上機嫌な鼻歌が聞こえる。酒もたらふく呑んだだろうから、今日の真島吾朗は機嫌がいい。その隣に付き添っていたのは、真島がなまえちゃんと呼ぶ女性だ。
女性の名は、みょうじなまえと言う。真島と関係を持つまではカタギとして暮らしていたが、今ではすっかりヤクザの女として真島共々、裏社会に身を置いている。彼女を知る組員達は皆、なまえに控えめな印象を抱く。そして彼女はいつも柔和な表情を崩さず、周りに接しているそうだ。実際、彼女が取り乱したり、涙を見せるような姿は誰も見たことがない。とある一人を除いては。
「なまえちゃん、今日もえらいべっぴんさんやなァ。見てて惚れ惚れするわ」
「またそんなこと。吾朗さんは本当にお上手ですね」
「俺がお世辞言うような男に見えるか?あァ?」
「いいえ。だからこそ、余計に照れてしまって」
「なんや、照れとんのか。ホンマになまえちゃんはいじらしいわ、」
ヒヒヒ……と他者が敬遠しがちな笑みも涼しく受け止めるなまえに、周りの組員は心底感心していた。真島吾朗と言えば、東城会の中でも武闘派と名高い幹部の一人だ。組員ですら、自分達の親が何を考えているのかも分からず、突然の思いつきで次から次へと予想外の行動を起こす人物でもある。そんな扱いにくい相手となまえは何とか上手くやっている。素直に見習うべきところはあると思いながらも、自分には到底出来そうもないと改めて尊敬の念を抱く。周りから見ても、真島となまえの二人は良い関係を築いているように思えた。あまりにも綺麗にまとまった関係であるが故に、その裏側の翳りに誰も気付かない。
真島がなまえを連れて馴染みの店を出ると、既に数人ほどの組員が店の前で待機していた。その内の一人は店から出てきた二人の姿に気付き、予め停めておいた車のドアに手をかける。
「親父、お迎えにあがりました」
「おう、ご苦労さん。さ、はよなまえちゃん乗りぃや」
「あ、いえ、私より先に吾朗さんが、」
「ええ、ええ。なまえちゃんの体が冷える方があかんねや。ええから、はよ乗り」
真島に促され、では、お先に失礼します。と車内へと乗り込めば、後から遅れて真島がやって来る。そして丁寧に閉ざされたドアの向こうで一つ、なまえは気付いてしまった。組員の一人が知らぬ誰かと話をしていることに。相手は誰だろうか、あまり良くない雰囲気だと見て取れる。すると、案の定ドアの外から苛立つ男の声が聞こえ、不安と驚きになまえは胸の前で両手を握り締めていた。嫌なものが背中を伝っていく感覚になまえは密かに息を潜める。
「……あァ?なんや、アイツ」
真島のふとした一言になまえの心臓は大きく跳ねた。なまえは今、誰にも見せたことの無い顔をしている。柔和が剥がれ、焦燥の表情を覗かせるなまえに真島は焦りを滲ませて、その肩を掴んだ。
「どうかしましたか、」
「……いや、なまえちゃんがまた怖い思いしとるんやないかって思うとったが、気にし過ぎやったわ」
「吾朗さん、優しいから」
「……なまえちゃん、泣きたかったら泣いてええ。怖い言うなら、そう言ってくれてええ」
我慢なんかやめとき。と真面目な顔の真島を見て、なまえは微笑みながら頷くことしか出来なかった。真島の傍にいるということは、日頃から裏側の景色を見るということでもある。時には暴力にものを言わせ、時には血が流れてもお構い無し。またある時には残虐極まりないことを淡々とやってのける。正に裏稼業の人間が見る景色だ。
なまえも最初の頃はよく恐怖し、目を逸らしてばかりいた。自分が住んでいた世界では有り得ない、あってはならないことばかりの連続だったからだ。決して慣れてはいけないものに慣れるのは、自分の心を削るような感覚と同じだった。それでも隣には愛しい男がいる。それだけでなまえは挫けずに真島の傍に居られた。
しかし、なまえが裏側の住人になって三ヶ月が過ぎ、大抵のことに慣れ始めた頃、なまえはとある事件に巻き込まれた。この出来事をきっかけに事件後、なまえは感情に鍵をかけるようになり、事件の後遺症としてなまえは負の感情を表に出せなくなっていた。
