大きく傾いてしまった天秤が釣り合うようにと考えた時、誰もが両方の皿に同じ重みを持たせればいいと考えるだろう。そうすることで天秤は正しく釣り合い、同時に両皿に乗った重みがどちらも等しいと理解する。
しかし、その天秤が釣り合うことで済まされる事柄ばかりではない。例えば、ヤクザの女を攫い、そのヤクザを殺そうとしていた場合。ならば、とヤクザは考える。今傾いてしまった天秤を釣り合わせることより、今後同じようなことが起きないように相手を消してしまった方が話が早いのだと。
「なまえちゃん、」
テーブルが蹴飛ばされた後の部屋には不穏な空気が漂っている。その空気の重さに誰もが黙り込んでいると、不意に名を呼ばれたなまえが真島を見た。一線を越えたと理解させられる雰囲気にいながらも、真島の顔は怒張を忘れているようだった。自分を見つめる目が優しかったのは見間違いではない。見間違いではないが故に、なまえと真島はこの日を境に治ることの無い後遺症を負うことになる。
「俺はなァ、なまえちゃんの笑った顔が好きや」
あの薄い唇で、にかっと歯ァ出して、ホンマに楽しそうに笑っとるなまえちゃんがなァ。
その言葉をなぞらえるように、真島が髭を蓄えた口元を歪めて笑う。笑顔とは人の間で移る、くしゃみのような微笑ましいものだと思っていた。しかし、どうだ。恐怖に汚染された部屋には真島の笑みが移った人間が誰一人としていない。なまえは未だ攫われたと言う事実に凍てつき、なまえを攫った組の構成員達は床に転がったまま、失くした指の痛みを堪えている。
「それをおどれら、ようやってくれたわ」
見ろや。なまえちゃん、まともに笑えんようになってもうた。どないして『誠意』、見せてくれんねや。
真島の一言に怯えた声が漏れた。それは痛みに蹲る構成員のもので、信じられないという顔をして真島を見ていた。自分達は既に『ケジメ』をつけた筈だ。それなのに、これ以上何を求めるのか、と。底知れぬ絶望が加速していく。差し出した、確かに差し出したのだ、替えのきかない指を。一本だけでは飽き足らず、何本も奪われた今、これ以上何を奪おうと言うのか。
「アァ?なんや、あんな何の役にも立たん指の五、六本で『ケジメ』つけた、言うんちゃうやろ」
おどれら、ヤクザやっとんのにめでたい頭しとんなァ。とおもむろに席を立ち、蹲る構成員達の顔の近くで身を屈めると、手にしていた金属バットをまるで抜き身の刀のように眺めていた。何を考えているか分からない、ふざけた笑みではなく、金属バットの凹凸面をただじっと睨み付けている横顔に戦慄が止まらない。これから自分たちの身に何が待ち受けているのか、そして決して無事ではいられない結末に誰もが啜り泣いていた。
これが本業なのである。ただ凶器をチラつかせ、悪戯に恐怖を煽るだけでは無い。死を本能的に理解させる言葉選びを、充分過ぎる程のデモンストレーションを、言ってみせ、やって見せる。真島の描く絵が具体的であると教え込まれるほど、恐ろしいものはない。具体的であれば、想像が容易い。想像が容易ければ、命を落とす間合いが見えてくる。そして、今構成員達は真島の間合いの中にいる。
「わ、悪かった……!た、頼む、頼むよ、」
「本当に俺たちが悪かったから、だから……!」
「頼む、もう、許して、許してくれぇ……、」
「も、もう、これ以上は……っ!」
耳を塞ぎたくなる懇願になまえは知らずの内に涙を浮かべていた。はっ、はっ、と短い呼吸は過呼吸寸前だ。恐怖に悴む指先で口元を抑え、密かに嗚咽を漏らす。なまえもまた、真島の描いた絵がぼんやりと見えていたのだ。
愛する男の姿が恐ろしいと思ったのは初めてだった。今まで見てきたものはお遊びだったのではないかと疑ってしまうほど、綺麗なヤクザをしていた。ヤクザに綺麗も汚いもないのは知っている。いや、知っているふりをしていただけなのかもしれない。この間にも真島の口からはおぞましい言葉が吐かれ、足元の男達をじわじわと嬲っていく。
