あ、まただ。また、この場面だ。こちらは二人、あちらは三人。明らかに怖そうで、面倒くさそうで、話し合いの通用しない。いや、聞く耳を持っていない男達が今日もまた、こちらを見て、にやついている。品田辰雄は手に汗を握っていた。傍にはなまえがおり、彼らによって齎される危機を予想出来ずにいる。

「ねぇ、お兄さん。彼女連れ?」
「いいね、いいね。俺達もさ、彼女欲しいわけよ、」
「でもさ、出会いがなくってさぁ!だから、」
「ちょ〜っとだけ、彼女さん貸してよ。」

 下世話な笑みを浮かべる男達の笑い声が通りに響く。彼らの言い分を聞く訳にはいかない。品田はなまえに、俺、ちょっと行ってくるよ。だから、俺の家で待ってて。と自宅の鍵を預け、なまえを一人遠くへと逃がした。
 ひゅ〜!かっこいいねぇ!お兄さん!喧しく騒ぎ立てる口は止まる気配を見せない。しかし、男達からしてみれば、品田のとった行動は不愉快極まりないもので、笑顔のわりには懐から穏やかではないものを取り出している。

「お兄さんがカッコつけんのもいいけど、」
「相手、選ばなきゃ。それで大怪我しました〜、なんてダサいよ。ね、お兄さん。」
「まあ、まあ、そんな物騒なものしまってさ、平和的解決と行こうよ。今時、流行んないよ?チャチな脅しなんて。」

 ね?と相手の神経を逆撫でした後に待ち受けるのは、荒々しく胸ぐらを掴まれ、薄暗い路地裏へと引きずり込まれるという結末だった。人気の無い路地裏は冷ややかな空気で満たされている。大通りとは違い、翳り、じめじめとした薄汚いその場所で行われたのは一方的な暴力。殴る蹴るはお手の物、おまけに懐から取り出したナイフやスタンガン、お粗末な警棒は休む暇を与えず、襲い掛かってくる。もう、やめてくれぇ……!と声を上げたのは。


 路地裏の湿った地面にうつ伏せに倒れている。三人の内、二人は気絶しているようで、たった一人、その残った一人に馬乗りになりながら、品田は彼らの所持品を手にしていた。怯えた眼が見上げている、自分の目の前にある狂気に怖気付いている。スタンガンの脇にある放電スイッチを試しに押してみれば、バチバチと眩い閃光が突出した電極間を行き交う。

「スタンガンって、結構えげつないよねぇ。だってさ、この飛び出てるところを相手に押し付けて感電させるわけでしょ?お〜怖い怖い、」
「ひッ、」
「やっぱり平和的解決が良いんだよ、そう思わない?」
「あ、ああ、わ、悪かったよ、本当に、わ、」

 悪かった、と言い切る前に男は体に走る電流に自由の全てを奪われることになる。予兆はなかった、品田が男に対して危害を加えるような、脅かすような、そんな予兆は。男が意識を失うまで散々電流に弄ばれる様を品田は見ていた。何かを観察するような、興味深い目で。

「うん、もう二度とスタンガンなんて使いたくないね。あんまりいい気分とは言えないし、何よりなまえちゃんが見たら怖がっちゃうだろうから。」

 なまえちゃんが無事に俺の家まで逃げてくれてると良いんだけど。と品田は沈黙する路地裏で未だ男に跨ったまま、離れ離れになった彼女のことを考えていた。

「なまえちゃんはさ、こんな俺でも好きだって言ってくれるんだよね。」

 なまえと言う女は優しい女だった。無一文の風俗ライターと言う敬遠されがちなタイプの人間である自分にさえも、その優しさを惜しげも無く与えてくれる人だった。時には自宅に品田を招き、温かな食事で胃袋を満たしてくれた。時には寂しさを理由に、大きなこの体で彼女に寄り掛かることを良しとしてくれた。そして時には恥じらいながらも愛を紡ぎ、唱えてくれた。
 品田はそんな彼女へ伝えきれない程の感謝と愛情を抱いている。だからこそ、このような危険に巻き込まれそうになった時、品田は躊躇い無く自分が危険に巻き込まれることを選ぶ。けれど、いつも行き着く先は、辿り着く光景は、今と同じ湿っぽく、凄惨な路地裏である。

 じゃ、俺もう行くから。とだけ言い残し、品田はようやく男の上を離れた。これから急いで向かうべき場所は一つ。自分の住処であり、彼女が今一人で待っているだろうプレハブ小屋だ。きっと今も怯えていることだろう、品田は道行く人を気にせず通りを駆けた。


