皺が寄っていく。そして、遂になまえの目尻から涙が零れた、なまえは酷く不機嫌そうだった。
「ま…、また真島さんは…、こんな事して…、」
「なっ、泣くことないやろが!前回とは違って、今回は最初っから部屋におったやないか!」
「今日の晩ご飯、どうしてくれるんです…?余り物で、済ませようと、思ってたのに…、」
どんどんぐずぐずになっていくなまえの姿が見ていられなくて、真島は自らその小さく泣き震える体を抱いた。
「そない泣くことないやろ、いつまで泣くつもりや、」
「だって、…怖くて、部屋に帰ってきたら変なのがいるし、外に逃げたら大勢のゾンビみたいな人達に追われたり…、」
「全く、ホンマに…、」
すまん、と口にした真島に、なまえは眉間に強く皺を寄せながら、今回は絶対に許しません…!と怒りをぶつけた。頬や鼻の頭を真っ赤にして、涙に濡れた顔でこちらを睨み付けるなまえの顔はあまり怖くはない。寧ろ、どこか愛おしさすら感じられて、真島はその胸になまえの頭を埋めてしまった。もがくように背中に回した腕が暴れている、その腕は真島のジャケットを強く掴んでいた。
「ず、ずるいです、いつもいつも…、」
「すまん言うてるやろ、」
真島のその言葉になまえは暴れるのを止め、そのまま真島に体の全てを預けたままにしていた。
***
「なまえ、まだ泣いとんのか、」
「もう大丈夫です、たっぷり泣いたお陰で落ち着きました。」
「なァ、なまえ。一つだけ言っときたい事があんねや、」
聞いてくれや、と真島が真面目な顔をして見せる。なまえは、わかりました。と頷き、真島の話を待った。
「トリックオアトリートや、」
「…お菓子も悪戯も願い下げです。それに真島さんは冷蔵庫の中身食べちゃったのに、まだ食べるんですか?」
「…言うてみたかっただけや、せやから、もう堪忍や、」
「かぼちゃの煮物、美味しかったですか?」
ありゃあ、ええ味付けやった、と満腹そうな腹部を撫でる真島の仕草に、なまえは今度は晩ご飯に呼びますから、つまみ食いなんてしないでくださいね、と告げた。二人の間に漂う、少しだけ気まずい雰囲気が払拭された瞬間だった。
「ほんなら、つまみ食いしてもうた詫びをせな、あかんな。今日のメシは俺が奢ったる。」
「じゃあ、韓来に行きたいです。とってもお高いお肉が食べたいです、」
「しゃあないのう、もう今日はなんぼのもんでも、たらふく食わせたるわ、」
それでええやろ?と聞き返した真島に、なまえは頭を縦に振る。じゃあ、と続けたなまえはいつの日かのように、真島の腕を引っ張り、脱衣場へと連れていく。
「まずはその格好を何とかしてくださいね、」
「ま、またかいな…、」
当たり前でしょう!と怒声を上げたなまえに反論せず、身ぐるみを剥がされるゾンビ真島がいた。
| デッドマン・イン・マイルーム |