夕暮れが闇に塗り潰された、午後七時過ぎ。冬の空は薄情だ、ちゃんと見てすらいない夕陽を知らぬ顔で呑み込み、窓の外をいつも物悲しい景色へと変えてしまう。一定の周期で繰り返される毎日は、最近疲労の方が勝ってきたような気がしていた。楽しいこともある、嬉しいこともある、勿論大変なことも。それでもこの街の人達は優しく接してくれる、永洲街は優しい街だ。

 なまえがこの街へやって来たのは、ほんの二、三ヶ月前。仕事の関係で福岡、永洲街へと異動が決まり、なまえはこの地を訪れた。聞き慣れない方言、水炊きや博多ラーメン、明太子などの福岡グルメ、有名な観光名所、街に沿うように流れる川。東京のものとは違う、その風景、名物、人柄になまえはこの街にある何もかもに新鮮さを感じていた。しかし、真新しいと思っていたものも時間が経つにつれて、ゆっくりと日常風景に馴染んでしまう。三週間を過ぎた頃、なまえはもうこの街に対して新鮮さを感じることはなかった。


 仕事帰りの足元は疲労を引き摺っている。ここ一ヶ月で急に忙しくなってしまい、残業時間も日に日にかさんでいくばかりだった。嫌だとか面倒だという感情ではなかった、ただ一日を占める仕事の割合が徐々に増えていけばいく程、余裕がなくなっていくのが分かった。
 忙しさに追われて仕事をこなし、疲労を抱えながら遅い時間帯に帰路を辿り、家に着いたところで自分のことや家のことをやる元気など微塵も湧いてこない。それでも仕事に精を出せば、その分だけ月の給料はそれなりに弾んだ。虚しさと疲労が報われたような瞬間だが、その喜びもあまり長くは続かない。幸せとは、喜びとは、いつ、どこに転がっているのだろう。忙しさにかまけている自分には、それを探そうという余裕はない。

 しかし、このまま無気力でいるのは良くないと分かっていた。その為になまえは日々の疲労を少しでも減らせないか、と考えるようになった。例えば、帰りの遅くなった日はタクシーを捕まえてみる、だとか、平日の夕食はコンビニなどで簡単に済ませる日を設ける、だとか。自分に甘い提案ばかりだったが、逆にそれを良しとすることで気持ちが少し楽になった。全てを抱え込むのが無理なら手を抜いてしまおう、そうすることでちょっとでも余裕が生まれるのなら、やってみる価値はあるというものだ。

 そう決めてから、なまえはタクシーを利用するようになった。相変わらずの残業続きで帰りが早い日の方が少ないというのも理由の一つだが、他にもう一つなまえがタクシーに乗りたい理由があった。逢瀬橋の向かい側にそれはやって来る。そこにやって来るのは永洲タクシーの鈴木と言う運転手だ。なまえはこの鈴木が逢瀬橋前に車を待機させていると必ずと言っていい程、そのタクシーに乗る。これは日常における、ほんの些細な淡い恋心みたいなものだ。


 なまえは今日も逢瀬橋の向かいの路地にタクシーが停車しているのを見付けると、一目散に近くの信号に並び、信号が青になれば、すぐさま駆け足で近付いていく。他の誰かを乗せてしまう前に、なけなしの元気を使ってでもなまえは鈴木の運転するタクシーに乗りたかった。どうやら自身の車両に近付くなまえの姿を見た鈴木は、後部座席の左ドアを開ける。待っていたかのように開かれるドアに、なまえは呼吸を整え、服装と髪の乱れを手早く直し、鈴木の待つタクシーに極めてお淑やかに乗り込んだ。

「また、アンタか。今日も随分と遅い帰りだな。」
「…お恥ずかしながら、仕事が長引きまして、」
「前もそう言っていたぞ。まあ、これで仕事してる俺としては有難い話だがな、」
「それなら、いいじゃないですか。私も鈴木さんのお仕事に貢献出来るなら嬉しい限りです。」
「ったく、よく言うぜ…、」

 行先は?と聞かれ、なまえは、いつもの所までお願いします、と返し、タクシーのドアは閉ざされた。そして発進する車のエンジン音に、車内に流れるラジオの曲に耳を傾けて、窓の外にある流れる街並みを見つめる。心地良い沈黙、体を預ける座席の感触は柔らかい、鈴木の運転はその見た目と違って荒くなく、非常に丁寧なものだった。体に伝わる振動さえも気持ち良い、ついつい眠気に負けてしまいそうになる。

