ネオン眩しい街並みを窓越しに眺めていた。車の走行音に紛れて、こじ開けられた胸の傷口に突っ込んだままの手を戻し、膿んだ過去から目を逸らす。傍からすれば、飲み下した酒に酔い、ぼんやりと景色を眺めているように見えるだろう。しかし、なまえの瞳に映っていたのは、決して忘れることの無い出来事の一部始終で、右往左往する人の群れでも、すれ違うように行き交うヘッドライトの濁流でもない。

「少し、飲みすぎちゃったかもしれませんね」
「ああ?なんや、そないに酔うとるんか」
「お酒、あんまり強くないのに恥ずかしいです」

 いつまでも影を覗き込んでいても良いことはないとなまえはほろ酔いに任せて気楽に話し始めた。確かに胸の痛む一件ではあった、しかし、それをいつまでも引き摺るのはあまり良くないと知っている。真島もぽろっと零したなまえの一言に次から次へと酒で滑りの良くなった口で会話を弾ませて行った。口から出る言葉や真島の相槌が気楽であればある程、胸の内はすうっと影が引いていく。気楽でいられることに救われていたのだ。しかし、迫り来る異変がいつも音も立てずに寄り添うことを完全には理解していなかった。

 膿んだ傷口を更に化膿させ、悪い血がその中に流れ込み、着実に変化をもたらしている。例えば、男が寡黙を口に含んだまま、何かを考えている寂しげな顔や、何気なく見てしまった遠い誰かを思う一瞬に、それは徐々に存在感を増していく。ぞくりと肌が粟立ち、どくんと心臓が脈を打ち、びくりと体は硬直し、ずきんと頭の内側が痛み出し、ごくりと飲み込んだ唾液は鉄の味がする。挙動不審と指摘されてもおかしくないくらいに内心は動揺していた。彼が目に見えるものを怯えるのに対し、自分は目に見えぬものを恐れていると知ったからだ。
 そう言えば、とその見えぬものの始まりを思い返す。微かに震える指先は朧げな昔の記憶を掻き分けている。しかし、どんなにあたたかな記憶を辿っても、その始まりに辿り着かない。延々と辿って行った先にあったのは、なぞり続けた先で気付いたのは。


 みょうじなまえは真島吾朗と出会ってから、一度も落涙する姿を見たことがないということだった。ぞわぞわと粟立つ感覚が体中に広がっていく、目眩に襲われそうだ。乱れかけた呼吸を、無理に息を止めることで防ぎ、数秒かけてゆっくりと息を吸えば、幸いにも冷静を取り戻すことが出来た。本当に今日は飲み過ぎてしまったのだろう。少し夜風に当たりたいと窓を開ければ、冷ややかな風が心地よく車内に流れ込んだ。

「夜風に当たりたなるほど、体ん中に酒入れたんか」
「楽しい雰囲気につられてしまったのかもしれません、そういうのに弱いんです」
「しおらしいなまえちゃんもええもんやが、」
「ふふ、そんな口説き文句にお財布の紐は緩めませんからね」
「……ほんまにおもろいこと言うてくれるわ!なまえちゃん!」

 ぎらぎらとした笑顔を見せてくれる彼のことを愛おしいと思う。愛おしいが故に、曇ってしまう瞬間を、萎れてしまう瞬間を見たくないとも思った。あなたの笑顔が好きだなんて、聴こえの良い言葉の棘が刺さる。曇ってくれるな、俯いてくれるな、逸らしてくれるな、思い出させてくれるな。まるで自分の、もしくは相手の『それ』が一時的な痛み止めかのような、身勝手で優しくあれと告げるその言葉を、気付けば交わしていた。

「大抵のヤクザは無闇矢鱈には笑わん。舐められとったらカッコつかんからなァ、」

 ヤクザは軽う見られたら終いや。と語るくせに、真島は終始にやついた表情を崩すことなく、なまえに言い聞かせている。言っていることと顔が合っていないとじゃれつけば、俺は俺のしたいように振る舞うだけや。と自由気ままな言葉で前提を覆されてしまった。

「本当に私も、吾朗さんも飲み過ぎちゃいましたね」
「あんなん、飲み過ぎに入らへんわ」
「二軒目はないですからね、このまままっすぐ帰りますからね」
「あ〜あ、そないつれへんこと言わんでもええやないか」

