型崩れの無いよう、慎重に鞄へその包みをしまい込む。その中身は今日の為になまえが用意した、甘く溶ける温もりの欠片。そしてもう一つ、忘れないようにと後から詰め込まれたのは、どこかの煙草によく似たパッケージの箱だった。なまえは鞄を覗き込み、何度もその有無を確かめると、急ぎ足で玄関へと駆け出す。シューズボックスに備え付けられた姿見の前に立ち、最終確認を済ませ、なまえはようやく部屋の外へと出て行った。
外の風は冷たい。何度も皮膚をなぞってはぞくりと体を震わせた。アパートを出てすぐの所に、一台タクシーと思われる車両が止まっている。なまえはなんの躊躇いもなく、そのタクシーに近付くと、自動で開かれるドアの奥に入り込んで行った。
「どちらまで?」
「そうですね、…適当に走ってください。」
「それでは、出発します。」
後部座席に深く腰掛け、背中を預ける。行先は無い、今日はバレンタイン、チョコを渡す相手は今きっと不在だろう。だからこそ、このタクシーで浮かれっぱなしの神室町を見て回りたかったのだ。一人と言う訳では無い、申し訳ないが、このタクシーの運転手にも自分の我儘に付き合ってもらおうと考えていた。それはこの日を迎える前から考えていたことで、その為に丁寧に包装された箱を持ってきた。
「運転手さんも大変ですね、こんな日もお仕事なんて、」
「まァ、遊びのようなもの、と言っておきましょうか。」
「そうなんですね、ふふ。運転手さんは今日チョコを貰う予定はありますか、」
「ええ、ひとつほど当てがあるんです。」
「いいですね。私も今日はチョコを渡そうと思ってるんです。」
それは相手の方が羨ましい限りですね、と運転手の凛とした声がやけにくすぐったい。居心地の良い車内になまえは自然と、にこやかになっていく口元を抑えることが出来なかった。
カップルで賑わう神室町を運転手と戯れながら走り抜ける。街もバレンタイン一色で、なまえも少なからずわくわくとしていた。誰も彼もが喜びに顔を綻ばせ、今日の記念日を祝う事だろう。なまえのチョコレートはまだなまえの鞄の中にある。出来ることなら、彼に、あの人に、自分の目の前でリボンを解いて欲しい。丁寧に施された包装を破り、中身を見て驚いて欲しい。記念日にしか伝えられない気持ちを全て受け取って欲しい。そして、一言美味いと口にして欲しい。たったそれだけ、それがなまえが手作りチョコを作るきっかけになった動機だ。
しかし、その彼は残念な事に今隣には居ない。仕方が無い、彼の事だ、きっと事務所にも居らず、そこら辺をぶらぶらしているに違いない。
「お相手の方、どんな男性なんですか?お客様がチョコを渡そうとしてるくらいですから、きっと素敵な方なんでしょう?」
赤信号でタクシーが止まると、運転手から素朴な疑問を投げられた。素敵、と言われれば、そうなのだが、少し綺麗過ぎる言葉だと思った。素敵と言うより、その人は自由奔放で男らしく、曲がった事を嫌い、ど派手な見た目とは裏腹にちょっぴり繊細さも持ち合わせている。それに見合う言葉と言えば。
「…癖の強い人、ですかね、」
「あァ?!そこは素直にそうです、言うところや……、」
ごほごほ、と強く咳払いをした運転手は、失礼しました、と落ち着いた声で話した。そう、今お目当ての彼はなまえの乗車するタクシーに乗り、神室町をぶらぶらとしている。落ち着いた口調で、改まった敬語でなまえを運ぶ、この運転手こそが探し人である真島だった。
「真島さん、」
「はい、どうされましたか。」
「適当に走ってくださいって言いましたけど、どこに行くつもりですか。」
「ごった返す街中じゃあ、落ち着いて話も出来ないでしょうから、とっておきの静かな場所へ向かっております。」
「とっておきの静かな場所…?」
「ええ、私もよく行く場所です。」
きっとお客様にも気に入っていただけるかと。ルームミラー越しには真島の眼帯しか見えなかったが、その一言に真島は今機嫌が良いのだと察する。その地へ思いを馳せる頃には、真島の運転する真島交通のタクシーはミレニアムタワー付近までやって来ていた。
***
無事到着したミレニアムタワー前では見慣れた格好の男が立っていた。
「お疲れ様です。親父、みょうじさん。」
「えっと、ありがとうございます…。お疲れ様です…、」
「おう。西田、車頼んだでぇ、」
ごゆっくりどうぞ、と頭を下げる西田を置いて、真島に誘われるがまま、ミレニアムタワーの自動ドアをすり抜けていく。人気のないエントランスホールを迷いのない足取りで進み、足を止めたのはぴったりと閉ざされたエレベーター前。真島は上下を向いている内の上を指しているボタンを押し込んだ。しかし、なまえにはその意図が分からない。
