そこには複数人の男が血を吐き、倒れている。酷い光景だ、男達の事務所と思われる床には血の気が引くほどの血溜まりが出来ており、床に突っ伏したままの男達は体中に怪我を負っていた。ガラス片が顔の皮膚を切り、まばらに刺さっている男、鈍器で頭部を殴打された男、辺りに自身の歯を散らし、ひゅうひゅう、と耳障りな呼吸音を発している男、顔の形を思い切り歪めるような強い衝動を加えられ、激しく出血している男。


 血の海の真ん中で、その男は佇んでいた。辺りが凄惨な光景であるにも関わらず、飄々とした態度は崩さず、懐から煙草を漁っては一服し始める。その男の正面には怯えた表情をした極道風の男が床にへたり込み、恐怖に顔を強ばらせている。

「ふぅん、これがお宅のやり方、ねぇ。ま、でもよくある手口だね。多分、どこでも似たようなことやってると思うよ。」

 呑気な煙が浮かんでは千切れていく。極道風の男は黙って、その男、秋山の話を聞いていた。突然、自分の目の前に現れた秋山へ抱いた恐怖に喉が潰れてしまったのだろう。

「でもさ、こんなやり方じゃあ、お宅んところのお客さん怖がっちゃうんじゃない?すぐに手出すわ、脅しを掛けるわで、最悪だよ。」

 そ、本当に最悪、淡々と指摘する秋山はまだ煙草をやめられない。スラックスにべったりと付着した赤が物語っている、その惨状をもたらしたのは紛れもなく、秋山自身であると。男はがたがたと震えていた、そこには極道としての威勢や強味はない、あるのは安っぽく吠えるような服装の男という現実だけだった。

「まあ、いいや。今更そんなこと言ってもね、俺にはどうでもいい話だから。……それで、さっきお話した件の答え、聞かせてもらえませんか?」

 ここでポロッと煙草を床に捨て、血なまぐさい靴底で火を消し、男の真正面に屈むように腰を下ろした。情けない声が聞こえた、それでも秋山は表情一つ変えずに男を見る。その目は秋山がなまえを抱き寄せていた時と同じで、冷たいものを宿していた。今にも相手を刺し殺してしまいそうな程の鋭い視線に、男は、頼む、頼む、殺さないくれ…、と自分の身の安全を優先させる言葉を吐いた。次の瞬間、秋山の手は男の髪を乱暴に鷲掴みにし、強く引き上げた。

「…あのねぇ、俺が聞きたいのはそんなことじゃなくて、あの子についてどうすんのかを聞いてんだよ!!アンタの命乞いを聞きたくて、態々俺がこんなことしてると思ってんのか、アンタは?!」

 重苦しい静寂を秋山の怒号が切り裂く。男は、分かった、分かったから、俺達はあの女から手を引く……!今後一切関わらない……!と秋山を見上げて懇願していた、だから、頼む、もうやめてくれ、と。その男の答えに秋山は二、三度頷き、鷲掴みにしていた手を離すとゆっくりと立ち上がった。

「じゃあ、帰るよ。…悪かったね、こんな手荒な真似して。」

 そして振り向くこと無く、秋山は事務所を出た。あの男が襲いかかって来ることは無いと分かっていた。血で汚れた足元に、どうしようかなぁ、まずいよなぁ、これ、と気だるそうに秋山は灰色ばかりの階段を降りた。きっと怖がらせてしまう、それでも秋山は戻るしかない、秋山の帰りを待つ彼女の元へ。



***



「ど、どうしたんです…?!その恰好…、それにその血は……!怪我、してるんですか…?!」

 あ〜あ、やっちゃったなぁ、と秋山は後頭部を強めに掻いた。確かに少々やり過ぎたとは思っていたが、実際に不安そうな顔をするなまえを前にしてしまうと、より後ろめたさが増す。ちょっと、待っててください…!と彼女はまだ勝手のわからない部屋の中を慌ただしく駆け出した。

 彼女は今、秋山のマンションにいる。スカイファイナンスを訪ねた日から、なまえにはここで生活をするよう言い付けていた。それは先程の男達と彼女を接触させない為であり、これ以上彼女へ不要なストレスを与えない為でもあった。
 そして今日、秋山はなまえに借金の取立てをしている男達の元へと五千万を携えて、話し合いによる平和的解決を持ち掛けるつもりだった。しかし、現実はトントン拍子に事を運んではくれず、冒頭のような結末が待ち構えていた。金は貰っていく、タダで帰す訳にはいかねぇ、あの女はウチのもんだ、とここ数年で聞き飽きたような言葉ばかりを並べて、襲いかかって来た男達はきっとまだ血の海に沈んでいることだろう。

「なまえちゃん、タオルはあっち。」

 ばたばたと走り回っているなまえに声を掛け、ジェスチャーでタオルの在処を教えてやると、なまえはその部屋へと飛び込んで行った。

「別にいいのになぁ、俺のことなんて後回しで。一番優先させなきゃいけないのは、」


 自分自身じゃないの?なまえちゃん。秋山は最後まで言い切ることが出来なかった。なまえをこのマンションに匿ってから、既に数日が経過している。それは先程も述べた通り、全ては彼女の身の安全を優先させる為であり、全ては彼女が今まで通りの穏やかな日々を送れるようにする為、その筈だった。しかし、今の秋山にはそう言った、純粋に人を助けるという気持ちの他に違う感情を密かに抱いていた。

