佐川と真島はまだしばらくこの大阪の地で仕事をこなすらしい。忙しい忙しいと言いながらも仕事の合間にはちょくちょく顔を見せてくれた。長くはいられないが、それだけでもなまえにとっては嬉しい出来事だった。しかし、顔を見せに来るのは佐川だけで、以前のように通ってくれていた真島はあの日から全く会っていない。佐川は、ここが正念場だからな、死にものぐるいってやつだよ。と軽薄な笑みでそう言っていた。なまえも真島という男の全てを知っているわけではない。だが、佐川の口から『死にものぐるい』などと聞いてしまうと、彼の中にも計り知れない飢えがあるのだと知った。
それから日が経つにつれ、遂には佐川も顔を出さなくなった。いつかはこうなるだろうとは覚悟していたが、いざ実際に音沙汰無しとなると少しだけ辛い心情がある。要するに弱くなってしまったのだ。真島と出会い、顔を合わせる度に独りに強かった自分が弱くなっていった。相変わらず、この部屋は広い。広過ぎる。二人で住むのが妥当だろうに。佐川は未だに自分が窓際に座る姿を見ていないし、真島も独りに弱くなった自分を知らない。別に構わない、知らなくったって。こんな内情を拗らせた姿なんて知られたくない。だけど、せめて日に日に増していく嫌な緊張感だけは薄らいでいってほしい。隠し切れない、徐々に迫ってくる。ピンと張り詰めた糸がよりきつく切羽詰まっていくかのように強ばるのが恐ろしいのだ。いつかその糸は切れてしまうと分かっているから、独りの現状に怯えているのだろう。そして、予感は必然的に逢瀬の夜を連れて来た。
「……どうしたんです?こんな夜遅くに、」
「はは、わりぃな。今の時間しか顔出してやれなくてな、少し都合してくれ」
「かまいませんけど、一体何が、」
「単刀直入に言うと、近々ここを離れることになってな」
「……それは今のお仕事絡みですか」
「なんだ、よく分かってんじゃん」
ま、早くて明後日か。勿論、アイツも連れてくんだけどさ。佐川はまともに部屋の明かりをつけず、夜の薄暗がりのベッドに腰掛けると、すぐに懐を漁った。口が恋しいのだろう、そんなに煙が恋しいのなら ────。
「やめとけ」
いつだって献身を捧げるつもりなのに。佐川のたった一言に釘を刺され、切なさが込み上げてくる。濡れた唇が乾いていく。どうして許してくれないのだろう。どうして傍に置くことだけしか与えられないのだろう。どうしてこの目を見てくれないのだろう。
「自分を安売りしてもいいことなんざ、何もねえよ」
「……私を置いて、知らない土地へ行ってしまうくせに」
「へぇ、言うじゃないの。なんか久しぶりだな、ここに来た頃のことを思い出すよ」
するりと躱して逃げていく男に女は泣きたくなった。佐川の傍で暮らすようになってから、身体を汚されることは今まで一度もなかった。大切にされていると頭では分かっているが、いつまでこのまま綺麗な関係なのだろうと考える時もあった。花嫁衣装はとっくに諦めた。同意の上だ。なのに、どうしていつでも綺麗に別れられる状態を続けているのか。密かに瞼が震える。
「安売りなんかじゃありません」
「俺はお前とそうなりたいなんて思っちゃいねぇよ」
「いつもなら、二つ返事で我儘聞いてくれるじゃないですか」
「これだけは聞けねぇな」
震える指先で、一つずつ服を脱いでいった。もしかしたら、気が変わるかもしれないと軽率な考えで。今にも涙は零れ落ちそうだ。許されないと言い切られてしまったことで、胸の奥にある何かが傷付いている。憐れで惨めでどうしようもないと。たった一度で良いから、と聞き分けのない幼稚な自分が衣服を脱ぎ捨てていく。
「……じゃあよ、もし俺が路頭に迷うことがあったら、お前」
──── 今みたいに俺を迎え入れてくれるか?
いつもと変わらぬ不敵な笑みでそう言った。何を考えているかなど分かりもしないが、ただ一つだけ悟ったのは、最近感じていた嫌な緊張感は気のせいでは無かったということ。睫毛が人知れず切なく揺れた。何故、こんな時に限ってそんな大切な、当たり前のことを口にするのかと咎めたくなるほどに。何も纏わぬ姿で佐川の胸に転がり込む。行かなければならない男に縋りついたのは、これが初めてだった。
「さ、時間だ」
「司さ、」
お前にゃあ似合わねぇよ、ヤクザもんに縋り付くような真似は。
先程まで自分を抱き止めてくれたヤクザは最後にそう言い残し、温もりの薄れていくベッドにこの身体を置き去りにしていった。追いかける気力もなかった。あまりにもはっきりと手綱を切られたのが目に見えて分かったからだ。ひとりきり、真夜中に取り残された女は自分の身体をどうするでもなく、そのままベッドに腰掛けたまま、睫毛を震わせていた。