最近はよく蛇柄の背中を思い返す事が多くなっていた。
この間からそれは意図しない場面で、頭の中に浮かんでは消えてを繰り返している。
他にも思う事はたくさんある筈なのに、その後ろ姿だけが真っ先に浮かんでくるのだ。
大きな蛇柄の背中、眼帯で覆われた左目と並ぶ右目の輝き、そして怖いくらいに砕けた笑顔。
どれも全て、真島のものであると気付くのは、いつも悩ましく溜息を浮かべた後だった。
そして、その後に胸元がどきりとざわつき始める。
もういつもの事だとなまえは、それを素直に受け入れていた。
あの日、助けてもらったあの日から、ずっと心のどこか、もしくは頭のどこかに真島の事を置いていたのだから。
好意的であるか、そう尋ねられたなら、なまえは頭を縦に振るだろう。
しかし、その『好意的』とはどの種類のものか、と尋ねられたなら、なまえはその返事に詰まってしまうだろう。
分からなかった、もっと詳しく言うならば、なまえはその答えを見つけられていない。
助けてもらった恩がある、それに私情を挟んではいない。
けれど、あの日、町で再会した真島に連絡先を渡した時、その別れ際には確かに寂しさを感じていたのだ。
まだ真島からは連絡は来ていない、それでもまだ待ち続けられるくらいには余裕がある。
きっと答えはまだ見つからないだろう。
探し悩んでいる内に真島から連絡は来てしまうだろうし、何より一人で悩んでいても、電話なりメールなり来てしまえば、それに釣られて、悩んでいた事さえ忘れてしまう。
彼は、真島は、同じ様に悩んだりするのだろうか。
そこまで考えた所で、なまえは思考を停止させた。
これじゃあずっとこのままだと、無理矢理にでも頭の中身を変える必要があった。
今は分からない、けれど、これからその答えを見つけられればいい。
例え見つからなくても、真島への恩は忘れないし、変わらない。
もし見つけてしまったなら、その時また考え、悩めばいい、とくしゃくしゃに丸めた紙くずの様に面倒なそれを投げ捨てた。
今日も真島から連絡が来る事は無かった。
***
たった一枚の紙切れをただ見つめていた。
くしゃくしゃな紙切れの真ん中には、走り書きで記された英数字が羅列されており、あの時どれだけ本人が焦っていたのか想像するだけで自然と口角が上がっていく。
食事の後で苦しかっただろうに、この紙切れ一枚を渡そうと雑多な人混みの中を自分を探して走って来るとは。
彼女は何を思って、自分の元へやって来てくれたのだろうか。
バッティングセンターで感じた、心を奪われそうになった感覚が迫って来る。
肩を上下させる程に息を切らし、呼吸を整えるよりも先に差し出したこの紙を、真島はあの日から大事そうに懐へとしまっては、ふとした時に眺めての繰り返しだった。
「連絡、待ってくれとんのやろなァ…。」
何度も眺める度に同じ言葉を呟く、ここ最近はまるで日課のようにこのような事をしている。
きっと彼女からすれば今すぐにでも連絡を貰いたい筈だ、しかし、真島は文字列を眺めるだけで、そこから先へは手を動かさなかった。
いつも意欲が削がれてしまう、まだ彼女は自分の正体を知らない。
たったそれだけでまた今日も彼女を待ち惚けにさせてしまう。
『そんな事ありません、真島さんは私を助けてくれました。そんな人を怖いと思う訳ないです。』
『私、本当は真島さんの事、映画に出て来る様な怖い人かもって思ってたんです。』
彼女の言葉が再生される、喫茶店で交わした言葉だ。
助けて貰った恩があるからこそ、怖がらずに自分と接していてくれている。
けれど、正体を誤魔化した後に口にした言葉が本心だったのかもしれない。
どちらも彼女の言葉で、どちらも彼女の声で繰り返される。
こう言った事は面倒だと知っていながら、真島はどこか心の置き場を他に見つけていた様に思う。
悩んで迷って決着がつけられずにいる、真島が最も嫌悪する状況だ。
「いけるとこまでいって、駄目なら、そこですっぱりと終わりにすればええんや。」
不意に口から出ていった言葉に真島は目を丸くした。
その言葉が腑に落ちる、何も後腐れなく真島を納得させる程にそれは今必要としていたものだった。
しかし、バツが悪いと言った顔で後頭部を掻く。
答えが出ていない様に振舞っていた自分に羞恥を覚えた。
本当はどうすべきなのか分かっていながら、いつまでも悩んだ振りをした、ただの時間稼ぎだったのだ。
それは真島の好きな喧嘩でも同じ事だった。
中途半端にだらだらと続ける喧嘩に意味は無い、持てる力全てを出し惜しみせず、余す事なく相手にぶつけ合う。
それは殺気であろうと何であろうと、相手に伝わる事も知っている。
例え土壇場で危機に見舞われようとも、そこでどう切り抜けるかを考え行動する愉しさも同様に経験している。
真島の眼光が鋭くなった。
躊躇いも迷いも何もかも吹っ切れた様な表情で、手の内にあった紙と並べる様に携帯を取り出す。
そして、慣れない手つきでその英数字を一文字ずつ打ち込んで行った。
『お姉ちゃん』と登録してある電話帳の項目が新たに埋まる。
電話番号とメールアドレス、そして初めて知った彼女の名前も入力しておく。
『連絡が来るん、楽しみに待っててや。』
そう告げておきながら、随分と彼女の事を待たせてしまった。
もしかしたら怒っているかもしれない、だが、彼女のそんな表情や仕草が想像出来ずにいた。
この初めて送るメールで、たった一通のメールで、彼女は、なまえは嬉しそうな顔をしてくれる、そんな気がした。
それでも真島の指先はまだ言葉を打ち出せなかった。
待たせた事を詫びる文章が浮かぶ、しかし、それだけをだらだらと綴るくらいなら、町で声を掛けるように軽い内容が良い、とようやく指が言葉を打ち込み始める。
「こんなんでええやろ、これくらいの方がお姉ちゃんもすぐ返事くれる筈や。」
"元気しとるか?お姉ちゃん。"
それだけ並べたメール画面を見て、静かにボタンを押し込む。
送信完了と表示が出て、真島はそこで胸の靄が少し晴れたような気がしている。
すぐ返事が欲しい訳じゃない、ただまだ彼女と接していられる口実が欲しかった。
大きく溜息を吐きながら、背伸びをする。
体に蓄積された疲労が一瞬だけ消え、リセットされたような感覚を残して、真島は懐から煙草を取り出しては一本咥えた。
擦れた音の後に焦げた匂いが広がっていく。
煙を吸い込み、数秒呼吸を止め、脱力する様にそれを空気に帰す。
俺みたいなモンでも好いてくれるやろか、俺はええ感じや思うとるが…、と軽くなった頭でぼんやりと考えていると、一つ思い出す事があった。
あ、と一人で呟いた後に、左頬を撫でる。
ついこの間、私怨を抱えた男に殴打されてそのままになっていた箇所だ。
傷は癒えたが、気分の晴れない頬をしばらく撫で、また煙を吐く。
お姉ちゃんはまたちゅうしてくれるやろか…と溜息混じりに煙を逃がしてはまた深く吸い込んだ。