真島の事務所は確か、ミレニアムタワー内には無い筈だ。ならば、静かな場所とは真島組事務所ではなく、他のフロアの事なのだろうか。低く大きな機械音がゆっくりと近付き、それが止む頃には目の前の閉ざされた扉が開かれ、お先にどうぞ。とタクシーを降りているのにも関わらず、丁寧な口調のままの真島になまえはむずむずした気持ちを抱えながら、エレベーターへと乗り込んだ。
二人きりの空間で真島はエレベーター内側のボタン前に立っており、運転手の格好なのだがその姿がエレベーターガールならぬ、エレベーターボーイに見えた。真島を見て思うことはそれ以外にもいくつかある。
例えば、結局真島のバレンタインは予定が空いていたと言うこと、どうしてタクシー運転手の格好をして迎えに来たのかと言うこと、そして何故自分の部下にその連絡をさせたのか、と挙げればキリがない。それでもこうして、バレンタインの日に真島に会えて良かったとも思う。世界中の男女達が大々的に寄り添う日なのだ、顔を合わせるのに無理をしてまで理由を作る必要がない、今日はバレンタインなのだから。
エレベーターの行き着く先にあったのは、金網の大地とヘリポート、それを照らす照明、細い線のような柵に囲まれ、あとはただ計り知れない程の神室町の夜空が広がっていた。そこはミレニアムタワーの屋上、最も神室町の夜空に近いと思われる場所。ここでは頭上の星を見上げることではなく、ネオンや街明かり、そしてビルの旋毛を見下ろすことが許される。なまえは街を覆う夜闇の底知れなさを見たような気がした。
「お客様、いかがでしょうか。ここが私のお気に入りの場所です。」
「…とってもいい場所知ってるんですね。」
「気に入ってもらえましたか、」
「もう、やめてくださいよ。なんか調子が狂います、真島さん。」
みょうじちゃんがそう言うなら、と真島は被っていた帽子を取り、首元のネクタイを緩める。そして街の灯がよく見えるだろう鉄格子の前まで、微かに吹く風の中を進んだ。神室町の頭と言うのは、なまえが思っていたよりも綺麗なものだった。
それは点々と街中に散りばめられ、隙間を埋めるように流れていく光は車のヘッドライトだ。建物を見れば、丸いものだけでなく、窓枠で切り取られた照明の輝きが貼り付けられ、一体いくつあるのだろうと思っても、数える気になれない程、それは存在した。鉄格子に肘を掛ける、少しだけ前屈み、なまえも真島も同じ姿勢だった。
「今日は真島さんに渡したい物があるんです。」
なまえは手にしていた鞄をがさがさと漁り、綺麗なままの包みを真島に差し出した。
真島はそれを受け取ると、おおきにな、と口元を歪ませて笑う。
「今開けてもええんか、」
「待ち切れないなら、」
なまえの言葉に、手の中にある包みを見つめた後、帰ってからにするわ、と呟くように言った。どうして、と聞いても、秘密や、と濁されて、その理由を聞くことは出来なかった。しかし、真島の横顔から滲む機嫌の良さと上がりっぱなしの口角を見れば分かる。なまえは視線を真島から神室町の夜景へと逸らした。
「ホンマにおおきにな、みょうじちゃん。」
「…どうしたんです、」
「みょうじちゃん、今日がなんの日か知っとるか?」
「今日はバレンタインや。誰が決めたか知らんが、自分の正直な気持ちを伝えなあかん日なんやろ、」
せやから、みょうじちゃんに言うとるんやないか、ホンマにおおきにな、って。真島はなまえの方へ身を乗り出すと、それが俺の言いたかったことや、と瞬きもせず、揺らぎもしない瞳でなまえを見抜いた。なまえは呆然としていたが、状況を理解し、全てを飲み込む頃には笑いが込み上げてくるのを感じ、素直に笑って見せた。
「な、何がおかしいんや!」
「真島さんが、おおきにな、なんて改まって言うから、」
「せやから、なんやっちゅうねん、」
笑いを噛み殺しながら、なまえはぽつりと呟く。私も浮かれちゃいそうです、と甘い言葉が夜風に溶けていった。それを耳にした真島も、俺もや、と呟き、なまえは同じですね、と再び笑った。そして、何かを思い出したかのように、なまえは鞄からとある物を取り出すと、おひとつどうぞ、と真島にそれを差し向ける。なまえが握っていたのは煙草によく似たパッケージで、真島は驚きつつ、それを一本引き抜き、口に咥えた。
そこで真島は思い出すだろう、今日はバレンタインなのだと。口内に甘いチョコレートの味が広がるまで、それがなまえの照れ隠しであると察するまで、もう間もなく。
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