 真島の言葉を最後にまた車内には沈黙が訪れた。そこには過去を覗き込む瞳も、傷口を抉るように伸ばされた腕もない。あるのは、綺麗な言葉の余韻が毒のように唇を麻痺させていく感覚だった。聞こえのいい言葉やどこを取っても綺麗な言葉、鈴の音のように慎ましやかで響きの良い言葉。そのどれにも明かせぬ本心が隠されている。そう思うと、自分の口にしたものでさえも陰りを孕んでいるような気がして。
 つまり、同じなのだ。真島があの言葉を口にした日と、今は全く同じなのだ。場所や状況は違えど、腹の奥底に潜ませたものは同じ。恐ろしい『それ』から逃れようとして、先に釘を刺しているだけなのだ。いつから、一体いつから変わってしまったのだろう、一体いつから ───。

 フラッシュバック。激しい光の点滅、記憶の濁流。恐怖が刻んだ爪痕が新たに膿み始めている。今頃、自分の異変に気付くなど。自分自身がいかに己に対して盲目だったか、思い知らされた。あの言葉が吐き出された瞬間から、感染は始まっていたのだ。あれはとても強い『毒』だった。あの日の夜から笑顔を絶やさぬ日々が始まったのなら、あの日から真島と同じ病を患っていたのだ。
 水を極度に恐れ、凶暴性を露わにする密やかな病。その名は知らずとも、自分の中に潜む陰りを受け入れ、我が物としている現状がそうであると告げているのだから。


「……わたし、」

 開いた窓から流れ込んでくる雑音の合間に、真島の声が混ざって聞こえた。顔を上げ、真島を見れば、酔いなど感じさせない程に醒めた目をしている。深く胸を切り裂かれたようで、続きを吐き出すことは出来なかった。言葉を失ってしまった。それに何より、あの醒めた目に体が寒気を覚えた。良からぬ悪寒に幻を見る。酷く醒めた目に悲しみが滲んでいるように見え、なまえは人知れず手のひらを力強く握り締めた。緊張感の伝う雰囲気の中、声のない言葉が真島の唇から発せられた。たった三文字、数の少ない三文字をゆっくりと何度もなぞれば、今度はその言葉が胸に深く突き刺さっていた。

「……そんな悲しそうな顔をしないで下さい」

 無表情にも近い顔を見つめながら語りかける。

「これは誰かのせいなんかじゃなく、」

 少しだけ苦しい話をしようと思った。刹那的な思いつきではあるが、伝えておくべきだと思えた。

「……ただ、私が弱かっただけの話ですから」

 最後の一言は力なく唇から出て行った。もし、自分が強い運命の下に生まれた人間であったなら、こうはならなかっただろう。もし、自分が運命とは自らが切り開いていくものだと教わっていたなら、こうはならなかっただろう。
 長く深く息を吸った。もしかしたら、あの真島の言葉は幻聴だったのかもしれない。そして、自分が紡いだ言葉も窓の外の雑音に掻き消されているのかもしれない。それでも口にして良かったと思うのは、自分の自己満足だろうか。


 彼は自分の流す『それ』が恐ろしいと口にし、自分は彼の見えぬ『それ』が恐ろしいと怯えている。人生も命も共にする者同士、この『陰り』でさえも分かち合わなければならないのだろう。ならば、互いが互いを噛み殺してしまえればいいのにと思った。そうすれば、もう『それ』に怯えずに済むのに。そうすれば、もう『痛み止め』なんて卑怯な言葉に縋りつかずに済むのに。そうすれば、喜びも絶望も笑顔も涙も分かち合う未来が待っていたかもしれないのに、と。


***


 真島組構成員達は皆、口を揃えてこう言う。自分の親はああ見えて結構、優しい人間なのだと。あの異質的な服装や見た目の物騒さからは想像が出来ないかもしれないが、自分の女には弱い一面があるのだと。真島吾朗とみょうじなまえを並べて、誰もがそう口にするのだ。
 しかし、その内の数名は二人に違和感を覚えているとも零していた。ヤクザが堅気の女とくっつくことはあまり珍しいことではない、そして自分の女に弱いというのもよく聞く話の一つだ。だが、あの二人にはそれ以上の何かがあるように思う。落涙する姿をもう何年も見ていないのだ、どちらとも。常に穏やかさを保っている女と狂気を漂わせている男。まるで互いに触れてはならない『何か』を遠ざけているように思えて仕方がないのだ。

 何があったのかを詮索しようにもその正体には辿り着けないだろう。それは全てあの日の、あの言葉から始まってしまったのだから。噛み付くように残された傷口はとっくの昔に手の施しようがなかったのだ。異名と同じ名を持つ病にかかってしまった男と、愛する男の手によって同じ病を患ってしまった女の行く先には、翳りだけが続いている。



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