閉め切られていたカーテンを開ける。部屋いっぱいに雪崩れ込むのは冬の朝の温かな日差し。お節介な日差しに起こされた鈴木の表情は険しい、まだ眠っていたいと言いたそうな顔をしていた。
「ほら、もう起きないと。今日もいい天気だよ。」
「ああ……、」
無理に眠りから覚まされ、鈴木はくしゃくしゃの顔で彼女を見た。長く伸ばした髪を下ろしている彼女はにこやかに微笑む。この質素な部屋に光を零したのは彼女で、彼女は鈴木を優しげな瞳で見ては、窓の向こうの晴れ晴れとした空を見ているようだった。朝日を一手に浴びる姿が淡く見える、陰影の浮かぶ背中、光源に白く照らされる頬や輪郭、肩から指先まで、はっきりとした明暗のコントラストに鈴木は暫しの間、目を奪われていた。
「…どうしたの?そんなにじっと見て、」
「ああ、いや、なんでもねぇ、」
「なぁに?見惚れてたの?もし、そうなら嬉しいんだけどな、」
「だから、なんでもねぇって言ってるだろ。」
「なーんだ、残念。」
こちらへと近付いてはあからさまに期待をしている彼女を上手く避け、まだ薄暗いままの洗面台へと逃げて行く。彼女の言葉通りだった。朝日に照らされた彼女が綺麗で、見惚れていたのは事実であり、しかし、男のそれを素直に伝えてくれない意地っ張りな一面に悩まされる。伝えてやってもいいんだがな、しかし、と自分に甘い時間稼ぎをしている内に、次の彼女の言葉が飛んで来た。
「ねえ、朝ごはんで目玉焼き焼くんだけど、醤油切れてて。今日だけケチャップでも良いかしら、」
「ああ。任せる、」
彼女を返事を待たずに鈴木は、いつもの朝の支度を始める。冬の日には少し辛い冷えた水道水で顔を洗い、刺激の強い歯磨き粉できっちりと歯を磨く。洗面台での支度が終われば、今度は彼女の用意した朝食がテーブルの上で丁度二人分、丁寧に並べられており、うまそうだ、と口にすれば素直に喜ぶ顔が一つ。
温かな食事で低体温の体を胃袋から温めた。腹部の微かな温もりと差し込む日差しが眩しい時間。がっつくように食べる鈴木をたしなめるのは、いつも彼女だけだ。
「もっとゆっくり食べないと。それに早食いは体に悪いんだから、」
「悪いな、昔っから俺はこうなんだ。うまい飯を前にしちまうと、手が止まらねぇ。」
「ふふ、まあ悪い気はしないけど、次からはゆっくり食べて。これでも心配してるんだからね。」
「ああ、気を付けるよ。」
微笑みを交わしながら、二人分の食器は余白を広げていった。なにも残らない皿を嬉しそうに片付ける彼女を横目に、ようやく仕事着に袖を通す。冷たい部屋の空気に触れていたせいか、微かに冷ややかであったが、そんなことお構いなしに身支度を整えていく。間もなく家を出て行くのだと、彼女は流しに食器を重ね置きし、もう行くの?と近くのタオルで濡れた手を拭きながら問い掛ける。
「出る時間なんだ。そういや、お前はこの後どうするんだ。」
「そうだなぁ、この食器片付けたら帰る。私もやらなきゃいけないことがあるから、」
「いつも悪いな、本当ならその食器だって俺がやらねぇといけねぇのにな、」
「いいの、私が好きでやってることなんだから。ほら、早く行かないと遅れちゃうよ。」
腕に巻いた時計を見れば、急かされるように鈴木は玄関のフロアマットに腰掛け、いつの間にか丁寧に揃えられていた革靴を履く。自分では気にしないようなことにさえ、彼女は当たり前のように気付き、こうしてきちんと踵と踵を合わせて並べてくれる。
「いつもすまないな、本当に感謝してるんだ。」
「だから、いいの。それにしても今日はどうしたの?なんだか嬉しそう。」
「…ああ。最近になってなんだが、もっと頑張らねぇとなって思うんだ。」
「それって、お仕事のこと?」
薄暗い玄関に倒れたままの写真立てを見る。鈴木は手を伸ばし、その枠をなぞるように触れるだけで、肝心の写真を見ようとはしなかった。
「俺が懸命に働くことで支えてやれる奴らがいるんだ。だったら、俺はもっとそいつらの為に稼いでやらねぇと。」
「そう。じゃあ、頑張らないとだね。でも無理はしないで。」
「ああ、それじゃあ行ってくる。まゆみもあんまりここに長居せず、帰れよ。」
「うん、わかってる。いってらっしゃい。」
優しく微笑む彼女、まゆみを残し、鈴木は目の前の扉を開けて家を出た。
***
意識が徐々にはっきりと定まっていく。昨日は疲労に負けて、鈴木の運転するタクシーの中で居眠りをしてしまった。それからの記憶はない、あの後自分自身がどのようにしてここへやって来たのか、全く覚えていないのだ。眠気に重たい瞼を持ち上げれば、真っ先に柔らかな朝日が厚手のカーテンの隙間からこぼれてくる。差し込むそれに数秒だけ目が眩む、仄かに温かくて、目に優しくない日差しにざわつく胸元があった。
