徐々に意識が戻る感覚に微睡んでいた瞳は天井の白を見た。反射的に急いで飛び起きると、ぱさり、と自分の膝に落ちたカーディガンに察することが多々ある。酒の匂いも煙草の煙たさも感じない部屋で、彼女の優しさを借りて眠っていたのだと知り、真島はまた一つしくじってしまったような気がしていた。膝元にあるカーディガンを軽く丸めて横に逃がすと、埋もれていた体をソファーから引き剥がし、彼女の姿を探す。
心地よい倦怠感は久しぶりだった。この蒼天堀という地に来てからというもの、与えられた部屋でまともに眠れたことは無かった。そのくせ、彼女に用意されたこの場所で安眠している自分に『呑気』の二文字がちらついて仕方ない。レースのカーテンは未だ部屋に流れてくる風に揺れているが、目に染みるほどの日差しは先に退室してしまったらしい。何となしに隣の部屋を覗き込む。そこには揺らめくレースの傍に腰を落ち着かせ、床に置いたトレーからカップを手に取り、口をつけるなまえの姿があった。
「……あ、おはようございます。よく眠れました?」
真島の存在に気付いた彼女は屈託のない笑みを見せて、真島に快眠の程を問い掛けた。だが、真島はなまえの姿に驚きを隠せない様子で固まっていた。
「もしかして、意外ですか?」
私がこうやって地べたに座ってるの。と更になまえは笑いかける。なまえがいる部屋にはテーブルとそれに見合う椅子が用意されているにも拘わらず、なまえ本人はそれを無視してフローリングの床に腰を下ろし、カップを傾けているのだ。
「素敵な部屋に住んでいても、私自身はあまり丁寧な人間じゃないんです」
だから、本当は椅子に座るより、こうして床にべたっと座ってる方が好きなんです。本当はお淑やかにしていなくちゃいけないんですけど。と声量を抑えて告げるなまえに、真島もようやく表情筋がほぐれていくのを感じていた。
「なんや、なまえさんも案外適当な人っちゅうことか」
「て、適当なんてあんまりですよ、これは私の好みの話ですから……!」
「隣、ええか」
「どうぞ。丁度、空いてます」
真島さんも地べたに座るのお好きなんですか。ああ?行儀よく椅子に座っとる方が好きに見えるんか?いいえ。っちゅうことは、なまえさんと同じで、俺も丁寧な人間ちゃうねん。
日差しの薄まったカーテン越し、じゃれつくように交わされる言葉は、境遇は違えど同じ立場にいる二人にとって気楽なものだった。なまえのことを佐川の女だからと身構えていた節が真島にはあった。しかし、彼女に自分や他の人間にも通ずる一面を知ってしまうと、余計に何故相手が佐川なのかと問いたくなった。
「真島さんは、最近よく眠れていないんですか」
「まあ、眠れてない方やろな」
「あんまりにもぐっすりと眠っているものだから、そうなんだと」
「すまん、寝に来るつもりやなかった」
「大丈夫ですよ、ここはただ広いだけの部屋ですから」
「前より言うようになったやないか」
でも、きっと本人を前にしたら、こんなこと言えないんでしょうね。と指先でカップに触れたものの、手に取れずにいるなまえに疑問は自然と口を突いて出た。
「なんで、佐川はんなんや」
その一言が意外だったと言うような瞳と目が合った。今の今まで触れていなかった砂時計をうっかり落としてしまうような、それ程までに突発的な一言だった。不意に目前の真白が大きく膨らむほどに強い風に吹かれた。顔を撫でた風に攫われた髪を一房耳に掛け、なまえは神妙な顔でようやくカップを手に取り、両手で包み込む。
「本当はずっと聞きたかったんじゃありませんか」
