翌日、なまえの思った通り、遅い帰りとなってしまった。しかし、今日はあまりにも酷い一日だった。前々から消化してきた仕事の更なる上乗せ、突如言い付けられた資料作成の依頼も、今日に限って押し付けられた余計な仕事、本当に酷い一日だ。時計の針も九時を指し示し、昨日のものとは全く違う疲労にぐったりとしてしまう。足を引き摺るように歩いていく、辺りは少し寂しく見える。流石に遅い時間ともなれば、街の風景も寂しくなっていくのだと知り、こんな時間まで仕事をしていた自分が悲しく思えた。
仕事をしなければ、生活する為の金銭は得られない。分かっている、勿論、もういい大人だ、物分かりが良くなければ、すぐに落ちていってしまう、それも良く分かっている。それでも、この胸に込み上げてくる虚しさは何なのだろう。人の少なくなった街でも活気や笑顔はそこら中にあるのに、何故自分だけ取り残されたように感じてしまうのだろう。きっと疲れている、頭も体も心も。休まなきゃ、早く家に帰らなきゃ、そして、早くゆっくりして……、そうしたなら、今日が終わる。
なまえの帰路には逢瀬橋がある。その言葉通りではないが、確かにあの人との時間を重ねてきた場所だ。いつもなら待ち遠しかった、今日は居るだろうか、いや、居ないかもしれない、と一人で期待と不安に胸をどきどきさせていた。けれど、今日のこの道はいつもの帰り道じゃない。見るもの全てが物悲しい暗色に包まれている、ここは自分一人だけが歩いていく帰路なのだ。こんな風景であると分かっていたから、なまえは何処にも寄らず、真っ直ぐ家へと急いだ。
昨日見ていたのは、浮かれた頭で考えていたのは、夢だったのだろう。自分の手には暖かなお茶も缶コーヒーもない、あるのは指の先まで疲労で満たされた翳る手のひらだけ。虚しさがゆっくりと胸を満たしていく、勝手に満たされたそれを上手く飲み込む方法も、消化する術も、吐き出す勇気も、何もなかった。数時間前の逢瀬橋でなら、彼と会えたのだろうか。あの橋に名付けられた言葉の意味に打ちのめされたような気分だった。
だらだらと遅い歩行を繰り返す自分を呆気なく追い越しては、街角に消える車の背中に視線を逃がす。数メートル先の待ち構える闇に、赤いテールランプを光らせて消えていく背中もある。期待、してしまう自分を馬鹿だと思う、今も尚、もしかしたら、と車のエンジン音を聞く度に揺れる心のせいだ。もう何度目のエンジン音だろう、聞き飽きた、聞き慣れた、これ以上聞きたくない。
早く帰ろう、この街に漂う寂しい闇から逃げるようになまえは重たい足を急かした。ヒールが喧しく鳴る、うるさい。踵に違和感を覚える、じわじわと痛み始めるそれに溜息を吐き尽くす。腕時計を見る、ああ、もう今日の残された時間は三時間程度しかない。自棄になって歩いていた、どんどん擦れていく踵の痛みを無視していたが、遂になまえは足を止めてしまう。
「どうして、こんな日なんだろう、」
痛む踵に腰を下ろして目を閉じる。道行く人の視線は僅かだが、過剰に意識してしまう自分に視界が濡れていく。ぐずぐずになった心を抱き締められない、今の自分は酷く衰弱してしまったのだ。また慌ただしいエンジン音が聞こえてくる、きっとこんな道端で縮こまってる自分を置き去りにしていく背中だ。もう何度目か分からない、期待するなと自分で釘を刺したくせに、刺したばかりの釘がぐらぐらと震える。弱い、あまりにも、期待しすぎる、馬鹿みたいだ、でも、もう一度だけ、あと一度だけ期待してもいいだろうか。
車のエンジン音は気付けば消えていた。やはり駄目だった、どこか近くでガリッと鳴った、静かに開き、バタンと何かが閉ざされた音がした、ついでにこちらへ近付く足音も。
「おい、ここで何やってんだ、」
往生際の悪い諦めが報われた、そんな気がした。顔は自然と声のする方へと誘われた、視界はまだぼやけている。見上げた先にはあの人が立っていた、眉間の皺は深い。ここにいる理由を聞く前に腕を掴まれ、その場にゆっくりと立たされる。密かに痛む踵に気付いたあの人は顔色一つ変えず、重たい体を抱き抱え、駐車している車の方へと戻っていく。
「え、あ、あの…!」
「なんだ、」
「大丈夫ですから、」
「大丈夫なやつは泣いたりしねぇ、」
