正面にあるドアはいかにも厳重といった面持ちで佇んでいる。真島の手には佐川から押し付けるように渡された鍵が一つ。それを鍵穴に差し込むのには少々の躊躇いがあった。面識もない、見ず知らずの相手と顔を合わせなければならないのは、酷く厄介で憂鬱だった。しかし、組の復帰と自分の感情を秤にかけたところで、どちらが重いかなどは考えるまでもない。やらなければならない。これも仕事だと割り切って、ようやく真島は女の住む部屋へと足を踏み入れた。


「……あの、どちら様ですか、」

 ああ、もしかして司さんのところの方ですか?と尋ねてくる女の姿に目を疑った。中に入ってすぐ、真島と女は出会した。それも最初から真島の来訪を待っていたかのように。女からは控えめな印象を受ける。これが、あの佐川の女なのかと真島は黙り込んでしまった。

「あの、違うんでしょうか……?」
「あ、いや、……せや、佐川はんに頼まれて、ここに来るよう言われたんやが」
「やっぱり。ごめんなさいね、あの人の我儘に付き合わせてしまって」
「いや、俺のことは別に、」
「司さんは人使いが荒いし、大変でしょう?」

 立ち話も何ですから、こっちに来てゆっくりお話でもしませんか?と女の誘いに気遣われるまま、真島は広いリビングに置かれたソファーに腰掛けた。女は、飲み物持ってきますね。と言い残し、パタパタとスリッパを小さく鳴らしながらキッチンへと向かう。その姿に真島は違和感を拭い切れない。

 あれが本当に、佐川の女なのだろうか。質素でどこにでも居るような女だ、恐らく人も悪くない。そんな彼女が何故、近江のヤクザの男と関係を持っているのだろうか。真島の疑問は尽きない。真島は女に対して、少なからずこっち側の人間なのだろうと思っていた。あの佐川司という男のことだ、連れ添う女も一筋縄じゃいかない相手に決まっていると思い込んでいた。それが、予想を大きく覆され、今こうして優しく迎え入れられている。誰がこうなると予想出来た。

「ええ部屋にも住んどる、何不自由ない生活やな」
「……本当にそうでしょうか、」
「あ、いや、その、」
「ふふ、いいですよ。ここはそう言う風に思われても仕方の無い部屋ですから」
「すまん、初対面の相手に言う言葉ちゃうかったわ」
「そんなに身構えなくても大丈夫です。司さんに告げ口なんてしませんし、しても気に留めてくれませんから」

 意外にもぞんざいな扱いを受けている。真島はそう察すると、女から自分と同じ繋がれているような匂いを嗅ぎ取った。佐川は彼女にまで残酷な首輪を嵌めていて、彼女はそれに気付いていない。真島は内心、やるせない思いに駆られた。深入りすべきでは無いと自分に釘を刺す。うっかり他人の事情に深入りしてしまいそうな自分が居たからだ。
 女は手にした小さなトレーから二人分のカップをソファー近くのローテーブルに並べた。ふわりと漂う湯気に、それは暖かな飲み物だと気付いた。お好きな時に飲んでくださいね。と言い残し、女も真島同様にもう一つのソファーに座ると早速、カップに手を伸ばした。

「……ほな、貰うわ」
「どうぞ。お口に合うといいですけど、」

 終始、にこやかな笑みを見せる女に警戒をほどかれる。自分とは違えど、結局は佐川司という男に繋がれている事実に同情していた。他人事とは思えない彼女の立場に、真島は警戒心も敵意も置き去りにし、まずは話をしてみたいと思った。

「……ホンマに、その、あんたは佐川はんのイロなんか」
「ええ。司さんと出会って、もう一年になります。あの人は飄々と振舞ってはいるけど、私はそうだと思っています」

 勘違いが過ぎますかね、と苦笑する女に真島は言葉に出来ない感情を覚えた。試しに聞いてみたものの、この女が佐川に想いを寄せているのは一目瞭然だ。慕う感情の乗った彼女の話に真島は居た堪れないと密かに感じていた。そうだ、あの、と女の言葉が止まったことで二人は大切なことを忘れていたことを思い出す。

