峯の癖として一つ挙げられるのは、貧しかった頃の写真を眺めること。何度も取り出してはただ眺めている、忌むような眼差しをするでもなく、嫌悪さえ感じられない、遠くを思う切ない時間。
それはなまえが傍にいるようになっても続いた、まだ過去とは決別出来ないのだろう。なまえにはその気持ちが痛い程に分かる、自分でも時折取り出しているからこそ、余計に重ねて見てしまう部分があった。遠い過去のこと、今じゃすっかり霞みつつある過去のこと、自らと切り離されてしまったあの頃の自分を。しかし、それを取り出しても意味は無い、またそれをそっと胸の奥にしまうだけだ。
時に人は歩みを止め、佇み、来た道を振り返る。自分の成したこと、自分が積み上げてきたもの、今自分が何を抱えていて、かつての自分が何を失ってしまったのか。目に見えるもの、目に見えないもの、触れるもの、触れないもの、存在したもの、存在しなくなったもの。
なまえは最近、昔の自分を忘れかけている。自分がどんな顔をして、どんな名前で、どこで生まれ、どこで育ち、誰を親として、何をしていたのか。記憶を辿る、そして真っ先に思い出されるのは、あの日の夜のことだった。
***
「………これから先、もう二度とお前のような女と会うことはないだろう。」
温もりの白に包まれながら、なまえは峯の下でその言葉が降ってくるのを黙って聞いていた。重なる素肌はうっすらと汗ばんだままで、先程の情事で乱れてほつれた髪が垂れ下がっている。降り注ぐ視線は情事の後の疲労を感じさせないほどに凛としており、これから何か大切なことを話そうとしているのがわかった。気怠く重たい腕で、未知を孕んだ峯の頬に触れる。彼の視線がなまえの指先に攫われ、自分の頬に触れる手のひらに目を閉じた。
「初めて、全てを奪い取ってしまいたいと思った。」
峯の言葉が持つ、透明な腕が、指が、極めて繊細そうになまえの心を探している。鼓動に揺れる胸元にゆっくりと指を沈め、最奥にある心に触れようと試している。肌や肉、骨を掻き分けて、証明の困難な心を見つけようとしている。
切ない人、だった。心の在り処を知らず、いくつもの傷を抱えて、それを癒すことが出来ない切ない人。麒麟が頭を垂れている、その足元には女の体が転がっていた。踏み潰さぬように慎重になっているようだが、一歩間違えれば、と言う不安が滲んでおり、きっとまだ躊躇っているのだと読み取る。
このまま野放しにしてしまうべきか、それとも命尽きるまで傍に置いておくべきか。ここまで体を重ね、思いを通わせ、互いの存在が当たり前のようになっていても、峯は、頭を垂れた麒麟は躊躇していた。
「本当に初めてなんだ。誰かを、こんなにも深く求めたことは。あの人に抱いた感情のどれでもない、俺はただ、お前が欲しい。」
「欲しいって、私達そういう仲じゃないですか。だから、今もこうやって義孝さんの傍に……、」
「俺が、お前の生きた証さえも、自分のものにしたいと言ったらどうする。」
生きた証、とは何だろうか。先程から峯は、なまえの想像していないことばかり口にする。透明な腕はいつの間にか蹄に変わり、その足はまるで踏み付けるかのようになまえの胸部を圧迫していく。心の在り処は知らずとも心臓の在り処は知っているのだと、蹄が深く肉に食い込み、ギリギリと胸骨が軋む。麒麟の瞳に怯える女の姿が見えた、触れた肌は暖かい筈なのに何故だか震える程に酷く冷たいものが流れ込んで来る。
「今なら何も無かったことにしてやる。この関係も、俺のおかしな話も忘れてくれていい。だから、俺から逃げたければ、今すぐこの部屋から出て行け。」
「……もし、逃げなかったら、どうなるんです、」
「お前を、本当の意味で手に入れるだけだ。」
恐る恐る、なまえは問い掛けた。峯は何がしたいのだと、その本当の意味とは何なのかと、自分に何を望んでいるのかと。分からないことが多すぎた、頭が答えを見つけられない。峯ばかりがその答えを知っていて、自分だけが一人置いていかれように思えてしまう。何故、今更試すような物言いで心を揺さぶるのだろう。まだ足りないものがあって、それは自分と引き換えでなければ得られないものなのだろうか。
