空を切る音、爽快とまでは行かないが鈍く響く音が紛れ込む時がある。
放出された球になんとかバットを当てたものの、打ち返せなかった音だ。
あの後からなまえは何度もそのバットを振り回し、自分に挑んで来る球を打ち飛ばそうとしていた。
弱音を吐きつつももう一度、と懸命な様に、真島は時折会話を挟みながら、ひたすらに見守っている。
球に当たった時には、二人顔を見合わせて惜しいと声を上げるほどに夢中だった。
「真島さん、次打てたら…、」
「ん?」
「私の気になってるご飯屋さんに連れてってくれますか、」
「じゃあ、有言実行せな、あかんなァ。さっきは連れてく言うたけど、今の俺の気分から行くと…焼肉屋直行やで。」
「それも捨てがたいですね…!でも、今の私は、」
「ラーメンが食べたいんですっ!」
なまえは大きくバットを振った。
すると、ずっと聞きたくて仕方がなかったあの音が耳に飛び込んで来る。
真島が何度も響かせていた、爽快な打球音。
確かな手応えに手は微かに震えた、打球の衝撃に痺れている。
打ち上がった球はホームランの的には当たりはしなかったが、それは何度も挑んで来た中で一番高く打ち上げた球だった。
なまえは球の飛んだ方向をただ見つめていた。
真島も何も言い出せなかった、なまえと同じく沈黙したままだった。
驚きの後にやって来たのは、喜びと興奮。
「まっ、真島さん…!」
「お、おう、」
「真島さんっ!」
「…しゃあない、今日はラーメン食いに行ったろやないかい!」
「真島さあん…!」
嬉しさからか、語彙力の無いなまえはバットを手にしたまま、両手を振り上げ、表情を綻ばせた。
酷使した腕が震えていた、きっとこんなにバットを振り回した日など無かったのだろう。
自然に降ってきた偶然と奇跡に、真島は労いの言葉を投げた。
これすらもかっ飛ばしてしまわないといいが、等と思いながら。
「よう、やった。今日のハイライトや。」
真島は気怠そうに差し出した手の平を見せれば、なまえは素直にその手を注視する。
それを持ち上げ、そのまま優しくなまえの頭の上へと置いた。
そして、軽くぽんぽんと触れると、すぐさまその腕を引っ込める。
なまえはその意図に気付いていない、照れた表情を見る事は出来なかった。
目的をやり遂げた達成感を味わっているのだろう。
酷く懐っこい笑顔のまま、真島の目の前にいる。
瞳が輝く、眩しい程に。
その煌めくような眼差しが真島に違和感を覚えさせる。
「…あ、真島さん、あの、今のって、」
数秒遅れてやってくるそれは、もう真島の胸を大して擽るようなものでは無くなっていた。
照れた表情より、心を奪われてしまいそうになるものを目の当たりにしてしまった。
「真島さん、」
なまえは何度も呼び掛けた。
自分の目の前で急に黙り込んだ、真島の事が気になっている。
しかし、あまりにも反応に乏しいものだから、なまえは力無くぶら下がっている腕に触れた。
やんわりとした感触がお互いに伝わっていく。
まるで呪いが解けたかのように、真島は意識をなまえへと戻す。
「…お、おう、すまん。よそ見しとったわ。」
「もしかして、疲れちゃいましたか?」
「ンなことあるかいな。俺は疲れ知らずや、それにお姉ちゃんとおって疲れるなんて事無いで。」
「それなら、良か…、」
良かったです、と言いたかったのだろう。
辺りは他の客が先程の自分達と同じように、バッティングをしている筈だった。
それなのに、たった一瞬、ほんの一瞬だけ、的確に沈黙が訪れる。
腹部が切なそうに鳴く、なまえはその顔を赤くして今にも慌てながら弁明してくる事だろう。
二人とも目を丸くしていた、そして言葉を失った沈黙の中で、ひたすらにアイコンタクトを交わす。
その沈黙も長くは持たなかった、なまえは違うんです!と想像通りに弁明を始めようとする。
「何も違わないやろが。ええねん、体は正直なもんや。腹減っとんのやったら、そろそろ切り上げてメシ食おうや。」
「…はい、」
胸の前で握り締めたバットを元の場所に戻すと、なまえはまた自分の髪を触っていた。
こう言う時に出てくる彼女の癖なのだろう、真島は、ほれ、はよせんとお姉ちゃん倒れてまうで!と手招き、急かす。