 誰にも助けてもらえなかった彼女が秋山の元を訪ね、弱々しく縋り付くように泣いたあの日。あの数分で何かが変わってしまった。今まで見えていたものが見えなくなった。突然目の前を手で塞がれてしまったかのように。情に絆されていた、けれど、それ以上に彼女と共にした生活は酷く居心地の良いものだった。
 自分に恩義を感じ、それを少しずつ自分へと返そうとする献身、時折覗かせる不安や申し訳なさも、何もかもが相まって彼女という存在を秋山の中で確かなものへと変えてしまう。日常が庇護欲に蝕まれていく、彼女があまりにも不遇であり、不遇であったあの頃の自分を助けてくれたから。

 秋山は人知れず、唇を噛んだ。軽率で軽薄な言葉が口を突いて出ないように。胸は、心は彼女の腕を掴んでいる、俺がもし、そう頼めば彼女は俺の言う通りにしてくれるだろうか、と狡い言葉に溺れてしまいそうになる。

「秋山さん、」
「なんでなまえちゃんがそんな顔してるの、俺は大丈夫だよ、」

 慌てているせいでタオルをたくさん引っ掴んで持ってきてしまった彼女に秋山は、ごめんね、と呟いた。なまえはそれに苦い表情のまま、手にしたタオルで秋山に付着した血を拭き取っていく。その手は震えており、誰かの赤を懸命に拭おうとしている、なまえが不安を露呈させればさせる程、秋山は満たされる部分があると知った。

 自分に強く触れる手を掴んだ、不安な瞳が秋山を見上げる。もう片方の手で彼女の後頭部を引き寄せ、二人の肌は音もなく触れ合う。さほど知らぬ相手と交わす口づけと言うのは、切ないものだと知る。惨めなほど独り善がりで、酷く恩着せがましい心が囁く、拒まない理由を探り、何故と問いたくなった。拒まないのは俺の心を知っているから?それとも同じように思ってくれているから?ただ自分に良くしてくれる相手だから?少しならいいかなって魔が差したから?きみは今、何を考えてるんだろう。

 掴んでいた手さえ放し、今度はゆっくりと正面から抱き締めた。足元に落とされたタオルを拾う手は無く、二人は熱い静寂に塗れていた。唇が離れてもなまえは秋山の懐を出て行かず、体を寄せている。

「なまえちゃん…?」
「…体、震えてますよ。きっと怖かったんですよね、あの人達の所へ行った時、」

 怖かった。なまえの吐いた一言があまりにも素直で、秋山は胸の蟠りの存在が何か気付く。怖かった、単身で乗り込んだことが、じゃない。怖かった、いや、今も怖い、恐怖が消えない。たった五千万の借金なんてどうでもいい、もうこの子を追う奴らはいない、けれど、この後待ち構える未来に胸がきりきりと痛み出す。いつの間にか開いた穴は徐々に大きくなっていく、失うことが約束されている結末に抗ってしまいたい。

「ねえ、なまえちゃん。聞いてほしい話があるんだ、」
「え…?」
「このままでいいから、聞いて。」


 秋山がなまえに打ち明けたのは、綺麗な絵空事だった。事実を捻じ曲げ、うまく行った話は無かったことに、寧ろ悪化を招いてしまったのだと、彼女の不安を異常に煽る。もう家には戻らない方がいい、奴らはなまえちゃんの所に取り立てに来てたんでしょ?それじゃあ尚更危険に晒されてしまう、と告げ、彼女の目を偽りで潰す。さながらそれは誘導尋問、なまえは秋山の体が震えていると言っていた、今じゃ彼女の体に恐怖が転移してしまったようだ。

「……わ、わたしは、これからどうしたら、」

 声まで震えている、可哀想に、一体誰にそんな酷いことをされたのだろう。涙交じり、自身に回された腕の弱々しさ、消えてしまいそうな彼女の影は秋山のものと混ざり合っている。大丈夫、と諭すように、言い聞かせるように囁く、その声は変に穏やかだった。

「俺がなまえちゃんを守るよ。怖いことや悲しいこと、残酷なこと、痛いことの全てから。」

 だからさ、



***



「秋山さん、」

 一瞬で現実に引き戻された、彼女の呼ぶ声で。

「なに、どうしたの、」
「どうしたのって、お水出しっ放しですよ、」
「えっと、ああ、本当だ…、」

 びちゃびちゃと絶えず流しを濡らし続ける水を止め、未だ濡れたままの顔の水滴を拭いたくて辺りをきょろきょろと見渡す。

「はい、どうぞ。」

 今では、どこになにがあるのか、秋山より詳しくなったなまえがタオルを差し出す。ありがとう、とそれを受け取り、顔に優しく当てがう。目の前はタオルの白に包まれて何も見えない、だから、ふと聞いてみたくなった。

「ねえ、」
「はい?」
「嫌にならないの?こんな缶詰生活、まるで監禁されてるみたいじゃない?」
「私は大丈夫です、」
「どうして、」
「秋山さんが居てくれるから。だから、私は待ちます、秋山さんとなら待てる気がするんです。」
「時間が全てを解決してくれるまで?」

 はい、と苦笑する彼女の笑みをタオル越しに見ていた。懐かしい感覚に襲われる、あの時感じた恐怖が鮮明に甦る。

『私は待ちます、秋山さんとなら待てる気がするんです。』

 深呼吸をする、冷静でいなければならない、それがやって来る前に先手を打たなければならない。今は無自覚に切り付けられた傷に構っている場合じゃない、しかし、この幸せに慣れた幼稚さが駄々をこねる。


 ねえ、このまま一緒に暮らそうよ、外の世界は、現実はそこまで君に優しくない。悪意と欺瞞に満ちていて、また不用意に傷つくだけかもしれない、下手したら笑顔の意味や生きていくことの意味を忘れてしまうかもしれない。もし君がこの部屋を出て行ってしまったら、君が自ら別れを切り出すのなら、俺は、

 俺はきみの目を潰すよ。


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