「…それは、」
「言いたいことがあるだろうが、今は黙って俺に任せてくれ。それから、話をすればいい。」
「……はい、」
頼り甲斐のある強い言葉になまえは口を噤んだ。それはあの人に、鈴木に真っ直ぐな目で見つめられ、諭されたからだ。中途半端な慰めや優しさじゃない、鈴木のその言葉になまえは落ち着きを取り戻していた。
しかし、不思議だった。今日も結果的にはこのタクシーに乗っている。あれから鈴木に運ばれ、タクシーに乗せられて、今はどこかへと向かっている。後部座席に座る際に踵の靴擦れを確認され、なんとかしねぇと、と呟いていたことから、きっと何かを探しているのだと思う。なまえも今日ばかりは外の風景に見蕩れていられず、ぼうっと自分の手元を見つめていた。
「あんな場所で何やってたんだ、こんな時間に。」
不意に尋ねられ、なまえは驚きつつも話し始める。
「…挫けてました、ひとりで。」
「挫けてた?一体どうしてだ、」
「今日は、その、とても大変な一日で…、」
「……そうか、」
「聞かないんですか、」
「聞いてほしいって言うなら、話は別だがな。」
「う〜ん、じゃあ、少しだけ付き合ってくれますか?」
「わかった、いいだろう。」
なまえは今日の自分を振り返るように、ぽつりぽつりと虚しさを吐き出していった。胸を満たしていた虚しさが消えていく、鈴木が話に相槌を打つ度に一つ、また一つと消えていく。仕事の重要さ、いかに効率良く、いかに的確で、いかに伝わりやすいかを基礎とし、あってないような計画に振り回され、何よりもまず優先させなきゃいけないプレッシャーと期日を与えられ、頭を抱える時間と余裕すらない。
それはまるで生き急ぐ、いや、死に急ぐよう。日常を少しずつすり減らされ、人生の意味を書き換え、生活と仕事の境目を曖昧にされていく。仕事をする為に生きているのか、生きる為に仕事をしているのか。そんな簡単な問題さえも分からなくなってしまう。
「ごめんなさい、嫌な話をしてしまって…、」
「気にするな、全部吐き出せばいい。ずっとそんなもん抱えてちゃ、辛いだろう。」
「……鈴木さんは、どうしてあんな場所に来たんです、」
素朴な疑問だった。今日はもう会えないだろうと思っていた彼がどうして、あの場所にやって来れたのだろうか。偶然であると知っていながら、なまえは敢えて聞きたかった。どうしてか、と。
「気になってはいた。昨日、あんな話をしたばっかりだったからな、今日も待ってたんだ。」
「待ってた…?鈴木さんは仕事だってあるのに、」
「馬鹿、仕事ついでだ。それになまえにも乗ってもらえりゃあ、こっちは助かるんだ。なんせ、売上が物を言う仕事だからな。」
「…そうだったんですね、」
それだけがすっと口から出て行くと、ここでようやく張り詰めた何かが解けたような気がして、再びぼやける視界に慌ててそれを拭った。
「もう大丈夫なのか、」
「ええ、もうばっちりです。ありがとうございました。」
「まあ、なんだ、泣いてる顔より笑ってる顔の方がいい。」
それだけだ、と珍しく素直で優しい口ぶりの鈴木に、なまえは何も言えなかった。上手く言えない代わりに笑ってみた、悲しみを喜びで塗り替えたような瞬間だった。ルームミラー越しに見えた鈴木の口元が柔らかく緩み、どうして、この人は、と考える内に瞼は自然と閉じていった。
***
既に無人となったタクシーが永洲街を走る。運転手は鈴木である。後部座席には誰も座っておらず、彼女は無事に自宅まで送り届けられたのだろうか。誰も乗せないタクシーには目的地があるようで、鈴木は淡々と車内のラジオを垂れ流しながら、目的地へと急ぐ。少し気がかりなことがあると、鈴木はルームミラーを見やる。しかし、後ろの席には誰もいない、彼女の姿はとっくに消え、自分が気にし過ぎなのだとそう誤魔化すように、アクセルを踏み込んだ。
鈴木のタクシーが目的地に到着したのは、それから数分後のことで人通りの少ない道で一人、車のトランクを開けた。そして、溜息を一つ吐き、見上げた視線の先には見慣れたアパートがあった。何故、鈴木は勤務時間中に自宅であるアパートに立ち寄ったのだろう。開けたトランクの中には一体何が入っていたのだろうか。永洲街の夜は人知れず、更けていく。