頭上のベルが鳴る、二人は店の外に出ようとしていた。
二人のいたテーブルには底の見えるコーヒーカップと、ケーキを包んでいたフィルム、そして、それに添う様に寝かせられたフォークが置かれていた。
あの後も二人はお互いの食器の中身が空になるまで、話に花を咲かせていた。
真島は一人、気まずさに似たものを内心隠してはいたが、それでもお互いに共有した時間を悪いものとは思わなかった。
なまえの雰囲気に酔ってしまったのだろうか、まるで自分も彼女の様に純粋に会話を楽しんでいた。
けれど、手元の食器が空になる頃には、誰かが言い出した訳でもないのに、もう別れが迫っている気がした。
たった一枚の扉をくぐっただけで、なまえの表情は既に曇り始めている。
真島はその様子を黙って見つめていた、口元に笑みを忍ばせている。
「真島さん、今日はありがとうございました。たくさんお話も出来て良かったです。」
「おう、それは何よりや。」
「それじゃあ、また。」
軽く頭を下げようとするなまえより先に真島が声を掛けた。
「また、っていつやねん。お姉ちゃんはもう帰るんか。」
なまえの表情が無に変わった、真島の言葉を理解しようとしている。
いつ?もう帰る?ひたすらに疑問符を浮かばせ尽くした後に、なまえはその口を小さく開くと、そこから、え。と発した。
数回に渡る瞬きも、動揺から自分の髪に触れる仕草も、真島は面白くて仕方がない。
「ちなみに真島さんのこの後のご予定は…?」
恐る恐る探るような口振りのなまえに、遂に真島は堪え切れずに吹き出すように笑い声を上げた。
更に呆然としている様が真島の笑いどころを刺激していく。
腹を抱えて笑う真島に痺れを切らしたなまえは口調を強めて、真島さん…!と呼び掛けている。
ヒッヒッヒ…、とようやくその馬鹿笑いに終わりが見え、大袈裟に右目付近を手の甲で拭う仕草をして見せる。
「なあ〜んもないわ、それにお姉ちゃんから誘っといて、もうお預けかいな。…自分、焦らすん好きなんやなぁ、」
「ち、違います…!」
「ちゃうんか?なら、まだ俺に付き合うてくれや。それとも、お姉ちゃんはもう帰る気満々なんか?」
「そんな事ありません、でも、私から誘っておいて帰るなんて、失礼、ですよね。」
「ああ、失礼千万や。それにまだ俺はお姉ちゃんと少ししかお散歩もしてへんしな。」
「じゃあ、まだご一緒させてください。あと、ここの歩き方教えてくれますか?」
「ええで。俺と一緒なら、下心丸出しの輩にも絡まれんしな。安心しといてや。」
「はい、よろしくお願いします。」
真島の横になまえは並ぶとその足を前に出したが、肝心の真島はその場から動こうとしなかった。
不思議に思っていると、ん、とぶっきらぼうに右手を差し出しては、手繋ごか。とその手を揺らしている。
なまえは、はい、とその手に自分の手を重ねると柔らかく握った。
革の感触に慣れてしまったのか、表情一つ変えないなまえに真島はいじらしいと思った。
それとも、予想に反して距離が近くなったのか、その答えは真島にも分からなかった。
「お姉ちゃんはやっぱり遊べる所がええんか?」
「そうですね…、遊べる所もそうですけど、今気になるのはご飯屋さんですかね、」
「飯屋か。高いもんから安いもんまで色んな店が揃っとる。お姉ちゃんは何がええねん。」
「あの、出来れば、その…。」
「まどろっこしいんはあかんわ、はよ言うてくれや。」
じゃあ、あの…、と口籠もったなまえはその場で立ち止まり、こちらに手招きを三回ほど。
口元に手を添えている、真島は身を屈めつつ、なまえに右耳を寄せた。
控えめがちではあるが、遠慮の無い食欲のリクエストに真島はにやりと笑うと、ええで、連れてったる。と告げる。
「でも、その前にちょっくら腹空かせに行こうやないか。」
二人が次に行き着いたのは、建物の上にでかでかと吉田バッティングセンターと店の名前が掲げられている、劇場前通りを過ぎた先にある場所だった。
数段ある階段を登り、入り口を抜けると、質素なベンチ、並べられた自動販売機、受付のカウンター。
そしてネットで隔てられた向こう側には、お目当てのバッターボックスがあった。
