「なまえちゃん、何してんの、ダメだよ、そんな危ないもん持っちゃ……」
彼女の耳に自分の声は届いていない。体の震えからか、カタカタと刃先が揺れ、小さく音を立てている。なまえが偶然手にしたのは、鈍く光るナイフ。それは品田がまたあの時のように街のチンピラに絡まれている時のことだった。
荒い息遣いが聞こえてくる。きっとなまえは初めてそれを他者に向けたのだろう。彼女の人生において手にする必要のないそれを。
「ねぇ、なまえちゃ……」
「は、離れて……!今すぐ、その人から離れて……ッ!」
本来ならば、このようなことは起きうる筈がなかった。いつものようになまえに帰るよう促し、彼女が無事逃げ出せた後で絡んできた輩を相手にする。いつも通りに事をやり過ごすつもりだった品田にとって、この展開は最悪と言える状況だった。
相手は二人組の街のどこにでもいるようなチンピラ。今回はお小遣いがどうだのと、どこでもよく聞くフレーズにカツアゲ目的だと知り、また路地裏へと連れ込んだ。そこからはもう何度目になるか分からない遊び相手を務めた。自分から金が取れないと分かった以上、声をかけてきた男達があっさりと引くわけが無い。一人は素手で、一人はナイフを取り出し、恐らく肉のサンドバッグを作るつもりだったのだろう。ナイフを取り上げられ、何度も殴られている内に最初の威勢は無くなっていた。引けないプライドは、もはやただの意地だ。早く終わらないトラブルほど厄介なものはない。彼女は、なまえは今日もちゃんと逃げ切れただろうかと考えていた。
しかし、現実は、結末は違った。取り上げたナイフを用済みだと遠くに投げ捨て、その間に男達をどうにかしてしまおうと思っていたのに、冒頭のように捨てたはずのナイフを持ったなまえが立っているなど、品田には予想など出来るはずもなかった。
「俺は大丈夫だから、そんな危ないもん置いてよ、なまえちゃん……!」
両手で強く握り締めているのにも関わらず、ナイフはカチカチと左右に、小刻みに震えている。表情だっていつもの可愛げのあるものじゃない。この路地裏に立っていることさえ、起きてはならない出来事なのに。自分を守ろうと刃物を向けるなまえの姿に失望していた。彼女に対してではなく、こんな状況を引き起こしてしまった自分に。例えどんなに自分の身が危険であろうと彼女を止めなくてはいけない。あの刃先で彼らを、彼女自身を傷付けてしまう前に。彼女の手が過ちの重さを、感触を知ってしまわないように。
まずは後ろで怯える男達を逃がす。なまえも品田の情けで男達が逃げていく様を見て、深追いはしなかった。それでも尚、手にしたナイフを捨てられない彼女は今、何を考えているのだろうか。
もうこの路地裏にはなまえと品田の二人以外、誰も居ない。品田は何も口にせず、ただ普通に近付いてはなまえの傍で足を止めた。何かを堪える表情は見ていて居た堪れない。彼女が静かに下ろした腕からナイフをそっと取り上げると、近くの側溝の隙間にそれを落とし込んだ。もう何もない。誰かを傷付ける凶器はもう捨て去り、路地裏には傷付いた二人が立ち尽くしているだけだ。
「帰ろう」
差し出した手のひらに影は落ちず。震えた手を預ける勇気を持たない彼女は両手を強く握り締めていた。何を思い、何を考えているかなんて重要じゃない。今、大切なのは、彼女を連れて帰ることだ。握り締めた手を攫って品田は路地裏を出た。そこにはいつもの凄惨な路地裏の姿はなかった。
***
彼女の不安な装いを剥がしてしまいたかった。何をするにしても、何を見るにしても、何を話し、聞くにしても、なまえから恐れは消えなかった。ずっと今日のことを引き摺っているような彼女の姿を見ていられなくて、品田は自分の献身を分けてみようと考えた。
まずは傍にいることから始め、肌に触れ、髪に触れ、彼女の言葉を流し込み、涙を拭ってやり、震えを抱き締めた。そして二人が行き着いたのは情けない夜だった。強い言葉を知らない、強い抱擁を知らない、強い優しさを知らない二人は何かを確かめるように体を重ねていた。布が擦れる度に部屋の暗闇に吐息が消える。熱源である二つの体は重なり続け、うっすらと汗ばんでは行為に及ぶ。
「ちゃんとこっち見て」
穏やかな表情で語りかける品田の言葉になまえは視線を返せずにいた。両の手は緩やかに握られ、どこか後ろめたさを漂わせている。まるで呪いのようだと思った。鋭利な呪いに両手と心を刺されてしまったのだと。品田は握られたままのなまえの手に触れ、ぎゅっと力む指を一本ずつ優しくほぐしていった。そして頼りなさげな手のひらの肉を啄むように吸い付く。何度も何度も優しく吸い付いている内に、もう大丈夫だよ。と聞こえてきた。俺だってもう大丈夫だよ。と唱えれば、今にも泣き出しそうな顔で頷く。呪いは解けたのだろうか、彼女の胸に刺さるガラスの破片は無事に抜け落ちてくれたのだろうか。ふとした瞬間の、何かを言いかけてやめた彼女をずるいとは思わなかった。
「辰っちゃんが見てる世界は怖いことばっかり、」
「しょうがないよ、この街にヤクザはいなくても絡んでくる奴はいるんだから」
「ねぇ、二人でどこかに行こうよ」
「どこかって?」
「辰っちゃんが危なくない場所」
言いたい事の全ては理解出来た。それはいつか自分も抱いたことのある思いだったからだ。あまりにも酷い仕打ちの現実に抗えなくて、抗え切れなくて、この地にやって来た時のものと同じ思いだ。自分を知らない場所、自分に危害を加えない場所、自分を覆い隠してくれる場所。彼女は透明になりたかったのだ。
いくつかの場面が品田の脳裏にフラッシュバックする。初めて襲われそうになった日の彼女の姿。自分の家で震えながら抱き締めてくれた彼女の姿。そして今日、初めてナイフを誰かに向けた彼女の姿。迷う暇も考える時間も本当はないと告げられている。誰が彼女を守るのか。それは他の誰かにさせることじゃない。
「なまえちゃん、俺に時間をくれないかな」
「時間……?どうして?」
「……なまえちゃんにも、もう怖い思いをさせたくない」
「何を考えてるの、」
「俺、もう少しだけ頑張ってみるよ。……まあ、いつも頑張ってるけど、もっとね」
「頑張った後は?」
「二人でこの街を捨てよう」
この街を出よう。だとか、この街から逃げよう。だとか、気の利いた言葉は思い付かなかった。ぱっと出てきたのは捨てるという言葉で、それはそれで今の自分達に合っているような気がした。捨てるのだ、この街を。透明になりたがっている彼女を拒むような、この街など捨ててしまえばいい。なまえは何かを決意したように頷き、ありがとう。と呟いた。これから思うように会えなくなるだろうと、重ねた体をより一層愛で、品田も体の熱を吐き出しては生を刻んでいた。
それから、錦栄町では日夜仕事に勤しむ品田の姿があった。ある時は編集社で、ある時はコンビニで、またある時は工事現場でひたすらに働き、徐々に懐の金を蓄えて行った。初めは微々たるものだった金額も日に日に増えていくばかりで、その傍らにはいつも疲労に横たわる体がある。あともう少し、そのあともう少しが達成したら品田はなまえを連れて、錦栄町を捨てる予定だ。思い出だけはあった街だと別れを惜しみつつ、品田はなまえに再び会う日を心待ちにしていた。