「しかし、こんな時間まで仕事とは、アンタも大変だな。」
「そうなんですよ〜…、最近はずっとこんな時間に帰ってばっかで…、」
「まあ、正直、タクシーに乗ってくれて安心はしているがな。季節柄、すぐに暗くなっちまう。女一人で夜道を歩かせるくらいなら、このタクシーで家まで送ってやった方がいい。」
「す、鈴木さん…!」
「変な勘違いするんじゃねぇ、何かあってからじゃ遅い。だから、なまえもたまには早く帰れ、って言ってるんだ。」

 嬉しいような、恥ずかしいような。永洲街は優しい街、その言葉の意味を一番理解し、実感する瞬間だ。特に、この鈴木はなまえと同じように福岡特有の訛りを持たない男で、仕事終わりのなまえにこうして優しげな言葉を掛けてくれることも少なくはない。
 タクシー運転手だって、送迎、接客などと苦労の絶えない仕事の筈だ。それでも思いやりを持って接してくれる彼には感謝の気持ちで胸がいっぱいになる。他の客に比べたら、それなりに砕けた態度ではあるが、彼の優しさはどんなに崩した言葉であっても、きちんと伝わってくる。

「…鈴木さん、ありがとうございます。」
「礼を言われるようなことじゃない、」
「やっぱり乗るなら、鈴木さんのタクシーですね。」
「フッ、俺の接客も悪くないだろう。」
「ええ。毎日でも鈴木さんの接客を受けたいくらいです。」

 おいおい、それは勘弁してくれ…と困ったような声音に弾む胸があり、今日も車内から覗いた永洲街の街明かりが暖かくぼやけて見えた。



***



 通い慣れた道に車が止まる、なまえの住むアパート近くの路肩。二人が過ごした時間が距離に、距離が金額に置き換えられ、なまえは財布からその分を取り出す。精算を済ませた鈴木は幾らかの釣り銭を渡した後、待て、と言い付け、ごそごそと助手席にある何かを漁っているようだった。聞こえてきたのはビニールが擦れる音で、しかし、何をしようとしているのかまでは分からなかった。

「持ってけ。俺からの差し入れだ。」

 鈴木から手渡されたのは一本の栄養ドリンクだった。押し付けるように渡されたそれを受け取ると、真っ先に疑問が口を突いて出てきた。

「いいんですか、貰っても、」
「ああ、いつも贔屓にしてもらってる礼だ。じゃあな。」
「今日もありがとうございました。鈴木さんもお仕事、頑張ってくださいね。」

 最後に一度頷いた鈴木はようやくドアを開けた。なまえは名残惜しかったが、彼の仕事の邪魔をする訳にもいかないと車を降りる。バタンと閉められたドア、後部座席にはもう誰の姿もない。再び踏み込まれたアクセル、控えめに唸るエンジン音と次第に遠く離れていく車のナンバープレートになまえは貰ったばかりの栄養ドリンクを見た。

「…これ、永洲大橋から見えるのと同じやつだ。」

 スタミナンXとラベルの貼ってある栄養ドリンクをまじまじと見つめ、今も続く小さな幸せの余韻に浸っていた。しかし、辺りは既に暗い夜道と化している。自宅の前とは言え、あまり長居しているのも良くないと、なまえはアパートの階段を行く。気怠い階段さえも今は何とも思わない、煩わしいと思ってもへっちゃらだった。疲れに浮腫んだ足も、階段の先を見つめる視線もくたびれてはおらず、その顔はやはりまだ嬉しそうなままで。

 家に戻ったら、まずはこの栄養ドリンクを冷蔵庫に入れよう。そしてお風呂に入って、貰った栄養ドリンクを飲み、寝る支度をして、明日の仕事に備えて眠る。明日になったら、また会えるか分からないけれど、帰りが遅くなりそうなら、その足でコンビニにでも寄って、何か買っておこう。
 この季節、タクシー運転手に渡すとしたら、温かいペットボトルのお茶が良いだろうか、それとも熱い缶コーヒーが良いだろうか。出来るなら仕事の邪魔をしないものが良い。久しぶりにわくわくしている自分がいた。優しくしてもらえたことが素直に嬉しく、同じように優しさを渡してあげたいとそう思う。自分もこの街の優しい人でありたいと願うのは、少々背伸びが過ぎるだろうか。