閉め切られたカーテン、部屋はもぬけの殻、足枷を外したかのように置かれた鍵。それらと漠然とした違和感だけを置き去りにした部屋を見て、高杉は愕然としていた。
品田辰雄が人知れず何処かへ消えたのだ。高杉は錦栄町にいる品田の知人の元を訪ね、今回の件について何か知らないかと問い詰めた。しかし、誰も何も知らないどころか、品田の失踪を初めて知ったと口にする。そんな予兆も理由も知る筈がないと突き付けられ、苛立ちから煙草の本数は減っていくばかり。何があったのか、何故品田辰雄は錦栄町から居なくならなければならなかったのか。不意に過去を知る相手に出会したのか、それとも再び過去に打ちのめされてしまったのだろうか。高杉がいくら待とうとも、プレハブ小屋に品田辰雄は戻っては来なかった。
***
旅立ちの朝、とは言えない別れの日。多くもなければ、少なくもない荷物だけを持って品田となまえは駅にいた。寝不足が否めない品田は欠伸を噛み殺し、困ったような笑顔でなまえに話し掛けた。
「……今日で最後だね、この街も」
「辰っちゃんは本当に良いの……?」
「今更、そんなこと言いっこなしだよ」
全てはこの日のために準備をしてきたことだと笑いかければ、なまえもつられて少しだけ笑った。行き先など決まっていなかった。それほどに曖昧な旅路だった。自身の行先さえ分からないどころか、自身の明日ですら見つけられずにいる。何もかもが透明で空白だった。人はどこにだって行けるが、どこまでも行ける訳じゃない。時には折り合いをつけ、妥協をし、現実という名の枠に自らを当て嵌めなくてはならない。行先は、ない。
「まずはホテルに泊まって、そこから住む部屋を探して……、」
「まるで旅行みたい」
「旅行、いいねぇ!旅行の醍醐味って言ったら、やっぱり食べ歩きだよねぇ〜!」
「遊びに行くんじゃないでしょ、」
「これぐらいの気持ちの方が絶対に良いって、」
楽しいことも考えなきゃ。と品田はもう一度笑いかけた。その、底抜けに明るい笑顔がなまえの気持ちを和らげてくれた。明日を手放した自分達は間違っているのだろうか。明日が見えなくなってしまった今、その判断が正しかったのか。行動に移した今でも思い悩むところがある。そんな不安定な気持ちを品田が和らげてくれ、なまえは品田の手を取り、ぎゅっと握り締めた。
「あらら、なまえちゃん手が冷えてるよ」
「……え?そう?そうかな、」
「冷えは体に良くないって。何か温かいものでも買ってこようか?」
「ううん、行くなら私も」
それなら、と構内にある電光掲示板の到着時刻を確認し、品田はなまえと共に近くの売店を目指した。駅に佇む人はまるで群れのよう、皆思い思いにその時を待っている。誰もが誰もどこへ行くかは分からない。行先の書かれた切符だけが道標なのだ。人の群れは思ったより多く感じられた。何度もその隙間を通り抜ける度に面倒だとため息を逃がせば、ため息はやがてただの白い息のように滲んで消えた。
すると、不意に何かが解ける感覚がして振り返る。先に到着した新幹線に乗り込もうとする人の波になまえが攫われていた。たった少し、ほんの少し遠のいた距離に喪失感を覚える。急いで彼女の元へと踵を返し、手を伸ばす。ぎゅっと掴んだのは細い手首で、なまえは安堵のため息を吐いた。
「ごめん。急にほどけちゃって、」
「今日はなんか人も多いみたいだし、はぐれないように気をつけよう」
「うん、そうだね」
はぐれないように。決して無くなってしまわないように。隣に居られるように、二人は互いの手をしっかりと握り締め、売店の温かな空気を恋しく思った。黒い波を掻き分け、来店した先で温かい飲み物を二つ、小腹が減ったと手頃な軽食を購入して二人は売店を後にした。近くの冷たい印象のベンチに腰かけ、荷物を膝の上へ置き、ぶら下げていたビニール袋から飲み物を取り出す。
「あったかい、」
「最近は冷え込むようになってきたから」
「そう言えば、あのお家、この季節になると凄く寒くなるんだよね」
「隙間風は凄いし、そもそも暖房つけられるような金もないしで、」
「だから、よく私の家に来てたよね」
「……なまえちゃん家はあったかいし、いい匂いもするし、何よりなまえちゃんがいるから。俺、この季節になると、遊びに行くのが楽しみだったんだよね」
思い出話に軽快な笑い声が響く。しかし、動き出した列車の大きな雑音に飲まれて、二人は互いの声が聞こえない。だから、何かを置いていくのには最適だった。表情は笑顔のままで、唇だけは饒舌にそれを吐き出していく。何も聞こえない、列車が完全に通り過ぎるまでは。
『辰っちゃんとなら、ふっと消えちゃってもいい』
『でもまだ今は傍にいたいから、もう少しくたくたになって、明日がいらなくなったら────』