「……私、あなたの名前まだ聞いてませんでしたよね。ごめんなさい、家に上げておきながらこんな失礼なこと、」
「ああ、せやな、俺も忘れとったわ。すまん」

 互いに名を口にすれば、互いを確かめるように口にする。奇妙な縁だ、自分という佐川の犬となまえという佐川の女がこうして出会ったのは。佐川の企みに嵌っているのかもしれない、そうでも思わなければ、彼女が不憫に見えてしまう。どんな理由かは分からないが、自分の女に男を差し向けるなど、本人の趣味の悪さが伺える行動だ。

「なまえ、……さんの所には、俺みたいなヤツがよう来るんか」
「ええ。でも、部屋に上げたのは真島さんが初めてです。いつも玄関先で済むような用事ばかりでしたから」
「佐川はんは?」

 真島の問いかけになまえは途端に顔を曇らせた。その反応から察したことに真島も遅れて顔を曇らせる。すまん。と手短に謝れば、いいんです。と健気な言葉が返ってきた。例え、どんなに裕福で豪華な暮らしをしていると言っても、真に求めるものを与えられなければ、この暮らしのどこにも幸福はない。言うなれば、ただ良い小屋に暮らしているだけのペットなのだ。

「司さんは、……最近会えないことの方が多いです」
「なあ、なまえさんはホンマに佐川はんのことが好きなんか」
「どうして、そう思うんです?」
「自分の女に何も告げず、赤の他人にこの部屋の鍵を渡したんや。こないなこと、普通なら受け入れられへんことやろ」
「……それでも、好きです。例え、あの人が真島さんになんて言い付けてあっても」

 なまえの瞳に意図せず射抜かれる。脳裏には自分の店でキャストの女と馬鹿高い酒を飲む佐川の姿が過ぎり、瞬きの間にいたたまれない感情を逃がす。自分の女と言っておきながら、金で囲うだけ囲って体のいい装飾品のように扱っているあの男に、怒りを覚えるのはやはり彼女に自分と似た点があるからだろうか。

「……ただ俺は佐川はんに、会えって言われただけや」
「それなら、よかった」

 その一言にほっと胸を撫で下ろす様は、やはり彼女もヤクザというものがどのような存在かは理解しているようだった。ここを訪れる人間の真の目的が何なのか、彼女には分からない。つまり、佐川の口封じによって殺されることも、佐川を殺す為の道具にされることも、容易に叶ってしまう世界だ。その世界に足を突っ込んでいる彼女が警戒心を抱くのは自然なことで、寧ろその警戒心を悟らせなかったという点では、彼女も優れた人間なのだろう。

「真島さん。良ければ、またいらして下さい」

 放ったらかしにしていたカップを再び傾け、なまえは微笑む。彼女はこの奇妙な出会いを少なからず喜んでいるように見えた。佐川司という男に繋がれた人間など、そう多くはいない。大抵は役割を果たした時点で手を切られていることだろう。そのようなやり取りが常であるこの世界で、蔑ろにされている真島と大切にされているなまえを引き合わせた佐川の腹が読めず、真島はただ佐川に対する苛立ちを募らせていた。

「わかった。また顔出させてもらうわ」
「ええ、いつでも待ってますから」
「俺からも佐川はんに言うとく」
「な、何をですか……?」
「自分の女を放ったらかしにせんと、会いに行ったれってな」

 司さんが真面目に取り合ってくれるといいんですけど。と笑うなまえの横顔が照れているように見え、真島は自分にはこれぐらいしかしてやれないと控えめに口元を緩ませた。置かれている環境の違えど、彼女もまた囚われている人間だ。自分にはその余裕さえないと思っていたが、彼女の幸せを願うことぐらいの人間味は残っているのだと、こんな時になって始めて実感させられたのである。