ここはどこなのだろうか。なまえは柔らかなベッドの上に寝かせられている。恰好は昨日の仕事着のままだ、普通ならここは自分の部屋でなければならない。しかし、この部屋の景色に見覚えもなければ、心当たりもなく、ベッドから降りようとした時だった。体が不自然な動きをし、なまえはベッドから転がり落ちてしまった。脇腹や頬に鈍い痛みが走る、小さく呻き声を上げるがくぐもっていてはっきりとは聞こえない。
なまえの手足には身動きが取れないように、黒いガムテープが何重にもぐるぐると巻かれ、絡まっていた。執拗に両手両足を拘束し、おまけに口元には猿轡。痛みに呻きながら辺りを見る、テレビもなければソファーもない、生活感のない部屋になまえは一人拘束、放置されていた。硬くてひんやりと冷たい暗色のフローリングには小さな傷が所々に目立ち、薄暗がりの中の白い壁紙は陰湿そうな印象を受ける。
恐怖が、湧き上がってくる。部屋に差し込む日差しはいつもと変わらない優しい朝の日差しだ。それなのに、目の前の現実は、取り残されているこの部屋はあまりにも残酷で、何故と自問自答を繰り返すなまえに的確な答えを教えてはくれない。芋虫のように蠢く体がある、しかし、執拗に巻かれたガムテープを剥がす術もなければ、噛まされた猿轡を取り外すことも出来ず、ただカーテンから覗く日差しを浴びながら、なまえは呻き、蠢き続けた。
次第に荒くなっていく呼吸、理解出来ない状況に視界はぼやける。助けを求めようにも口を塞がれ、逃げ出そうにも手と足を掴まれては、なまえに出来ることなど何もない。どうにかなってしまいそうだ、日差しだけが普通で自分を含めたこの場所の全てが異常なのだから。この部屋には明るい未来など存在しない、テレビのニュースや雑誌の記事で知る、こういった出来事の行き着く先はいつも──────。
突然、玄関から物音が聞こえた。芋虫の体は恐怖にびくつき、恐怖に声を漏らす。まだ見ぬ相手の顔に震え、何かを拒むように首を横に振り、身を縮めるなまえは見た。自分の両目が塞がれていないことを酷く悔やみながら、しっかりとその顔を捉えていた。混乱、恐怖、動揺ばかりで、理解さえも出来ない頭は使い物にならない。なまえが何もかもを忘れて見つめた先に立っていたのは、
「…おい、何があった。そんな所で何してんだ。」
鈴木だった。こちらへとゆっくり近付いてくる足取りは早急なものではなく、何事も無かったかのように普通そのものだった。酷く後悔した、やはりこの目は塞がれるべきだったのだ。これが現実なのか、これがなまえの待ち受ける結末なのか。目の前が真っ暗に翳っていく。鈴木は相変わらず、どうしたんだ、と言いたそうな顔でなまえを見ている。鈴木は横たわるなまえの真正面にやって来ると腰を落とし、口を塞ぐ猿轡を取り払った。
「なまえ、大丈夫か。お前、どこにも怪我はねぇか。」
上手く喋れない、声が出ない。喉は恐怖に潰れ、役に立てそうにない。
「…ったく、ベッドの上で暴れたんだろう。本当に落ち着きのねぇ奴だ。」
昨夜のようになまえの体を起こすと抱き抱え、再び柔らかなベッドの上に置いた。あのフローリングとは違う、柔らかな白の感触と乱れた前髪を直す鈴木の指先に吐き気がした。
「顔色が悪いな…、そうだ、少し待ってろ。」
そう言い残し、鈴木は質素な台所の冷蔵庫を漁っている。なんともない顔をしていた、鈴木がこの部屋へ訪れた時。手にはあのドアを開ける為の鍵が握られていた、さも当然だと言うように。それはここへ助けに来たと言うよりかは、ここに戻って来たと言うのが正しい、なまえにはそのように見えた。だからこそ、吐き気がする、何かが喉へとせり上がってくる感覚が止まらない。現実が呆気なく顔を変えた、今まで現実だと思っていたものは何だったのだろう。
「……助けてください、」
ああ?と冷蔵庫を漁っていた手を止め、こちらへと振り向く。心做しか、その目が鋭く突き刺さる。やっぱり疲れてるんだな、と労わる様な目付きが再び冷蔵庫に向けられ、がさがさと漁る手付きは先程より乱暴だ。否定されない手足のガムテープになまえは酷く落ち込む。
「ほら、こっちを向け。俺が飲ませてやる。」
台所から離れ、遂になまえの座るベッドまでやって来た鈴木の手に握られていたのは、一昨日の帰り際に渡された栄養ドリンクと同じものだった。プチプチと音を鳴らしながら瓶の蓋は千切れ、くるくると回せば簡単に蓋は外れていく。未使用の飲み口を唇に宛てがわれたが、なまえは素直にそれを口にすることは出来なかった。
