髪の毛は一本一本丁寧に描かれた艶やかな黒、瞳は暗褐色、ふっくらとした胸元はとても柔らかそうで、閉ざされたままの唇も綺麗な形をしている。肌も白く、手足もすらりと長く伸び、何を考えているのか分からない口元が笑みに緩めば、いとも容易くそれを見た相手の体温を上げてしまう程に魅力的な女だった。瞬きの一つにすら目を奪われ、ため息の一つにすら動揺を誘う。自分の周りの雰囲気を簡単に変えてしまう、それほどに見目麗しい女がなまえという女である。
「なまえ、」
何かに奪われていた瞳が微かに光り、こちらを見る。彼女の表情は一気に柔らかく、素朴に笑みを作り上げていく。俺はこの世に一つしか存在しないものを手に入れたのだと、峯義孝は満たされていた。名を呼ぶ、肩を抱く、隣に座る、正面に立つ、キスをする、何をしても彼女はいつでも自分の傍にいて、峯の好きな笑顔を見せてくれる。
「なんでしょう、」
「ここへ来ればいい。この部屋は俺からすれば手狭に感じる部屋じゃない、ならなまえにとってもそうだろう?」
「傍に来て、って言ってくれればいいのに、」
「……言わせたいのか?」
「いいえ、私から隣へ。」
「ああ、そうしてくれ。助かる。」
決して遠回りな言葉選びではなかったはずだ、しかし、女という生き物は柔らかなニュアンスの言葉が好みのようで、峯は稀に苦戦を強いられる時がある。なまえは素直な物言いをする女で、自分では口にすることを躊躇う言葉もさらっと言ってしまう、そんな女だ。なまえが音もなく、そっと腰掛ければソファーは静かに沈む。彼女の匂いが鼻先を擽り、峯はようやく安堵を覚えた。
峯は生まれてから今まで、満足に自分を満たせたことがない。幼い頃は自分を取り巻く環境に苦しめられ、他人に羨まれる大手企業に就職しても尚、飢えは満たされなかったのだ。信頼、愛、絆、どれだけ金を得ようとそれらは自分の元を訪ねてはくれず、寧ろ人間関係を拗らせてばかり。
莫大な金を持つ自分に出来る人集りは、峯義孝という男に惹かれてやって来るのではない。峯義孝と言う男が生み出す金に惹かれて集まってくるのだ。自分を慕ってくれる部下に信頼はない。好きだと口にしてきた女達に愛はない。知人になりたがる相手との間に絆はない。誰もが皆良い気になっていたことだろう、自分の周りにいることで都合のいい夢を見ていたのだろう。
結局、幼い頃と同じだった。どれだけ金を得ようと、どれだけ自分を取り囲む人間が増えようと、現状は貧しいままだった。その事実に気付いた時、峯は怒りに震えた。手に入れたと思っていたものは全て幻想でまやかしに過ぎなかったのだと、誰も自分を見てくれてはいなかったのだと。
昔よりは明らかに裕福になったのだ、誰よりも勉学に励み、誰よりも努力し、誰よりも渇望していた。それでも、現実は峯を満たしてはくれない。どうすればいい、なにをすればいい、選ぶべきものとは。
「……義孝さん?」
「ああ、すまない。少し昔を思い出してしまってな、」
「昔……?」
「くだらない過去だ。気にするな。」
「義孝さんがそう言うなら、」
彼女は優しさの上手な使い方を知っている。峯がひび割れた過去をなぞる度に、彼女は優しさでその溝を、その穴を、その傷を綺麗に埋め直していた。勿論、どれほどの優しさを注ごうと過去の傷は癒えることはない。それでも自分の為にと何回でも優しさを使ってくれるなまえに峯は初めて心を、自分の隣にいることを許せたのだ。
「お前のそう言うところが、俺にはどうしてか心地良い。」
「きっと私はいい女です。傍にいるだけで人を癒してしまうような、そんな、いい女なんです。」
「似合わないな、いい女と言う言葉が、」
「よ、義孝さん……!」
「冗談だ、」
俺には勿体ないくらいの女だ、心からの言葉だった。金や地位に靡きもせず、ちょっとからかえばすぐに表情を一変させ、それでも自分の日常に当たり前の存在としていてくれる。
本当に、勿体ない相手だ。馴染みつつある幸せにいつか嘘を吐かれてしまうのではないか、当然だと慢心した頃にふっと彼女は消えてしまうのではないか、これは都合のいい寂しい夢幻なのではないか。そう疑ってしまってもおかしくないくらいに、この日々は平穏そのものであり、峯にとってかけがえのない時間だった。
