みょうじなまえが佐川に引き取られ、一ヶ月が経った頃。初めは嫌悪と懐疑心が拭えずにいたのだが、佐川の自分に接する態度や一向に持ち掛けられない仕事の話になまえの心境は複雑化していた。
日めくりカレンダーのように何事もなく過ぎていく一日。気まぐれにこの部屋に顔を出したかと思えば、長く滞在しては腹が減ったと呟いた数秒後に部屋から連れ出したりと、佐川と言う男に振り回されてばかりだ。やれあの店の酒が不味いだとか、やれこの店のつまみが美味いだとか、砕けた態度で馴れ馴れしく接してくる。そんな日々を嫌でも重ねていくと、不思議なことに初めの頃に感じていた締め付けのようなものが和らいでいく。与えられた部屋も、佐川の横に連れられるのも、目に見える束縛なのだと思っていた。
だからこそ、混乱している自分がいることに腹立たしかった。絆される義理も、無条件に佐川を信じてやる義理も、ましてや尽くしてやる義理もないのだ。しかし、そんな飄々として掴みどころのない男と顔を合わせる度に、気遣う必要のない言葉を交わす度に、刺々しかった感情の角が取れていくようで、なまえはいつの間にか自分自身にも疑問を抱くようになった。
「はあ?買いもんだと?」
「……はい、少し必要なものがあって」
「なんだよ、ウチのもんに行かせりゃいいだろ」
「その、たまには息抜きも兼ねて、」
息抜き、ねぇ。と渋った顔をして見せる佐川は灰皿に置いていた煙草を咥え、吸い込んだ煙を悪びれもせずに吐き出すとたった一言、駄目だと言い放った。何故かを問えば、何を考えてるかは知らねぇがお前一人で外に出すわけには行かねえな。と一蹴され、なまえはそれ以上何も言わずに口を噤んだ。すると、わざとらしいため息が聞こえ、視線を佐川に合わせれば、お前さあ……。と心底面倒くさそうな顔でこちらを見ていた。
「一人じゃ出さねえっつっただけだろうが、」
「……一人じゃなければいいってこと、ですか」
「一応、お前は俺が預かってるからな。それを知って良からぬ事を考えてる奴なんざ、どこにでもいるんだよ」
だから、行きたきゃ行け。なあに、荷物持ちがつくってだけの話だよ。そう悪く捉えるなって。佐川が薄く笑う。胸のつっかえが取れたような気がしたのと同時に、佐川のあの笑みを目の当たりにしても嫌悪を感じなくなっている自分がいた。感化されている、あまり否定は出来なかった。もしかしたら自分は思っている以上にあの男の傍に居てしまったのかもしれない。
***
「親父から話は聞いてます」
翌日、自分の元を訪ねた男は開口一番にそう言った。身なりを気遣えとでも言われたのか、裏社会に属する人間にしてはとても簡素で質素な服装で玄関に佇んでいた。なまえも家に上げるまでは部屋を間違えたのではないかと思うほどに、その男は表社会の人間に上手く擬態していた。
「……すみません、わがままを」
「いえ、これも親父のためですから」
違和感を覚える程に丁寧な敬語が耳の奥に突き刺さる。本来ならば敬語で話すような相手でもないだろうに、自分の特殊な立ち位置のせいで彼にも苦労をかけていると思うと気分は落ち込んで行った。変わってしまったのだ、たった一ヶ月の間に何もかもが変わってしまった。やり場のない怒りを抱いていた相手に絆されている自分、その男の子分である男が親の為にと自分に付き添う現実、そして自由もなければ不自由もない部屋。
「さあ、行きましょう」
下に車を回してあります。とお世辞にも人肌の優しさを感じられない事務的な気遣いに頭を下げ、部屋を出た。するり、とマンションの通路に出てみれば、真っ先に淡い空が目に飛び込んでくる。ここから街の景色を見るのは初めてだと、足を止めて見とれていた。すると、自分の名を呼ぶ声に首輪を引かれた気がして、なまえは目の前の景色から目を逸らし、男の後をついて行った。
エレベーターを使い、一階のエントランスまで降りて来ると、真っ先に入口に停まっている一台の車に目を奪われた。あれが男の言っていた車なのだろうとなまえは決して軽いとは言えない足取りで車へと向かっていく。自分の為にと用意されたマンションには似合わないスニーカーが足元のタイルを踏み締める。もっと洒落たもんの一つや二つ買っとけと佐川には言われたが、かつての自分の名残と言うようにこのカジュアルな服装だけは変えずにいた。おかげで部屋にある食器類やインテリアとの見た目の相性は悪い。
なまえがエントランスホールを出たところで車の運転席に座っていた別の男が車を降り、慣れた振る舞いで後部座席のドアを開けた。どうぞ。とまた形式ばった敬語に促され、なまえはそのまま車内に乗り込む。何とも言えない気持ちに襲われた。もうこの足で近所の店に立ち寄ることは出来ないだろう。自由気ままに一人きりで街を歩くこともないだろう。つま先を礼儀正しく合わせ、頼りなさげな手元を見つめては上手に時間をやり過ごせない自分にため息を吐きたかった。
しばらくはぼんやりと探し物をしていた。シートにもたれ掛かり、窓の向こうをするすると流れていく景色を眺めては都合のいい探し物を見つけようとしていた。例えば今の心境を上手く表せるもの、あの男との間に起きた変化の名前、自分の行動の理由。どれも答えを見つけていないものばかりだ。だから、何となしに見つめていた窓の向こうの男女に目を奪われたのが意外でならない。
それは仲睦まじく隣合って歩いていく二人。蒼天堀の昼間は飾り気のない質素な印象を抱かせる。そのような街並みの中で何故、あの二人を見つけてしまったのか。赤信号で動かない車中から二人を見守れば、不意に女の方が屈託のない笑みで男を見やった。その瞬間、なまえは胸の奥に小さく突き刺さる痛みを覚えた。
本当は一人で出歩けない不自由を嘆いている訳じゃない。本当はあの男の傍にいた時間を恨んでいる訳じゃない。本当は。ただ、大切にされていることが辛かった。あの日々は自分を捨てた肉親より借金取りのヤクザの方に気持ちが傾いてしまうのが目に見えて分かる、そんな毎日だった。だから、あの日の怒りを忘れないよう火種は消さずに持っていた。だからこそ、いつでも突き放される覚悟で過ごしていた、と。
「もう、じきに着きます」
「……ありがとうございます」
長い迷いから引き離されるように、車中の男の声が耳に届く。持ち出した鞄から粗末なメモ用紙を取り出し、畳まれたメモに綴られているのは全て必要なものばかり。自分の抱えている感情の名前がまだ見つけられない女は今夜、その名をあの男に尋ねようと考えている。