満たされた胃袋を実感するように腹部を摩る。
満腹中枢が刺激され、欲求が満たされた時のあのうっとりとしてしまう幸福感に包まれていた。
その隣で楊枝を咥えた真島はなまえを見つめていた、二人の手元にある器はどれも綺麗に空っぽだ。
満腹の余韻は真島にもあったのだが、自分より幸せそうな顔をして腹部を摩っているなまえには負けると思った。
「どや、美味かったか?」
「とっても美味しかったです…!こんなに美味しいラーメンが食べられて、大満足です…!」
「そら、良かったのぉ。そない喜ばれると連れて来た甲斐があったっちゅうもんや。」
真島の口先の楊枝がもごもごと動く。
彼の口元も機嫌が良いのか、口角が上がっていることが多いと感じた。
なまえはお冷の最後を飲み干すと、近くに置かれていたティッシュを一枚口元に当てがう。
彼女の様子を見た真島は、行くか?と問い掛ける、なまえは、はい、大丈夫です。と答える。
二人で席を立とうとした時、真島が突然何かを思い出したかのように声を漏らした。
「すまん、お姉ちゃん。俺にちょっとだけ時間くれるか?」
「ええ、大丈夫ですけど、何かありました?」
「ただのトイレや、トイレ。」
「ああ、それは失礼しました。じゃあ、ここで待ってますね。」
「置いてったらあかんで、」
置いて行きませんよ、と返すと、真島は店内にある簡素な、でも、分かりやすく男女のマークが並んでいる扉へと向かって行った。
なまえはまだ満腹の余韻が抜け切らずにいる。
正直過ぎた本日の昼食に今更、可愛げが無い!と思ったのだが、そんな事よりも自分の食べたかった物を一緒に、美味しいと言葉を交わしながら、食事出来た嬉しさのようなものの方が強かった。
命の危機とも言える場面から助けてもらえた人と、またこうして再会し、今度は一緒に神室町を歩いているなんて。
それはありがたい偶然だった、なまえもあの日真島と別れた後、また会いたいとは仄かに思っていたのだから。
そこで一つ思い出す、あの時のお礼の事を。
空腹が満たされて、今まで穏やかであった頭が突然忙しく働き始める。
確か私から『お散歩』に誘っておきながら、真島には町の歩き方だとか、良い雰囲気の喫茶店、バッティングセンター…、そして今いるラーメン屋、全て真島に連れて来てもらっている。
わたし、お礼って言うお礼、何も出来てない…?と一人呟けば、一気にどっと申し訳なさが押し寄せて来た。
はあ、お腹いっぱい…、とうっとりしている場合ではないと、焦りに黒目が右往左往とあちらこちらに飛んでいく。
「待たせたのぉ、ほな行こか。」
まだきちんとした答えを見つけられていない中、肝心の本人が戻って来てしまい、なまえはぐちゃぐちゃに散らかったままの頭を真っ白にさせた。
その声に弾かれたように席を立つ、真島はなまえの様子が変だと分かっていたが、あえて突っ込むような事はしなかった。
「はい、いつでも動けます…!」
「おう、それならええねん、」
先に歩き始めたのは真島だった、その後を追うようになまえもついて行く。
暖簾を潜り、店の外に出た。
なまえは何か妙な違和感を感じている。
何か忘れているような気がした、そして、それは忘れてしまうととてもまずいものだった。
あ!と突然上げた声が路上に響いた。
真島は傍で驚いているらしく、な、何やねん…、となまえの方を見た。
その時、真島が見たのは顔を真っ青にしたなまえの姿だった。
「どうしましょう、お金まだ払ってない…、」
「なんや、そんな事かいな…。お姉ちゃんの分もちゃあんと払って来たわ。」
「え、真島さん、それは、」
「せやから、その青ざめた顔何とかせぇ。…急にでかい声上げるもんやから、びっくりしたわ。」
「…ありがとうございます、真島さん。」
