昼間に買い出しを済ませたなまえは佐川に無理やり約束のようなものを取り付けた。初めは佐川も驚いていたが、わかったよ。行けたら行く。とのらりくらりと躱すような返事を残し、結果として約束通りにこの部屋へとやって来た。

「珍しく誘われて来てみりゃあ、これか。はは、随分手の込んだことしたな」

 佐川の何気ない一言に鼓動が嫌な高鳴り方をする。なまえが佐川の元で過ごしているものの、表情から感情を読み取れるほど近い場所にいた訳ではなかった。だから、今の佐川が自分の並べた食器に何を考えているのか分からない。

「……迷惑、でしたか」
「いいや、この間のことを考えててよ。ほら、お前が外に買い出しに行きてえって言ってた話」
「ええ、」
「そういうことか。なまえも俺の女らしくなってきたじゃないの」

 なんてな、こう言うと確かお前は怒るんだったっけ。わりぃな、冗談だよ。と普段から目にする佐川の軽薄な笑みに何も言えず押し黙っていた。今、この時をもって遂に自分の中で燻っていた火種が消えてしまったのだと知り、なまえは浮かない表情で男を見た。答え合わせをするように、一つずつ問いかける。問い、答え、問い、溜息、問い。今夜の気まぐれは恋慕の一端で、心変わりした自分を責めることはせず、並べた品はどれも口に合うと全ての問いに当てはまる答えを返された。そして、最後の一つを佐川に委ねる。

「どうして、ここに置いてくれるんですか」

 佐川はなまえの最後の問いに意外と言う顔はしなかった。ただ軽く眉間に皺を寄せ、懐から愛飲している煙草を取り出し、何気なく口に咥えた。そりゃあ最もな質問だな。ま、お前にとっては一番気になるところだからな。と寂しげな一本に火を灯し、まずは軽く吸い込んだ。

「そりゃあ、お前、あれだよ。可哀想なヤツがいたら助けてやりたい性分なの、俺は」

 まるで煙に巻くかのような言葉になまえは両手をきつく握り締め、もう一度問いかけた。自分は借金に首が回らなくなった家の娘だと。いつどこかに売り払われてもおかしくない事は承知しているつもりで、そうであるなら早々に終わらせてしまいたいのだと。胸に刺さったガラス片を吐き出せないでいる状態が酷く苦しかった。もう他人面した『可哀想』という言葉に胸を深く切られたくなかった。

「お前はさ、よく似てんだよ。俺がガキの頃に大事にしてたものに」

 それが何かは聞かないでいると、佐川はひとりでに語り出す。『それ』は初めて出会った時のなまえによく似ていたこと。ボロボロに打ち捨てられながらも警戒を解かず、寧ろこちらに牙を剥くような態度も、よく似ていたそうだ。そして佐川自身も過去をやり直すかのように、なまえを自分の手元に置き、また飛び立てるようにしてやろうと。佐川が自分に過去の何かを重ねて見ていると知り、余計にガラス片が胸の奥に突き刺さったように感じていた。

「懐かれるのは悪い気はしねぇよ。俺もそういう風に仕向けてたからな」
「もし、私が懐く以上の感情を抱いてしまったら、」

 佐川さんはどう思いますか。
 なまえは初めて佐川のことを名前で呼んだ。ぎこちない呼び方に、自分の不安定さが垣間見える。生きている限り、何度でも人の心は変わっていくと知ったつもりでいた。だが、それでも聞かずにはいられなかった。自分が佐川に抱く感情は許しがたく、しかし、抗いようもなく、どうしようもないもので、これを『恋慕』と呼んでいいのか。なまえはこの日まで考え続けていた。答えが見えず、迷い込んだ長いトンネルを抜けられずにいる自分が向かうべき場所を知りたい一心で。

「まあ、お前が俺のことをどう思っていようが構わねえ。それらしく振舞おうが、小綺麗に着飾ろうが、何だって勝手にすりゃあいい」

 吸い込んだ煙を浅く吐き出し、この時ばかりは軽薄な笑みすら浮かべずに両目を捉えて離さなかった。二口目を口にする寸前で、佐川はたった一つだけなまえに対して深く釘を刺す。

「でも、勘違いすんなよ。俺の元にいる限り、お前は一生花嫁衣裳なんてもんは着れねぇんだ」

 至極真っ当な言い分だった。ヤクザの女が大手を振って街を闊歩出来るものか。ヤクザの女が大っぴらに花嫁衣裳に身を包めるものか。当たり前の常識はことごとく奪われるもので、今自分はその岐路に立たされている。引き返すなら今なのだろう。手を切るなら今なのだろう。だが、なまえの心は決まっていた。次に何を言うべきなのかさえも。


***


「それでなまえさんはアイツの」
「その日から今のような生活が始まりました。人生、何が起こるかわからないですね」

 真島は、佐川の刺した釘について居た堪れない感情を抱いていた。何故なら、世の中のヤクザは皆、佐川のような人間ばかりではないからだ。中には当然のように婚姻関係を結ぶ者もおり、実際にそのような話を何度か耳にすることもあった。だからこそ、あの男がなまえに設けた制約に真島は何も言えなかった。

「ごめんなさい。こんなに長々と」
「いや、ええんや。そもそも俺が聞きたい言うた話や」
「多分、初めてです。司さんとの馴れ初めを誰かに話すの」
「まあ、やたら滅多には言えん話やろな」
「私が真島さんに話したこと、内緒ですよ。特に司さんには」
「……口が裂けても言えんわ、そないなこと」

 また足先を掠めるようにカーテンが風に靡く。もう強い風は吹いておらず、日中の青みがかった光の中をゆらゆらと泳いでいる。佐川はこの窓辺の居心地の良さを知っているのだろうか。彼女が床に座って内緒話をするのが好きなことも。本当は何も知らないんじゃないかと口を突いて出そうになった言葉を飲み込み、青白いカーテンが静かに舞うのを二人揃って黙って見つめていた。時折、戯れを口にしながら、ヤクザの女とヤクザの犬は同じ時を過ごしたのである。