佐川から一方的に押し付けられたマンションの鍵を受け取って数日経った今も、その鍵は真島の懐にあり、彼女の部屋へと律儀にも通い続けていた。佐川にとって自分の女である、彼女の置かれた環境には疑問を抱くものの、そこまで出来た人間ではないとなまえを気遣う所に留まっている。恐らく佐川司は見抜いているだろう。真島吾朗という男が甘く、青臭い正義感をまだ捨て切れない、極道者としては半端な人間であると。
それが真島の苛立ちや焦燥感を悪戯に煽っていく。こうして佐川の女の暇潰しの相手になっていれば、兄弟の行方や組への復帰が叶うと言うのだろうか。深入りしてしまった足を戻せ。同情することはあれど、これを好機だと捉えて目的を果たせ。手を伸ばした先の光に手が届くのは一体、何時になるのだろう。真島はまだ日の高い時間の粗末なアスファルトの上を歩いている。彼女のマンションへと続く道をその足でなぞらえて。
「こんにちは、珍しい時間帯ですね」
「おう。ただの様子見や、気にせんといてくれ」
「何か飲み物出しますね」
ゆっくりして行ってください。となまえの出迎える部屋には、あれから二十分程度で到着した。なまえの住むマンションは真島の住むアパートからはそう遠くない場所にあり、仕事前に寄ることもあれば、仕事の合間に顔を出すことも少なくない。自分の今後のこともある。佐川に一々突っつかれるのも良い気分ではない。彼女の為と言うよりかは自分の為に近しい行為だった。それでも、こうして嬉しそうに迎え入れられると、満更でもない気持ちになるのだ。
蒼天堀の何もかもを見下ろせる窓辺にはレースのカーテンがゆらゆらと揺れ、窓が少し開いているようだった。そこから部屋に流れ込む空気の心地よい冷たさ、自分が腰掛けたソファーの柔らかさ、辺りを照らす目に染みるような日差し。自分が見てきた風景の中でここまで穏やかなものはなかった。
かつての街を離れ、組を離れ、兄弟の生死も分からぬまま、関西の地に連れて来られた自分には見ることのなかった景色。今になって初めて見る景色は彼女が普段目にする日常の一部だ。レースカーテン越しにその景色を黙って眺めていると、徐々に頭の中がぼんやりとし始め、気が付けば耐え難い睡魔に襲われ、真島は一人舟を漕いでいた。抗おうとすればするほど、微睡む水面に足を取られ、いつの間にか瞼は閉ざされていた。
***
「ごめんなさい、何出していいか迷っちゃって……」
カップの乗ったトレイをテーブルに置いたところで気付いた。今日の真島は寡黙な人ではなかったのだと。途切れた言葉を唇に残したまま、なまえの目は静かな寝息を立てる真島の寝顔を捉える。言いかけた言葉が出て行かないように口元に手を当て、なまえは咄嗟に部屋を見回す。お目当ての物はすぐには見つからないと思ったなまえは羽織っていたロングカーディガンを脱ぎ、眠る真島の体にそっと被せた。肌寒いという理由で眠る彼を起こしてしまいたくなかった。
テーブルに置かれたままのミルクティーが湯気を立てて、ほんのりと香る。これならホットミルクの方が良かったかもしれないと、目の前の寝顔を見て初めて思った。彼は砂糖を何個入れる人だろうか。全く入れない人かもしれないし、紅茶よりかはコーヒーの方が好きな人かもしれない。
なまえは寂しそうに佇むカップに添えられたスプーンを手に、角砂糖を二つカップの中に沈めてかき混ぜる。ぐるぐると気が済むまでかき混ぜられたミルクティーは再び置き去りに、なまえの意識は自分を放ったらかして眠る彼へ。
生気の感じられない青白い肌、目の下に薄黒く広がった隈、人には言えない何かがあるだろう左目の眼帯、隻眼の理由。知らない、彼はあの人の使いだと言って自分のことをある程度知っているのに、自分は真島のことを何も知らない。カタギとしての話は聞いたばかりだが、本当の彼はきっと自分の男と同じ裏側の人間なのだろう。そんな考え過ぎな憶測より流し込んだミルクティーは程よい甘みで舌先を温めてくれる。
「……あの人だって、ここで滅多に寝顔見せないのに」
先に口付けてしまったカップを置き、頬杖をつく。真島はなまえから見れば、いい男だ。人に気を遣い、面倒事である自分の元にも定期的に顔を見せてくれる。佐川から言い付けられたのかもしれないが、それでも嫌な顔ひとつせず、自然に接することの出来る真島に羨望の眼差しを向けた。佐川に足りない何かを真島はいくつか持っているのだろう。たまには見習ってもらいたいものだと小さく溜め息をつく。
しかし、この部屋にいるのは佐川ではなく、真島だ。ならば、顔見知り以上である客人の彼が目覚めるまでそっと寝かせておこうと思った。見た目に反して穏やかな寝顔を見せる真島を一人、リビングのソファーに置き去りにし、なまえは飲みかけのミルクティーと共に隣の部屋へと場所を移した。