駆け足で近寄ってきたなまえの肩を抱く形になり、店主の男に聞こえるような声で、また来るわ。とだけ言い残し、なまえと共にバッティングセンターを後にした。
真島の腕の中に収まるなまえは未だ空腹に頬を赤らめていた。
***
もくもくと立ち上る暖かな湯気、辺りにまで漂う食欲を刺激する香りになまえは目を輝かせていた。
並々と注がれた白濁色のスープに、チャーシュー、味玉、ネギ、そして普通の硬さに茹でてもらった細麺が浸かっている。
深い器一つにそれらが綺麗に収まっていた、当然の事ではあるのだが、現状空腹のなまえにとっては、脇に添えられているレンゲの位置ですら完璧に思えた。
鼻先を豚骨スープの香りが擽っていく、視覚も嗅覚も全て目の前のラーメンに夢中になっているようで、真島はそれを真隣でお冷を流し込みながら見ていた。
「我慢出来へんのやったら、食うてええ言うとるやろ。」
「だ…っ、だめです…!」
「お姉ちゃんのが先に来とるんやから、ええやないか。」
「だ、だって、…餃子がまだですから…!」
「なんや、お姉ちゃん食い意地張っとるんかいな、」
「そ、そうです、私、ラーメンと餃子、一緒じゃないとだめなんです、」
好きにしたらええわ。と、まるでお預けをくらった犬のようになまえがただ待っている姿を横目で見る。
水と一緒に流し込んだ小さな氷を噛み砕いた、この店の厨房は忙しそうだ。
丁度昼時と言うのもあって、客足も多く、遅れてやってきた二人には、その分だけ待ち時間が発生していた。
なまえの待つ餃子がやって来るのは、きっともう少し先になるだろう。
そう思うと、遂にお冷を飲み始めたなまえを見て、我慢は体に毒だと再び声を掛けたが、意地として譲る気は無さそうだ。
真島も先程、バッティングセンターで彼女の『本音』を聞いたばっかりだったが、とやかく言うまいとなまえの空腹に耐える姿を眺めている事にした。
手元にあるラーメンは湯気を立て、なまえに両手でそっと包まれたコップはまだ中身があるようだ。
けれど、本人は決してラーメンの方を見ること無く、店内のあらゆる所に視線を飛ばしている。
真島も再び水を口に含んだ、その時何気なく視線を下に落とした時だった。
なまえの器の奥に平皿が置かれている事に気付いた。
体を大きくずらして見ると、その皿の上にはなまえが今か今かと待ち侘びている餃子が並べられていた。
いつの間に、と声を掛けようとした真島よりも先に、店主のはい、お待ち!と言う声が二人の元に投げられた。
店主は丼を一つと平皿を二枚、真島の目の前に置いていった。
それは真島の頼んだラーメンと餃子、そしてチャーハンのみだけだった。
「さ、真島さんのも来たことですし、食べましょう…!」
「ちょ、お姉ちゃん、自分餃子来てへんて…、」
「…いつの間にか置かれてたみたいで、ほら、」
なまえは真島が先に見つけた平皿をこちらへと移動させると、あたかも最初からそうであったかのような口調で言った。
「…そうか、なら丁度ええな。」
「はい、私ももう待ちきれません、」
おう、お姉ちゃん、箸取ってや。と頼むと、なまえがきっちり二人分を手に取り、その内の一つをどうぞ、と手渡す。
真島は口に咥えるようにして箸を割る、なまえは両手で箸を割る。
そして、いただきます。と呪文のように唱えるなまえを横目に、真島も同じように、いただきます。と呟いた。
なんだか妙な気分になっていた、彼女と並んでこうして、いただきますと口にするだけで、少し気恥ずかしさみたいなものを感じている。
それを隠すかのように真島は初めに、箸先で自分の餃子を掴むとなまえのまだ綺麗にくっついた餃子の上に置いた。
簡単に言えば、彼女の気遣いに対するお返し、みたいなものだった。
不思議そうな顔でこちらを見ているが、何かを理解するとなまえは美味しそうですね。と残して、遂にラーメンを食べ始めた。
続いて真島も麺を一口啜る。
出来たてという事もあり、スープの絡んだ麺は熱いのだが、多少空腹気味だった真島の食欲を刺激し、その手は止まる様子が無い。
こうして、二人の昼はがっつりと豚骨ラーメンを食すのだった。