二つの目が突き刺さる。初めて顔を合わせ、互いを探るように言葉を交わした日と同じ目をしている。下手な誤魔化しをする気にはなれなかった、それだけだと手短に告げる。すると、なまえは深呼吸の間に強ばった表情を崩し、先程と変わらない自然な表情で、真島が落としてしまった砂時計を正しく戻そうと口を開く。
***
『あの人は、私を拾ってくれた人なんです』
その後、なまえが口にしたのは、当時の自分が置かれていた環境と佐川との出会いについてだった。彼女の『とても身近な血縁者』は裏で多額の負債を背負っており、その血縁者はなんの前触れもなく、自分を置いて姿を消した。取り残された状況を理解出来なかった彼女に事の真実を告げたのは、借金の取り立てに出張って来た佐川本人であった。借金のカタとして置いていかれた現実に打ちひしがれ、ぼろぼろと無表情のまま泣いていた彼女の手をとったのも佐川司だった。
「お前、俺んとこに来い。なあに、悪いようにはしねえって」
「……どうなるのかぐらいは想像出来ます」
「だから、シケたツラして泣いてんのか。こりゃまた随分と悲観的だねぇ」
「ヤクザ、なんでしょ」
「あ?」
「あなた、ヤクザなんでしょ」
「だったら、なんだよ」
「それじゃあ、私に未来なんてあるわけないじゃないですか」
その時、なまえは目の前の表情が一瞬真顔になるのを見た。だが、すぐに薄っぺらい笑みを貼り付けては、へらへらとした態度で接するばかりの男に、なまえは嘆く気力すら失っていた。
「お前の言う通り、俺はヤクザもんだよ。ま、実際にこうして借金の取り立てに来てるからな」
「でもよ、ヤクザがてめぇの為に金を持ってくるのは当然のことだろ?俺らはこれが出来なきゃいけねえ。その為にも『どうすればいいか』ってのを熟知してる」
なら、ヤクザもんの俺がとる行動は一つしかねえよなあ?と男の食えぬ笑みに、なまえは黙って次の言葉を待つ。最後まで聞いてしまえば、あとはもう楽になれるような気がしていたからだ。
「でもよ、それじゃあ面白くねぇんだよ。カタギの嬢ちゃんが考えた通りにヤクザもんが動いちまったら」
それに、と続けた男の言い分は、なまえの心臓を鷲掴みにする程に意外なものだった。
「俺ぁ、可哀想なヤツを見ると助けてやりたくてね」
なまえは佐川の言葉を理解出来なかった。次に佐川が身近な血縁者の死を口にするまでは。今まで散々待たされてんだ、こっちは。だから、かけるものかけて、さっさと退場してもらったよ。と平気で軽々しく口にする目の前のヤクザになまえは妙な感情を抱いたのを覚えている。
「……私は、これからどうなるんですか」
「ああ?だから、言ってんだろ。助けてやるって」
「信じられません」
「信じる、信じないは関係ねぇんだよ。お前は結果として俺の所に来るしか選択肢はねぇんだからさ」
佐川はもう用は済んだとばかりになまえの腕を掴み、無理矢理にその場を後にした。車に乗せられ、遠く離れていく家に今は亡き血縁者との関係について考えさせられた。共に過した日々は既に切り捨てられていた。その事実になまえも自分の胸の小箱から、大切だった思い出の亡骸を捨て去った。ヤクザの元に行く自分には未来はない。しかし、未来どころか今では過去さえもないのだと思うと涙が止まらなかった。
この日から、なまえは佐川の近くで暮らすように言いつけられ、その通りに生きてきた。最初は佐川の考えが分からずに疑心暗鬼に陥っていたが、一度たりとも黒の餌食になるような話は持ち掛けられなかった。そんな日々が続くと、いつの間にか関係も軟化していき、次第に情というものが湧くようになった。忌み嫌われる部類の人間ではあるが、そんな人間にも気苦労はある。それを間近で見ている内になまえは佐川に心を許すようになり、それが顕著になったのはとある出来事がきっかけだった。