時計の針だけが几帳面に仕事をしている、客足のないスカイファイナンス事務所。社長である秋山は乱雑でいてお粗末に散らかっている自分の席に座って、ぼうっと背後の窓の外を見ていた。
 窓から差し込む日の光はとても気持ちがいい、秋山は一つ背伸びをする。同じ姿勢で固まっていた体を伸ばして解す、たくさん力んで、その分力を抜く。それだけで体の疲労が軽減されたような気がして、ぐったりと椅子の背もたれに体を預ける。事務員の花も今は雑誌を読み耽っては、あまりの客足の無さに時々入口を見ていた。

「今日もお客さん来ませんね、社長。」
「そうだねぇ、でもいいんじゃない?たまにはこう言うのも。」
「何言ってるんですか!社長はお客さんが来ても来なくても、私に全部押し付けて、どっか行っちゃうじゃないですか!」
「あ、いや、それはね、花ちゃん……、」
「社長はいいですよね。私っていう有能な秘書がいるから、自分はゆっくり出来て!…あ〜あ、私もたまには社長に事務、雑用、買い出し、ぜ〜んぶ押し付けての〜んびり休んでみたいですよ!」
「……はは、まいったな。でもさ、花ちゃんがいてくれて本当に助かってるよ?だから、そう怒らないで、ね?」

 自らの失言にだらけていた体を起こし、背筋を真っ直ぐに伸ばして花の怒りを上手く収めようとする。その場しのぎの対応がまずかったのか、しばらく後も秋山は花に小言めいた言葉をぶつけられることになる。

「でも、社長がこんなんなのに、よくこの会社潰れませんよね。」
「こんなんってのはちょっと言い過ぎじゃない?それに俺も花ちゃんの見えない所で色々頑張ってるんだよ?」
「陰の努力も良いですけど、目に見えるところで社長の努力を見てみたいもんですけどね、」
「手厳しいねぇ、花ちゃんは…、」



 その後も客足の少ないスカイファイナンスに訪れる人間は極少数で、融資にまで漕ぎ着けられた人間はいなかった。青く広がっていた明るい空もいつの間にか夕暮れに染まり、それはやがて徐々に夜空へと変わっていく。本日の退社時間が迫り、先に退社したのは花だった。今日はまともに帰れそうだと花の一言は帰り際であっても秋山を軽く刺していった。

 今日もお疲れ様、と事務所を出て行く花の背中を見送ると、秋山は接客用のソファーに座り、懐から煙草を取り出す。どうやらこの一本が最後の一本だったようで、手のひらには中身のないパッケージだけが残ってしまい、それをぐしゃっと握り潰して、すぐにローテーブルに放ったままのライターを攫って火をつける。
 一人きりの事務所に行く宛のない白煙が漂っては薄らいで消えた。ぷかぷかと、ゆらゆらと、のらりくらりと、ほそぼそと。もう行かなくちゃ、と秋山は火がついて間もない煙草を二、三口程度吸い、体内を回った煙を吐き散らしながら灰皿に押し付けた。中途半端に燃えた吸い殻をたんまり残して、秋山はスカイファイナンスを出た。


 行先は一つしかなかった。ここで連想されると言ったら、秋山の自宅が妥当なのだが、当の本人が向かっている場所は自宅と呼べるような場所ではない。それは飼えもしない小動物が無理に住まわされた薄汚いダンボール箱のような、又は誰の目にも触れさせないと鍵を掛けた宝箱のような、もしくは暗く狭く逃げ場のない檻のような。例えは無数に存在する、秋山がその場所に抱く感情や思考に基づいていくつも生み出される。一体どんな場所なのか、それは秋山しか分からない、知り得ない。小綺麗な革靴を鳴らす、爪先はいつだって前を向いていた。そこは、かけがえのない大切なものが待つ温かな場所、なのだろうか。



***



「ただいま、」

 持ち込んだ鍵は目の前の扉を簡単に開け、秋山を中へと誘う。温かな匂いがする、空気も、景色も、照明の色味でさえ、温かなものに思える。気が安らいだ、それと同時に疲労と空腹に襲われた。適当に靴を脱ぐ、礼儀正しく靴は並べられず、どちらもばらばらな方向を向いたまま、玄関先に置き去りにされる。秋山は全く気にも留めず、リビングへと一直線の廊下を歩いていく。