店主と思われる男は真島の姿を確認すると軽く会釈をする。
真島は軽く手を振り、そのままバッターボックスへと直行する。
なまえは店主の男について真島に尋ねた。
すると、ここのオヤジとは長い付き合いでな。簡単に言うと常連客みたいなもんや。と質問を投げ返された。
なまえはなるほど、とすんなりその言葉を受け入れると、真島の後についてバッターボックスに入って行く。
近くに備え付けてあるバットを一本手に取り、なまえに手渡すと、真島は操作パネルと思われる機械にコインを投入している。
「お姉ちゃんはやった事あるんか、」
「いいえ、初めてです…!」
「そんなら、一番簡単なのにしとこか。」
はい…!と力んで見えるなまえに、頑張りや。と残して真島はバッターボックスを後にする。
なまえは上手いやり方も、それっぽく見せるような方法も分からなかった。
それでも動き始めたディスプレイに映る投手の姿を一心に捉えると、強く握り締めたバットを思い切り振り抜いた。
素早く空を切る音が静寂を遮る、しかし、爽快な打球音は聞こえてこなかった。
見事なまでに綺麗に球を外していた、なまえはただその素振り音を響かせる。
堅くぎこちないそのフォームに真島は、あかん、と口にするも、結局なまえが全ての球を打ち尽くすまで、バッターボックスに入ることはなかった。
「ま、真島さあん…、」
「おう、おつかれさん。どやった、初めてのバッティングは。」
「全然当たらないです…。ずっと素振りばっかしてました、」
「まあ、最初はそんなもんやろ。よっしゃ、今度は俺が見本っちゅうもんを見せたる。」
「…よろしくお願いします、」
なまえは何回も握り締めたバットを真島に手渡した。
真島はそれを受け取ると、肩に軽く乗せ、よう、見ときや。と意気揚々とバッターボックスへと向かう。
真島と金属バット。
その組み合わせがとても良く似合っていて、なまえは二人を遮るネットの目の前まで近寄った。
バットを構える姿がそれらしく見え、慣れているだろうその後ろ姿から目が離せなかった。
遠くのディスプレイの投手も振り被り、ピッチングマシンから球が投球された。
真島がバットを振ってすぐに、なまえが一度も鳴らす事の出来なかった打球音が響いた。
打ち返されたボールは弧を描いて、上部に設けられた的目掛けて飛んで行くと、的が点灯する。
ヒット判定が出たのだ、なまえは興奮混じりに真島さん!と声を上げる。
真島は次に放たれる球を狙って再び身構える。
「まだまだかっ飛ばすでぇ!最高得点叩き出したるわ!」
そして、真島は再びそのバットを振った。
何度、その音に爽快感を感じた事だろうか。
手応えを感じていた、今日はいつもより調子が良かった、良過ぎた。
好感触に体は熱い、けれど、当の本人よりもその身を熱くする人物がいた。
それは両の瞳をきらきらと輝かせて、そこに立っている。
表情からして分かる、彼女は今にも凄いと言い出しそうだ。
真島は誘われるがままに、なまえの元へと歩いて行く。
「何か俺に言いたい事あるやろ。」
うんと言わんばかりに頷くと、元々近い距離を更に縮めて、興奮した口調で言った。
「…真島さん!凄いです…!」
「お姉ちゃん、やたらと嬉しそうな顔してくれるのう。」
「私なんて全っ然当たらなかったのに、真島さん全部打っちゃうから…!」
「言うたやろ、ここの常連客やって。」
「じゃあ、私も通えば打てるようになりますか、」
「まずは慣れなあかん、そしたら一気に変わるもんや。」
「はい。時間が出来たら、またここに来ますね。」
「そん時は俺も呼んでや。お姉ちゃんやったら、優しく教えたるわ。」
嬉しそうな笑顔でまた頭を縦に振り、じゃあ、もう一回やってきます!と真島の手からバットを受け取ると、真島を置いて行ってしまった。
「なんや、結構可愛いお姉ちゃんやないか。」
きっと彼女には聞こえないだろう、目の前の事に夢中になっているなまえには。
真島は敢えてそう呟いた、もし彼女が聞いていたとなれば、それはそれで照れ臭いだけなのだが。
けれど、彼女が自分より照れてくれる、その様子が容易に想像出来て、真島は持ち上がる口角の隙間から白い歯を覗かせた。