「ご、吾朗さん……、も、もう、大丈夫ですから……っ!」
咄嗟に出た言葉だった。口を挟んではいけない所で咄嗟に出たのが、この言葉だった。その瞬間、自分が真島の酷く傾いていた天秤を倒してしまったのだと理解する。ぞくりと粟立つ肌の原因は真島の表情だ。どうして、そんな怯えた顔をしているのか。自分はと言えば、頬を伝う涙が熱いままに拭うことを忘れて、涙ながらに真島を見ていた。先程までの表情は、無情なヤクザは何処へ行った。何故、今度は真島が怯えているのか。
「……なまえちゃん、なんで泣いとんのや」
狼狽えた顔でその場を立ち、こちらを凝視する目は血走っているように見えた。何故かを問われ、なまえが答えられずにいると不意に妙な音が聞こえてきた。素振りのように風を切る音、その後に誰かの短い悲鳴と何かを打ち付ける鈍い音。
「泣かんといてくれや……、なァ、」
「え……?今、何を、」
「俺はなまえちゃんの泣いた顔なんぞ、見たくないんや」
「あ、あの、私の話を……!」
その間にも再び、鈍い音は繰り返し聞こえてきた。真島は手にしていた金属バットで足元の男達を殴打し続けている。そのくせ、口ではなまえの涙に対して後悔の念を唱え続けているのだ。更に指を落とそうか、それとも他のものを落とそうか、または缶詰めにしようか、或いはバラバラにして海に棄てようか。並べられる言葉は次々と積み上げられ、そこに『生かす』という言葉が存在しないことになまえは震えた。
「なまえちゃん、なまえちゃんはどないしたら、」
──── 笑てくれんねや。
この場に似つかわしくない一言だと思った。暴力と恐怖が支配する部屋で、どうしたら笑ってくれるのかと問われ、どう返すのが正解だったのだろう。それは今でも分からない。だが、答えなければならない。沈黙が続けば続くほど、足元の彼らが血にまみれ、殴打され続ける。ただなまえに笑ってもらいたいが故に、彼らは止まぬ殴打の雨に晒され続けるのだ。
この時、なまえは初めて自分を偽った。生まれてから些細な嘘をついてしまったことは幾度もあるが、自分そのものを偽ったのは後にも先にもこれが初めてである。
流した涙を手の甲で拭い、強ばる表情を緩ませ、思い切り笑ってみせた。恐怖に悴んだ顔で無理やり下がり切っていた口角を吊り上げる。不安が顕著に現れた指先はきつく握られ、手のひらに爪がくい込むのも構わなかった。
「も、もう、大丈夫ですから、……か、帰りましょう、」
か細く震えた声が部屋の沈黙に消えていく。真島はそれを良しとしてくれるだろうか、この願いを聞き入れてくれるだろうか。真島はなまえの言葉に、無理に作った笑みに満足したのか、ひしゃげた金属バットをその場に捨てると、ほな行こか。となまえの元へと近寄った。なまえは心底、生きた心地がしなかった。未だに肝が冷えていくばかりで、一刻も早く明かりのある場所へと帰りたかった。そこにはきっと血の跡も、痛みに蹲る誰かも、狂気を孕んだ男の姿もないのだ。
「吾朗さん。……助けに来てくれて、ありがとうございます」
「ああ、当たり前のことやろが」
いつもと変わらない言葉選び。ぶっきらぼうでいながら、言葉の端には優しさが読み取れる会話の筈なのに、何故か今はそれが読めない。代わりに分かったのは、真島は自分の頬を伝う涙を拭ってはくれないということ。それは何故かと不意に真島を盗み見れば、まだ怯えが抜け切っていないと知る。
自分の知る誰かが泣いている時、同様に胸を痛めるのは良くあることだ。寧ろ、知らない誰かでさえ、その胸中は明るくない。漠然とした罪悪感、感じる必要のない罪悪感に苛まれ、真島という男は病を患ったのだろう。それがいつからかは知る由もないが、発症に至ったのは間違いなく、この一件のせいであることは明白だった。