「おかえりなさい、秋山さん。」
「ただいま、なまえちゃん。」

 キッチンに女が一人立っていた。手元にはまな板と包丁、コンロ台の上には慌ただしく沸騰する鍋、もう片方には良い焼き色に染まるフライパンがあった。

「あとちょっとでご飯が出来ますから、」
「いつも悪いね。お、今日のも美味しそうだ。」

 なまえと呼んだ女の背後から、フライパンの中身を覗く。一口大に切られた肉と野菜が火で熱せられた鉄板の上で身を焦がしている。全ては今夜の夕食としてなまえや秋山の胃袋を満たす為、たっぷりと大きく育ったその身を切り、焼き、食す。それがここにある食材達の行く末だ。

「出来たら声掛けますから、秋山さんはゆっくり休んでてください。」
「ごめんね。なまえちゃんも疲れてる筈なのに、家事なんかさせちゃって。」
「いいんです。私に出来ることなんてこれくらいですから。」

 ありがとう、そう言い残して秋山はワインレッドのジャケットを脱ぐとソファーの背もたれに放り投げ、洗面台へと足を運んだ。顔を洗いたい気分だった。冷たい水で肌を濡らし、表面の熱を取り去ってしまいたい、そんな気分だった。
 質素な洗面台の照明をつけ、蛇口を捻る。水が勢い良くどばどばと流れ出る、強すぎる勢いをやや弱めつつ、両手いっぱいに冷水を溜めると、それを顔に押し当てるように上下させた。


 思い出すことがある。彼女の優しさに触れる度に。それは二〇〇五年、十二月のことだった。当時、神室町で路上生活を余儀なくされていた秋山は一人の女性と出会う。それは偶然だった、その日よりずっと前から帰る家などない秋山はただぼんやりと、ただ意味もなく、ただ神室町を彷徨いていた。絶望の底に似た街で芋虫のように這いつくばり、満足に一日を乗り切れるか分からない生活に期待することを忘れていた、そんな中で秋山はなまえと出会った。
 出会いのきっかけは不注意から、どちらかが悪いという訳じゃない。単純に肩と肩がぶつかってしまった。神室町はどこの通りも人が多く、行き交う人々を避けていくと言うのはそれなりに骨が折れることだ。

「ご、ごめんなさい…!大丈夫ですか…?!」

 無気力に歩いていた秋山は道路に尻餅をついていた。それを見たなまえは慌てて、秋山の手を取り、体を起こす。怪我は無いか、何か物を落としていないか、それと彼女自身の不注意を詫びる謝罪の言葉を並べ、なまえは何度も頭を下げていた。
 非日常的な出来事に秋山はもういいよ、とだけ呟いて、立ち止まった彼女を追い越した。ぶつかった相手がタチの悪い相手じゃないだけマシだと、秋山はそれだけを思い、一人ふらふらと冷たい風に吹かれて通りを歩いていたのだが、再び声を掛けられることになる。それは遠くから、急ぎ足で駆けてきた彼女によって。息を切らしながら、膝に手を付き、苦しい表情をしたままで、秋山はなまえが自分の元へ駆けてきた理由が分からなかった。

「……なんだよ、アンタ。」
「あの…!これ……、落としていっちゃうから……!」

 なまえから手渡されたのは、粗末な財布だった。確かにそれは自分の所持品で、しかし、どうしてそれを持っていたのかは覚えておらず、今となっては粗末な財布など持っていても意味の無いものだと思えた。いらないよ、そんなもの、ときっぱりと言い捨てた。けれど、彼女は断固として引かなかった。面倒さから諦めるようにそれを受け取ると、なまえは安心したような顔をして秋山を見る。

「もう、絶対にお財布、落としちゃダメですよ。」

 そう言い残してなまえは秋山の前から立ち去って行った。自分の手に預けられたままの財布を見ても、何とも思わない、何も思うことは無い。溜息を吐くことすら煩わしいと手の中のそれを傾けた時、一つ気付く。

 本来なら入っているべきではないものがボロボロの財布の中に入っていた。見間違いだろうか、と財布を思いっ切り広げて見れば、それは確かにあった。たった三枚の紙幣に印刷された男が秋山を見つめている、目の前で起こっている現象に頭がついていかない。しかし、出来の良い頭はきちんと理解していた、この紙幣は財布を届けに来たあの女性のものだと。だからこそ混乱する頭がある。一体どうして、なんでこんな俺に、と既に立ち去り、消えた彼女を思う。

 彼女の気持ちを知る術はない、しかし、それは後に明かされることになる。秋山はいつまでも彼女の通り過ぎた道を真っ直ぐに見つめ、一人佇んでいた。