出来るわけが無い、自分をこのように拘束した男の施しを受けるなんてこと、出来る筈がなかった。参ったな…、と冗談なのか本音なのか分からない言葉を呟いた後、なまえが飲まないと知った栄養ドリンクとなまえの顔を何度も見合わせている。
本当に、どうしてこの人とこの部屋にいるのだろうか。困ったような、不安そうな顔で、自分を見る鈴木に更に心を掻き乱されていく。
「……鈴木さん、どうしてこんな、」
「俺にはこうすることしか出来なかった。昨日、お前の話を聞いて、俺はどうにかしてやりたいと思った。」
「やめてください、どうしてそんな顔をするんですか、…やめてください、お願いですから……、」
「俺にはこういうやり方しか分からねぇ。いつもそうだ、昔からいつも最後はこうなっちまう。俺は、上手いやり方っつうのが分からねぇ。」
分からねぇんだ、と言い切った鈴木の顔に翳りが見え、なまえは自分が心変わりしてしまわぬように抗う。どんな理由であれ、どんなに自分が心を寄せる相手であっても、決して、それは、と言葉を並べた所でもう一度鈴木を見た。
瞳が沈んでいる、睫毛が揺れている、悲しい瞳だった。決して、決して、その言葉の意味だけでは止まらない感情がある。分かっている、分かってはいる、けれど、酷く揺らぐ感情の波間に、鈴木に抱いた恋慕が滲む。道端で挫けた自分を抱え、心まで慰めてくれようとしてくれた鈴木のことを、どうして簡単に切り捨てられるのだろうか。思考と感情が直結してしまったからには、もう手遅れなのだとなまえは俯いた。
そこでふと目に入ったものがある。ガムテープが巻き付いた足首の、更に下、そこに見覚えのないものが存在していた。何かを覆うように貼られた絆創膏、道端で挫ける前の自分を思い出す。無理矢理痛みを押し殺して歩いた自分の傷、靴擦れの痕を隠すようにそれは貼られていたのだ。どくん、と心臓が大きく脈を打つ、いけない、これより先に進んではいけない、視界が歪み始める。
「私は鈴木さんが、好きです。」
本当なのか…?と狼狽える鈴木に自分が重なって見える。哀れで情けなくて可哀想なその姿が、しかし、やはりダメなのだ、これを良しとしては。
「でも、鈴木さんのしている事は受け入れられません。お願いです、ここから出してください……、」
なまえの悲痛な声に鈴木は黙り込んだ。目を閉じ、眉間の皺を深くさせると俯き、目を微かに開き、思い詰めたような顔でなまえを見た。
「それは出来ない。今ここでお前を部屋から出したら、またお前は昨日のように知らない道端で挫けてしまう。俺はそんな姿見たくないんだ、俺はなまえの笑った顔が好きなんだ。」
どうして分かってくれないんだ、ぽつりと呟いた言葉とこちらをじっと見つめる視線に呼吸を忘れる。
「す、鈴木さん、わたしは、こんな形じゃなくて、もっと…、違う形で……!」
「それじゃあ意味が無い、俺は今目の前にあるものをちゃんと掴んでいないと、」
すぐに失くしちまう。アイツも、アイツも、アイツも、みんなそうだ、俺がちゃんと掴んでいなかったばかりに皆、遠くに行っちまった。鈴木の独白になまえは何も言えなかった。焦燥する顔を初めて見た。いつもタクシーで見せてくれる優しい笑みはない。
縋り付くような目がなまえを捉える、心の弱いところを射抜くそれに視線が逸らせず、重たく仄暗いものを漂わせる鈴木に次の言葉を忘れてしまった。きっとそれはなまえの知らない鈴木という男の過去であり、なまえが知るはずのない後悔である。
「だから、なまえ、お前をここから出す訳には行かない。俺はもう何も失いたくないんだ。」
頼む。もうこれ以上、俺に失わせないでくれ、と抱き寄せられ、一つの結末を見る。頬に掠める鈴木の横の髪も、怖い程の目付きをしていた鈴木の震える体も、鈴木が抱える過去からの恐怖も、何もかも自分が触れるべきものではなかった。手足のガムテープは剥がれないだろう、完全に絆されてしまった心を変えることは出来ないだろう、弱さを知った自分がこの部屋を出て行けるなんてことはもう叶わないだろう。
永洲街は優しい街だ。この街に住む人間は皆誰もが暖かくて優しく、当然と言うようにそれを差し出してくれる。鈴木が耳元で頼りない声に言葉を乗せて、ささやかな希望を口にしていた。状況や場所が違えば、喜ばしい言葉だったのだろう。しかし、今ではただ耳にこびり付く呪いのようで、冬の冷たさに染まるこの部屋でなまえは自分が持っていた温もりをなくしてしまったのだと理解する。もうここに好きだった人の姿はない、あるのは好きな人の形をした残酷な優しさの化身だ。
窓から差し込む日差しはどこか春を思わせる程に柔らかでいて仄かに暖かいのに、なまえは一人残酷な季節に取り残され、置き去りにされていた。きっと彼も冬眠を望んでいる、この部屋で、この街に春がやって来る日まで。
| 優しい街 |