***


「なまえちゃん!」
「た、辰っちゃん……、大丈夫、なの……?」

 畳の上で膝を抱えていた彼女は品田の姿を見ると、緊張が途切れたのかすぐさま駆け寄った。不安そうな瞳の縁にはうっすらと涙の跡が残っている。チクリ、と胸が痛んだ。あそこで絡まれたりしなければ、なまえを泣かせることもなかっただろうに。……ごめんね、と呟く。なまえは、もうダメだよ、一人で行っちゃ。と自分より大きな品田を抱き締めた。

「次からは一緒に逃げよう?なんだったら警察呼ぶって方法もあるし……。それに辰っちゃんばっかり怖い思いしなくていいんだよ、」
「……なまえちゃん、」
「もう嫌だよ、辰っちゃんがあの薄暗い路地に入っていくのを見るのは。……私だけ逃げるなんてもう、」
「ごめんね、……ごめん、」

 品田を抱き締める腕は震えていた。それは自分のものより細く、柔く、清らかなものだ。だから、だろうか。彼女を泣かせてしまったことより、胸が痛む。薄汚れた手で彼女に触れてしまう度、あの陰湿さの上にこの平穏があるのだと実感させられた。それでも品田の手はなまえに触れる。彼女を安心させる為に。


 彼女は前にも他人に絡まれたことがあった。しかも、自分と言う存在が横に居たにも関わらず。まるで添えもののようだと、こちらを気にしない輩達は一方的になまえに声を掛け続けた。仲裁に入ろうとすれば威嚇され、物騒なものを見せびらかし、ニヤニヤと笑い、再び彼女に話を持ち掛ける。
 もう我慢出来ないと下らない威嚇を振り切った時だった。……やめてください。と彼女は震える声で輩達に言ってのけた。少し意外だった、しかし、輩達はそれが面白い筈もなく、怒号を飛ばし、こちらへと狙いを定めてじりじりと詰め寄って来た。考えていることは単純だ、まずは男から。そしてその男を半殺しぐらいにすれば、彼女は嫌でも心変わりするだろうと。

 結果は惨敗だった。最初はまだナイフや適当な木材をチラつかせていたのだが、一人だけ持っているものが違った。ぎらりと鈍く光る金属バット。血が煮えたぎる、自分の沸点はやはり低い。正しく使うべき物を正しく使わず、こんな喧嘩に持ち出してくるのを許せなかった。沸騰した血液は体内を循環し、衝動的に金属バットを持った相手から一人ずつ向かっていった。
 だからこそ、結果は惨敗。相手は皆倒れ、凄惨な光景の中でただ一人息を切らして立ち尽くしていた。彼女はと言えば、度の過ぎた暴力行為を目の当たりにして泣いている。黒い睫毛は恐怖に濡れていく。そんな顔をさせたかった、そんな顔が見たかった訳じゃない。彼女の傍に行こうと思ったが、相手を殴り付けた手の甲は傷だらけで血に汚れていた。こんな手で彼女に触れられない、こんな恐ろしい様をこれ以上彼女には見せられないと品田は急いで近くの水道の蛇口を捻った。

 何してんだろ、俺。と何故だか惨めな気分だった。彼女を怖がらせていた男達の返り血を懸命に公園の水道で洗い流している。しかし、結局その行為が彼女を怖がらせていて、自分のやっている事はあの男達と何ら変わらないのだと思い知らされたからだ。謝ろう。そう決心した頃にはすっかり手の汚れは落ち、もう一度蛇口を捻る。早く彼女の元に戻ろうと駆け出した品田は水で綺麗になった手を拭う方法がないと気付く。普段からハンカチなど持ち歩く性分でない上に、そのハンカチに出す金すらない自分に水気を拭うものなどなかった。

 彼女と中途半端な距離感の場所で立ち往生している品田に、それは躊躇なく渡された。困ったような笑みでなまえは品田にハンカチを差し出す。タオル生地のハンカチは彼女の好きそうなアーガイル柄だ。

「……い、いいの?俺なんかがなまえちゃんの使っちゃって、」
「ダメな理由なんかないよ。それに手繋ぐ時、辰っちゃんの手が濡れてたら嫌だし、」
「なまえちゃん……、」
「なに?」
「……ごめんね、怖い思いさせちゃって。ああいうの嫌いだって考えれば分かることなのに、」
「もう大丈夫。それに辰っちゃんが守ってくれたから、私なんともないよ」

 ありがとう、辰っちゃん。と赤くなってしまった鼻のまま笑顔で言うものだから、咄嗟に彼女のことを抱き締めていた。あの時も今も同じ。泣いているのは彼女で、それを抱き締めているのは自分だ。まるっきり何も成長しちゃいない、まるっきり何も解決しちゃいない。自分がやっている事はその場しのぎでしかない。それでも彼女が無事ならそれでいいと思えた。きっとその思いは今も昔も、そしてこれからも変わらないことだろう。