「おい、はよ車出せや。いつまでこないなとこで待たせる気や、お前ら」
「すんません、親父。今すぐ車出しますんで」
親である真島の叱責に、子である組員達は機嫌を損ねてしまわぬよう、丁寧に言葉を選び、早急に車を走らせた。流れていく景色が外にいた組員と絡んで来た男の不穏を置き去りにしていく。しかし、なまえは受け流すことも、あの場に置き去りにすることも出来なかった。あのほんの数分のやり取りはなまえの胸に鋭く爪を立て、何度も何度も過去の傷口をこじ開けようとしている。
***
見知らぬ男達に囲まれることの恐ろしさを知っているか。見知らぬ場所の薄暗がりに拘束され、愛する男をおびき出す為の餌とされることの悔しさを知っているか。その計画を明かし、大口を開けて笑う男達の気味の悪さを知っているか。真島の死後に待ち受ける、自分の未来を弄ばれた時の絶望を知っているか。
そして何より、最愛の男が自分のせいで癒えぬ病にかかる瞬間を見たことがあるか。
なまえが神室町で真島吾朗との運命的な出会いを果たし、普通の生活を捨てて共に裏社会に生きるようになった三ヶ月後。なまえは真島組に敵意を持っている東城会系組織の一員に誘拐された。その行為は同じ組織に属していながら、格上である真島組に対してけしかけるような行動だ。勿論、真島としても自分の女を攫って行った相手にはそれ相応のケジメをつけさせなければならないと躍起になっていた。
先に手を出したのは相手方であるが、先に『手を出させた』のは真島だった。なまえを攫い、つまらぬ脅かしをしてみせた相手に、真島が単身で事務所に乗り込むと、ものの一時間程度で事務所は静寂に包まれた。真島はボコボコに凹んだ金属バット一本を手に、そこの組長が愛用している革張りの椅子にふんぞり返り、空いた手には吸い始めたばかりの煙草が握られている。
「……ご、吾朗さん、」
酷く怯えた組員に連れられ、なまえは軟禁されていた奥の部屋から出ることが出来た。しかし、目の前の惨状になまえは真島達の住む裏社会の恐ろしさを身をもって感じていた。
暗い色味のローテーブルの上に並んでいる『細長い何か』を見た時、なまえは自分が真島の元に連れられる間に何があったのかを察した。その一室には同じヤクザの人間が蹲って倒れている。皆、痛々しい打撲痕が残る風貌で倒れているだけだと思っていたのだが、そうでは無かった。付近に垂れた血も鼻血や吐血したものだと思っていた。
「なまえちゃん、怪我はないんか?ほんまに無事なんか?」
「え、ええ、私は大丈夫です、」
でも、と続けて言葉が途切れたことで真島は何かを察したようで、床に蹲っている男達のことを話し始めた。それはさぞつまらなそうな、退屈そうな顔で。
「なまえちゃんを俺んとこから攫っていったんは、チンケな組の組長さんの考えや」
「吾朗さんのことを敵視している組、ですよね……?」
「おお、よう知っとるやないか。捕まっとった間に聞かされたんか」
「はい。その、……色々と、」
そうか、と手短に会話を切り上げた真島は何食わぬ顔で、テーブルの上に並べられた『それ』を数秒見つめた後、爪先がぎらりと光る革靴でテーブルを蹴り飛ばした。その衝撃で乗っていた『それ』が散らばり、ついには詳細にその『何か』を目の当たりにすることになる。
──── 指。それぞれ長さの違う人間の指が部屋のあちこちに散らばり、ただ床の上に落ちているこの状況がとても恐ろしかった。ぽとり、と軽い音がするだけで、それ以上のことは何も起こらない。当然だ、一度切り離された指がひとりでに動くはずもない。つまり、この『不祥事』を起こしてしまったケジメは既に取らされているのだ。通常では考えられない程の本数を要求されて。しかし、彼らが見せた誠意が真島にとって不十分なものであると、この場に居合わせた誰もが確信していた。自分の一部であるそれが床に散らばっている惨状のどこにも真島の赦しはない。