二人でひっそりと居なくなりたい。最後の一言までは言い切れなかった。列車が思ったよりも早く駅を出て行ってしまったからだ。吐き出せなかった自分の一番重たい思いを胸の内に戻す。彼には聞かせられない、酷い告白だ。言わなくていい、聞かせなくていい。ただここに、この街に置いていくだけだ。なまえは一人、底のない暗闇を見据えている。出来れば陽の当たる道にいたいが、この先どうなるかなんて誰にも分かりはしない。随分、ひねくれてしまったと嘲笑していると、品田が口を開いた。
「いいよ。そうしよう」
冷たいものが体中に流れ込み、温かくなり始めた体が冷えるような錯覚に陥った。薄っぺらい笑顔が剥がれ、品田を動揺する瞳で見つめ返していた。そこにあるのは、なまえが普段から目にしている姿ではなく、何かを失くした翳りを引き摺る品田の姿があった。初めて目にする姿になまえは何も言い出せない。太陽のような人だと思っていた、品田辰雄という相手は。
「いつか本当に明日なんていらないって日が来たら、」
「……なんで、」
「なまえちゃんには言ってないことがいくつかあってさ、」
俺もなまえちゃんと同じで透明になりたかったんだ。と眉を下げて微笑んでいる。『透明になりたかった』、それはつまり何かから逃れようとしていたという事だろうか。寂しそうに笑う品田の手に自分のを重ね、そっと握り締めた。触れた手は自分と同じように冷たかった。
「ここに来る前から俺には何も無かった。街の人はこんな俺でも優しく迎え入れてくれた」
「何があったの……?」
「俺はさ、夢を殺されたんだ」
「殺された……?」
「正直、死んでもいいって思ったよ。喪失感や色んなものが胸の奥から溢れて止まらないんだ」
悲痛な叫びが軽快に品田の口から紡がれる。とても寂しい目をしていた。こちらもつられて泣いてしまいそうなくらいに。
「でもさ、なまえちゃんと一緒に居たら、まだ生きていけるって思った。だって、なまえちゃん優しいんだもん」
すぐ傍にある夢を掴み損ねた。ただ掴み損ねただけじゃない、目の前で死んでいくのを見た。そう告げる品田から目が離せない。何故、今になってこんな話を聞かせてくれるのだろう。彼の中で何かが変わってしまったのだろうか。
「だから、俺からはぐれないで」
力なく握り返す品田がとても小さく弱く見えた。その姿に一人逃げ出して、彼の家でただ待ち続ける自分の姿が重なる。
「それじゃあ、もっとしっかりと手握っておかなきゃ」
「なまえちゃん、」
「でも、もしはぐれてしまいそうになったら」
『またどこかに行って、そこで居なくなっちゃおうよ』
だから、残りの時間全部あげる。私はまだ一緒に居たいよ。胸を裂いて出て来た感情がこれだ。そして心臓が熱く脈打つものだから、本当に命を預けたように思えた。明るい心中、未来の約束、命を預けるようにちぎる。
今になってやっと分かったことがある。逃がす理由と逃げ出したい理由。そのどちらも互いがなければ、自身の大切なものが揺らいでしまう恐怖からくるものだったのだと。どうしてこうも不器用なんだろう、と二人は足元を見ていた。レールや道はどこまででも続いているのに、その上に立つべき人間は自分がどこまで行けるかを知らない。いつも穴だらけの道を歩かされて、逆風が吹こうとも断崖絶壁に立たされようとも、前へ進めと背中を押されてしまう。
「すごく楽しい毎日だった」
どちらがそう言ったのは定かではない。構内のアナウンスに気を取られ、間もなくやって来る新幹線の騒音に掻き消されて二人は席を立つ。最後の別れ。もうこれに乗ってしまったなら、二度とこの街には戻って来れないだろう。品田と顔を見合わせる。そして、行こう。と手を引かれて、新幹線の開いたドアの奥に男女二つの体を押し込むと、世界を遮断するようにドアが閉まり、やがてその姿は消えた。
***
品田辰雄とみょうじなまえと言う人間が失踪したのは、寒さが厳しくなり始める少し前の季節の頃。二人がどこへ行ったのか、そしてどう過ごしているのかは誰も知らない。どこかの知らない土地で知らぬ他人のように生きているのだろうか。
高杉の手元に置かれた新聞の小さなスペースの見出しには不穏な文字が並んでいる。他県の海岸で身元不明の男女の死体が発見されたと言う事件だ。何故か胸騒ぎがする。いや、あの品田に限ってその結末に辿り着いてしまうほど弱くは無いはずだ。しかし、もし仮にこの事件の登場人物であったら。そう考えると胸騒ぎの理由が分かったような気がして、だが、それは真実ではない。この男女は身元不明なのだ、どこの誰かも分かりゃあしない。そう、赤の他人の可能性だって有り得る。だから────。
早く帰ってこいよ。と呟けば、冷たい北風がそれを容易く攫ってかき消してしまった。品田が生活の拠点としていたプレハブ小屋は、品田が失踪してから数ヶ月後に跡形もなく撤去されてしまった。住む人間も居なければ、ただ持て余すだけだと所有者の意向だった。それでもプレハブ小屋があった土地に足を運んでしまうのは、彼のことを忘れられないからだろうか。
「……俺ぁアンタのファンだったんだよ、品田」
やるせない思いを吐き出すと、高杉はその場を後にした。失踪から数年経った今でも品田辰雄は錦栄町に戻って来てはいない。
| だから、捨てるしかなかった |