「よう、そんな驚いた顔すんなよ」
「まさか、司さんが来るとは思ってなくて」
上記の言葉通り、この日は佐川がなまえの部屋を訪れた。てっきり真島がいつものように顔を見せに来たのだと思っていた矢先に、嬉しい来客である。しかし、付き合いの長いなまえは滅多にやって来ることのない佐川の来訪に、どこか不穏な予感を感じていた。何かの前触れ、という訳ではないが、それに似た何かである。
「今日はまたどうして」
「どうせ真島ちゃんだと思ったんだろ?最近、仲が良いもんなぁ」
「真島さんに私を押し付けてたからでしょう」
「ったく、それは悪かったよ。俺もここんとこ立て込んでてな、自由な時間ってのがねぇんだ」
「分かってます。承知の上ですから」
「会う度にお前はいい女だって思っちまう。俺も若くねぇのにな」
それで、今日はどうしたんですか。と本当の話が聞きたくて先手を取れば、はは、と乾いた笑いの後に仕事が忙しくなると手短に伝えられた。それはいつものことだと返したが、どうやらその『いつも』とは違うらしい。こういう時、何故妙な胸騒ぎを覚えたり、不穏な気配を感じてしまうのだろう。なんてことない仕事かもしれないのに。と頼りない自分を奥に隠し、いつまでを問うても佐川ははっきりとは答えなかった。いや、答えられなかった。
「真島ちゃんも暫くは忙しくなるかもな」
「真島さんも?一緒にお仕事を?」
「まあ、そんなとこだな。お前はあんまり深く首を突っ込むんじゃねえ」
疎外感を感じずにはいられなかった。恨み言の一つでも叩きつけてやろうかと思ったのだが、それよりも佐川の飄々とした顔がいつにも増して真剣だったから、なまえは口を噤み、隣に寄り添うことしか出来なかった。首を突っ込むなという言葉の裏の意味は分かる。仕事が忙しくなると伝えに来た意味だって分かる。しかし、胸を過ぎる良くない何かは立ち去ってくれない。
「なんだよ、そんな不安そうな顔してくれちゃって」
「このお仕事が落ち着いたら、私またあそこのおでん食べたいです」
「そうだな、連れてってやるよ」
一つ約束を取り付けて、無理やり暗雲を立ち退かせる。これで何か変わったかと聞かれれば、そうではないが、たった一つの約束があればなまえはいつでもどんな時でも待つことが出来た。それは過去にも仕事が落ち着いた頃に佐川が約束を果たしてくれたことが何度もあったからだ。だから、今度も大丈夫。きっとまたすごく時間が経った頃にまたこうやって顔を出しに来るだろう。そして、その時にはこの約束を叶えてもらうつもりだ。
その日の佐川は帰りを渋るかのようになまえの部屋に留まり続けた。共に酒を嗜み、よく話し、料理を摘んでは時折煙草を吹かす。なまえにとっては滅多にない嬉しいひと時でもあった。自分の傍に自分の慕う男がいて、誰の邪魔もなく二人きりで過ごせているのは、何物にも変え難い幸福そのものだった。なまえもこの日はいつも以上に佐川に寄り添っていた。また明日から佐川が仕事に専念して、無事に帰ってこられるようにと祈って。
***
その数日後、なまえの部屋を訪ねてきた真島にも同様の話を打ち明けられた。暫くは忙しくなるから、ここに来ることが難しくなると。なまえは事前に佐川からそう聞かされていたと告げれば、真島は神妙な顔で、そうかと呟いた。真島の小難しい顔ならなまえは幾度となく見てきたはずが、何故だか今の真島がしてみせた顔がまるで別人のそれに見えてしまい、佐川の時にも感じていた嫌なものを思い出してしまった。
「ねえ、真島さん。司さんと真島さんは無事に帰ってきてくれるんですよね……?」
ああ。と答えてくれない沈黙が恨めしい。何故? 何を探しに行く? 何を求めている? 何故、生きて帰れるかどうかも分からないと伝わってくるのだろう? どうして言葉にはしないくせに、表情はそう物語るのか?
次を問うことはしなかった。ただその代わりに穏やかな気持ちで、待ってますからね。と真島の目を見た。曇って見える瞳の奥にある良からぬ何かに抗うように。
「寂しくなりますね、また暫くはひとりきりですから」
「すまん」
「ううん、責めている訳じゃなくて」
やっぱり行ってほしくないなあって。
今まで何度も押し殺したことのある思いが自然に吐き出された。今回もなまえは口に封をするつもりだった。しかし、口を塞ごうとした手をすり抜け、待つ側の人間でありながらその頼りなさを露呈してしまったのだ。こんな悔しく、こんな切なく、こんなにやるせないことはない。
「今の、忘れてください」
「佐川はんには言うたんか」
「待ってますからね、ここで」
真島の問いに答えられるような立派な行動は、とれていない。今までは軽く笑い合えていた会話が笑い飛ばせない。今回の件はそれほどまでに危うく、良からぬ可能性を孕んでいるのだろう。多くを語らなくとも、覚悟を決めた相手は目を見ればわかる。だが、それを見抜いた時、いつも思う。何が愛なのか。どうすべきが正解か。独り善がりとの違いとは。しかし、もう慣れた。慣れたのだ。理不尽に突きつけられる現実に。隠す術も、慣れた素振りをすることだって出来るようになった。ただその代わりに、本心をさらけ出せなくはなったと思う。
真島の物言わぬ瞳が慣れたフリをする自分の哀れさに深く鋭く突き刺さっている。