ふと我に返る、過去を辿る内に意識を手放していたようで、なまえは一人、胸の内で眺めていた写真立てを伏せる。まだ取り出せるくらいには残っているのだ、過去の欠片が。今とは全く別の姿形をした過去の自分を、自ら望んで捨てたその姿形を、まだ愛しているのだ。彼も、そして自分自身も、─────という女だった頃を。


 あの日の彼女の最期の遺言は、今ある姿の何もかもを全く別人のそれにしてほしい、と言うことだった。新しい人生を用意してもらったところで、どうして今までの自分でいられるのだろうか。あの頃の形ではいられなかった、別の新しい誰かにならなければ、生きているのか死んでいるのか分からない、中途半端な存在の自分に苦しむくらいなら、と。

『出来ることなら、全くの別人になりたい。せめて、義孝さんが好きだと思う人の形に。顔も体も、全て作り変えて欲しいんです。』

 女を亡くした日の朝に見た鏡に、顔の包帯をゆっくりと解き、初めて見た自分に息を呑んだ。とても繊細で美しい形をしていた。鏡の疎らな乱反射、質素で無愛想な病室、この目が認識するものの殆どが淡々とした美しさを秘めた景色へと様変わりしていた。
 滲む視界の理由を誰も知らない、本人であるなまえでさえも。綺麗に縁取られた瞼や下睫毛の隙間を縫って、涙が溢れた。死んだ彼女のものか、なまえという自分のものか。喜び、後悔、そのどちらとも呼べる複雑な切なさに胸を深く切り裂かれた気分だった。

「なまえ、」

 愛しい人の声が生まれて間もない自分の名を呼ぶ。濡れた頬も切なさに切られた傷も放ったまま、愛しい人の胸元へと駆け寄った。泣いた、どうしようもないくらい、それでも彼は、峯は黙って力強く抱き締めてくれた。その力強さだけが慰めであり、救いであり、報いであった。

「大丈夫だ。お前の痛みは俺の痛みだ、お前の傷は俺の傷だ。そんなもの、いつだって俺に任せてくれればいい。」
「……私が逃げ出したくなったら、その時はどうするんです、」
「その時は見て見ぬふりをするだろうな。そうするのが正解だろう。」
「……私が死にたくなったら、どうするんです、」
「一緒に死んでやるさ。お前を先に殺して、俺が後を追えばいい。」

 それはまるで誓いの言葉だった。一生を共にし、夫婦になる二人が教会で問われる神聖な契り言葉。血脈の赤い糸が二人を雁字搦めにする。決して容易く切れてしまわぬように、決して容易く離れてしまわぬように、決して容易く切られてしまわぬように。
 漂白と喪失、生まれ変わりの痛みを経て、彼女が得たのは爛れた愛。掻き毟るように乱暴な手つきで剥がされた心の殻の中には、煮え滾るほどのそれがあった。喜怒哀楽も、恨み辛みも、大いなる幸福も、愛から生まれ落ちたものばかり。さあ、今こそ誓いの言葉を。


『あなたを愛しています。』



***



 人は過去を完璧に捨て切れない。記憶さえも忘却の彼方へ廃棄しなければ、永遠に過去に付きまとわれることになる。今を生きるのは、現実を生きるというのは、厳しく辛いものだ。峯もなまえも満たされた日常の裏の顔をよく知っている、満たされなかった過去の上に今が積み重ねられていく。だからこそ、幸せより不幸せの方が生きやすいのだ、二人にとって不幸せな現実の方が。幸せに後ろめたさを感じなくていい、幸せの形に拘らなくていい、幸せの為に何かを演じなくていい、幸せを追い求めなくてもいい、幸せは必ずしも幸せじゃないのかもしれない。

 今夜も彼女は自分の居ないリビングのソファーで膝を抱えて待っているのだろう。遅くまで拘束された仕事帰り、峯は愛車のスポーツカーで高速の闇を切り裂き、テールランプは余韻に揺れる。ハンドルを握る手、深くアクセルを踏み込み、ひとりぼっちの彼女の元へと向かっていく。


 悲しい人よ、切ない人よ、愛すべき人よ。
 何故、あの夜に逃げ出さなかったのか?何故、あの日の言葉を、自身の運命が捻じ曲がる瞬間を受け入れたのか?何故、あの時、壮絶な苦痛の日々に身を投じると分かっていながら、拒絶しなかったのか。そこまで愛してくれていたのか?絶対的な証明を求めてしまう、人間不信の自分を。どうして愛してくれていたのか?理由もなく、他人を愛せるわけが無い。
 今更、そんなことを問い掛けても許されるのだろうか。きっとなまえはあの柔らかな笑顔で困ったように告げるのだろう、どうしてでしょうね、きっと理由なんかありませんよ、と。理由がないことの方がよっぽど恐ろしいのだと嘲笑を挟み、まだ無数に広がる夜闇の中へと飛び込み、駆け抜けていく。今夜もまた星の見えぬ夜空の下、麒麟はひとり、アスファルトの大地をその蹄で踏みつけながら鬣を靡かせ、闇を駆ける。


「本当に初めてだった、あれほどまでに誰かを求めたのは。」

 誰もいない車内で本心を吐露すれば、僅かだが軽くなる気持ちがあった。自分よりも秀でた才はなく、ただ平々凡々と生きていた彼女をこの懐に引きずり込んだ。彼女に優れたところなどなかった、優しさの上手い使い方や心のままに生きることを除いて。自身から欠けたもので満たされている彼女がどうしても欲しかった。幼心に芽生えた抗い難い欲求のようだった。どうしても欲しい、誰かに取られる前に自分が手に入れたい、これを先に見つけたのは自分なのだ、だから誰かに奪われるくらいなら。
 酷く身勝手な理由だった。しかし、彼女はそんな自分に背を向けず、寧ろ、その心までも差し出してくれた。身勝手な理由で相手を殺し、そして新たな生を与えるとは何て思い上がりの甚だしい人間だろうか。


 峯義孝は多額の金を叩いて彼女を手に入れた、姿形は違えど立派な彼女の模造品を。心を閉じ込め、美しさで蓋をした、似て非なるレプリカ。彼女の価値を真に理解出来る者は自分を除いて他に存在しないだろう。彼女の正体に気付く者は自分を除いて他に存在しないだろう。彼女と死の瞬間まで添い遂げられる者は自分を除いて他に存在しないだろう。
 それでいい、それでよかった。もう麻痺してしまった感覚を治すことは出来ない、慣れてしまったのだ、彼女が傍にいることが当たり前の日常に。罪悪感は日々の穏やかさに薄れつつある、幸せを目の当たりにすると痛む古傷があるが、それも背負う覚悟でこの選択肢を選んだのだ。


「……愛して、いるんだ。」

 おかしい、と笑われるかもしれないが、と呟いた声はマフラーの排気音に掻き消された。歪んだ未来を生きている、彼女と二人で、夜空のように無数に広がる闇の中を目隠しで歩いている。自分の為に心を灯してくれたなまえとなら、きっと歩いて行ける。道を大きく歪めてしまった人生の結末まで、死が二人を分かつその時まで、君のその手を握っていたい。
 暖かで柔らかで小さく、少し寂しそうなその手を、いつか薬指にプラチナを施そう、彼女によく似合う綺麗な輝きを放つ指輪を。この胸に刻むのは、たった一人それだけで良い。


 愛しきレプリカよ。
 お前がいるからこそ、この心が愛を実感するのだ。お前がいるからこそ、この胸に心が存在するのだ。お前がいてくれるからこそ────。


| 愛しきレプリカ |