「えらい幸せそうに食っとったからのう、ええもん見せてもろたで。」
「あ、あの、真島さん…!」
不運にもなまえが抱えていた思いを言葉にしようとした時だった。
真島は不意にジャケットの懐に手を忍ばせると、自分のものと思われる携帯を取り出した。
それからは着信音が聞こえて来る、誰かから電話がかかって来たのだろう。
勿論そうなってしまうと、真島もそれを取らなければいけないわけで、すまん、と一言置き、耳に携帯を当てがう。
不機嫌そうに取った電話だったが、次第に口調が荒々しくなっていく様から、なまえの表情は少し曇り始めた。
電話の最後は静かだった、先程まで明るい表情だった真島はどこか冷めているように見えた。
「…真島さん、」
なまえは自分で思ったよりも不安そうな声を出している事に気付いた。
「お姉ちゃん、すまん!…嫌や言うたんやけど、どうしても外せへん用事が入ってもうて、」
「残念ですけど、しょうがないですね。」
「俺は嫌や、でもそれもあかん。」
「あの、今日はとても楽しかったです。また、会えますか?」
真島は残念でならないと怪訝そうな表情の後、それを崩して、当たり前やろ、と答えた。
「出来ることなら、毎日でもお姉ちゃんに会いたいくらいや。」
「そ、そんなこと、」
「そない照れる事も無いやろ。お姉ちゃんは見てて飽きんわ。ほんま、おもろいのう。」
再びその白い歯を覗かせて笑うと、なまえの肩を大きな手のひらでぱしっと一度だけ叩くように触れた。
「ほなまたな、お姉ちゃん。気ぃ付けて帰るんやで。」
少しずつ歩いて行ってしまう真島の後ろ姿を見ている内に、なまえは居ても立っても居られなくなり、駆け込むようにラーメン屋へと入っていく。
そして何を思ったのか、近くにいた店員に紙とペンを借りると、そのペン先をさらさらと走らせた。
なるべく丁寧に、乱暴になり過ぎないように、少しくしゃくしゃな紙の中央を埋めるように文字が書き込まれた。
それらを貸してくれた店員にありがとうと残すと、なまえは紙を手に店を飛び出て、まだ近くを歩いているだろう真島の後を追い始める。
自分とすれ違う人に何度もぶつかりそうになりながら、あの蛇柄を探していた。
一目で分かる格好をした真島の事を、決して人混みに紛れられないあの後ろ姿を探していた。
不意に視界に入った黄色に、苦しいと鼓動の早い心臓が高鳴る。
ま、待って、と言葉を口にしながら、その背中へと近づいて行った。
次第に大きくなる背中、次第に小さくなる声。
なまえはその手を伸ばして、真島のジャケットの裾を掴んだ。
目の前の体が一瞬跳ねた、そして歩みを止めて、こちらへと振り返る。
「…お姉ちゃんやないか。どないしたんや、そない息切らして、」
整えられそうにない呼吸を後にして、なまえはずっと手に持っていた紙を真島に差し出す。
それを受け取ると深く聞くわけでもなく、何かを察したように頷き、大事に持っとくわ。と言い残した。
なまえも言葉に出来ない分、何度も頭を縦に振った。
そして肩が上下する程、荒い呼吸の最中、また一言真島が言い残す。
「連絡が来るん、楽しみに待っててや。」
一文字も聞き漏らす事無く、その声はなまえに届いていた。
急いで顔を上げてみる、もうそこに真島の姿は無かった。
けれど、なまえの先程抱いたような寂しさも同様に居なくなっていた。
手渡した紙に書き込んでいたのは、自分のもう一つの連絡先。
なまえはまるであの時と同じだと、いつもより下手な笑顔で人混みを見つめた。
今とても胸が踊っている、真島も同じ気持ちだったのだろうか。
積極的だった自分と、真島の最初の連絡がどんなものになるのかと思うと、何故だか面白いと笑みを零し、苦しい胸もそのままにその場を後にした。