「お前は俺の為に死ねるか。俺がお前の死を望めば、それを差し出せるか。」
あまりにも突飛的な話だった、しかし、峯の目は真剣そのものだった。胸の軋みが大きくなっていく、蹄はくい込んでいくばかりでなまえを解放してはくれない。強要のそれではなかった、強いると言うより縋っているように見えた。まるで首を絞める指先のような、こめかみに銃口を押し当てているような、喉元に添えられた刃物のような、恐ろしく冷たい執着心、いや、これは純愛だろうか。
峯という男は今、目の前にあるものを掴もうと躍起になっている。それが幸か不幸か、輝きか灰か、なまえには分からない。しかし、この日、麒麟は無慈悲にも一人の女の心を意図せず踏み潰してしまった。
その日を境になまえは次第に自分への愛着を捨てる日々を送ることになった。好きだった景色も、お気に入りの生活も、大切な過去の時間も、夢見ていたこれからの明日も。一日一日、誰にも止めることの出来ない時間を垂れ流していて感じたのは、忍び寄る漂白と喪失の痛み。一時的なものではあったが、五感が麻痺する程に日常から色や温度が消えていった。期待することをやめた人間に許されるのは廃棄、そしてそれに伴う喪失の痛みを受け止めること。なまえは自分が死に至るまでの中で、その期間が何よりも耐え難い苦痛の時間だったと思う。
─────という女は死をもって証明しなければならない。─────という女は息絶えるその時まで、呑み込んだ愛の責任を追わなければならない。
***
「ニンベン師を知ってるか、」
とある日、峯はそう口にした。聞いたことの無い言葉に興味を抱き、その先を促してみれば、ニンベン師は存在しない人間を作り上げることが出来るそうだ。彼らの仕事の一つとして、偽造パスポートの作成があり、それを作る為に必要な情報の全てを完璧に捏造することが出来る技術を持つのだと言う。
ここで一つ新たに疑問が生まれる、何故その話がこの場で挙がるのかと。本当は峯の真意に気付いていたのかもしれない、ニンベン師の話が彼の口から出た辺りから、峯のしようとしていることを、企みを知ってしまったのかもしれない。
死とは一般的に言えば、生命が失われることである。それは肉体に大きな損傷が見られ、深刻なダメージや出血多量により、機能不全に陥った体が生命を維持出来ず、やがてその深刻なダメージが心臓や脳に達し、死に至る。窒息死、病死、事故死、自死。死に至る過程がなんであれ、生命の喪失をもって死という結末を迎えるのだが、この他にもう一つ死と分類される事象が存在する。
即ち、存在の抹消である。本人の死を必要とせず、死の偽装により成し得る記録上の喪失。例え当人が生きていようとも、偽りの死が承認されてしまえば、名前も戸籍も生きていることの事実さえも意味を成さない。無色透明の存在、剥奪された全てが生きた証であり、失われた事実こそが死を証明する。
ああ、そうか、と何もかもを理解すれば、凝固していた感情の塊がゆっくりと溶けて流れていく。漂白と喪失はこれからも訪れるだろうが、きっとその傍には彼が居てくれるのだろう。深い傷を負うのは自分だけではない、彼も同じ傷を負ってくれるのだろう。愛の残酷さに涙が出てしまいそうだ、こうもしなければ彼の傍に居られない、こうでもしなければ彼に愛を証明出来ない。
「あの夜、あなたの前から逃げ出さなくてよかった。」
自ら胸を切り開く。薄く張った皮膚、暖かな肉を掻き分けた先にそれはある。
「最初はとても怖かったんです。でも、今は不思議と何も恐ろしくありません。」
胸骨は貝殻、その手に閉じ込めた心臓は一粒の真珠。華奢な指先が、大切に隠し持っていたそれを掴む。
「どうぞ、何もかも奪ってください。私はもう、私じゃいられません。」
だから、一つだけお願いがあります。なまえはその願いを口にすると、初めて峯に自分の心の在り処を告げた。峯は差し出された心の在り処を確かめると、ただ一言、分かった、と呟き、彼女が彼女でいられる内の最後の願いを聞き入れた。
これが彼女、─────の遺言であった。