ここまでの関係を築くまでにたくさんのものを犠牲にしてきた、ただ傍に置いておく為だけに、彼女には多くのことを要求してしまった。峯が身を置く世界のこと、もし望むのならば何もかもを捨て去らねばならないと言うこと、そして峯へ示さなければならない絶対的な証明。
堅気の女と関係を持つ。そこら辺を彷徨いている下っ端のヤクザでさえ、いとも容易くやってのけることだ。しかし、峯にはそれが容易ではない、自分の元に置く人間は簡単に切り捨てられるような人間であってはならない。だからこそ、こうして今傍にいるなまえのことを、かけがえのない、愛おしい存在なのだと認識している。彼女が切り捨ててきたものを峯は自分の何かで埋めてやろうと、そして彼女もまた、峯の胸の穴を自分の何かで塞ごうとお互いに献身的であることを選んだ。
「なまえ、愛している。この世の何よりも。」
ぽかん、とした表情を数秒、それからは口を閉ざし、目を泳がせ、静かに俯く。な、なんで、そんな急に…、とあからさまに同様の隠せない声を躱し、峯はなまえに更に声を掛ける。
「もっとこっちに来てくれないか。今夜は是非とも、いい女とやらに癒してもらいたい。」
「……さっきのは、その、少し調子に乗っちゃって、」
「なまえがそうだとしても、俺は至って真面目だ。さあ、どうするつもりだ。」
こういう時ばっかり、義孝さんはずるいです、と俯いてばかりのなまえの頬を指の背で撫でれば、恐る恐るこちらを見る。その奥手さに込み上げる熱がある。いじらしい、とはきっとこのことだろう。
「なまえ、ここへ来てくれ。」
これでも駄目か、と優しく、極めて優しく言葉を紡ぐ。こちらへ来るのをどこか躊躇っている、どこか恐れているような彼女を誘い出す為に。こくん、と首を縦に振ったなまえの瞳にささやかな星が散りばめられ、惹かれ合う視線のままに二人は唇を重ねた。
優しく、柔らかく、甘く香り、どれだけ欲張っても決して減ることの無い、大切なものが腕の中にあった。なんと言えばいいのだろう、上手く言い表せない、今の気持ちを言い表せる言葉が見つからない、いつの間にか抱き締めていた腕が迷い始める。
「しあわせ、ですよ。」
「幸せ…?」
「何か言いたそうな顔をしていたから。多分、ですけど、しあわせって言うんだと思います。」
「……そうかもしれないな、」
「あれ、当たってました?」
「ああ、心でも読まれたような気分だ。」
すまない。幸せの真ん中で峯は一人呟く。しっかりとその言葉を聞いたなまえは顔を曇らせ、峯の謝罪を忘れようと、聞かなかったことのように掻き消そうと、もう一度笑顔を作った。峯の言葉の意味をきちんと理解出来るのは、この世でたったひとり、なまえだけだった。なまえは峯にとって愛おしさであり、優しさであり、幸せであり、風化しない古傷でもあった。不安からか、切ない指先を握り締める、なまえは次に言うべき言葉も、切ない人を抱き締めることすら出来ないでいた。
悲しい人、切ない人、愛おしい人。
あなたの心にはいつでも雨雲がかかっているのだろう。あなたの心にはいつでも罪悪感が響き続けているのだろう。あなたの心に生きる自分の存在が、日に日に大きくなっていくのだろう。手放したくても手放せない、殺したくてももう二度と殺せない、消そうとしても決して消えることはない。
誰を責めている?何を責めている?行き場のない感情はどこへ行く?二人で築いたこの関係には、なんて言葉が当てはまる?何故、いつも満たされる直前で不幸せになってしまう?どうして、ここまでしても満ち足りた未来に辿り着けない?
たくさんの思いや葛藤、そして言葉がなまえの胸に溢れては静かに滴り落ちた。悲しみの拭えない麒麟の瞳に自ら目を合わせ、その鬣を撫でていく。いつも丁寧にセットされる髪型を崩さぬように指先は這う。
「義孝さん、幸せって思ったより幸せじゃないですね。」
「……そうだな、少し荷が重い。」
「綺麗なんですね、幸せってものは。だからでしょうか、私は背を向けたくなります。」
「意外だな、なまえが幸せを拒むとは、」
「……押し潰されてしまいそうです。」
不幸せを囁く。峯もなまえの言葉に眉間の皺を浅くし、少しの間だけ失っていた温もりを思い出したようだった。不幸せの口移し。二人が晴れて不幸せとなった過去は大きな傷のように、二人の胸に刻まれている。不幸せにしかなれない。当たり前の幸せは異端を拒むのだと初めて知った、慣れない幸せを求めた幼い心情にその事実はあまりにも残酷だった。