急遽、仕事を抜けてなまえのマンションに来いと連絡が入った。ただならぬ何かを感じさせる声音に、嫌な汗が流れた。嫌な予感と共に脳裏を過ぎったのは、寂しいとこぼした時の彼女の顔だった。自分と同じように満たされず、不自由でいることを選んだ彼女を真島は気にかけていた。喧しく革靴の底がアスファルトを踏み付け、駆けていく。疲労がもどかしく足元に絡みついてきても構わず、真島は凍てつく冬の路地を走り続けた。
かつて足繁く通った彼女の部屋の扉は、酷く余所余所しい景観で夜の中で佇んでいる。辺りに佐川の姿はなく、いた形跡すらない。真島はドアノブに手をかけた。すんなりと開いた扉に嫌な予感は大きくなっていく。部屋は静寂に包まれ、玄関先に男物の靴はない。静かであることに警戒を抱きながら彼女の姿を探せば、それはシーツの海辺に腰掛けていた。何も纏っていないその背は小さく丸まっており、僅かに震えているようだった。
息を呑む。何があったのかを察するに余りある状況だったからだ。淡白な月光に染まる背中に近づいて行った。何があったのかを問うよりも先に、真島は自分のジャケットを脱ぐとまっさらな彼女の背中にそっと掛けてやる。
「……そないな格好、身体に毒や」
俯き、下に流れている髪の隙間から硝子玉がこちらを見た。何故を口にせず、海辺の女は真島を黙って見つめていた。その隣に腰を下ろせば、次第に女は声を振り絞って一人語り始める。
「また、司さんのお願いですか」
「せやったら、なんやねん」
「……やっぱり私じゃだめだったんでしょうね」
「佐川はんとなんかあったんか」
「振られちゃいました、わたし」
ぞっとするほど、柔らかな笑みをしてみせた女は佐川とのやり取りについて語り、常に笑顔を絶やさなかった。しかし、それが気に食わなかった。それが逆鱗に触れてしまったのだ。最愛の男に拒まれ、挙句の果てに逃げ場のようなものにあてがわれ、それでも健気に笑っている女の姿に真島は激情を露わにする。
「……なんで笑えんねや」
その声は怒りで震えていた。わなわなと拳を震わせ、手の内には深く爪がくい込んでいる。女は真島の意外な一言に濡れた瞳を丸くさせ、乱れた髪の先にいる真島から目が離せなかった。
「なんでアイツの前で泣かんかったんや、泣きたかったんとちゃうんか!?そないなことまで言われて、」
怒号が静寂の水面を叩き、やがて静かに呑まれていく。
「俺はそんな女を間近で見んのも、自分の女にそうさせとるアイツも気に食わんのじゃ!」
静寂を激情で塗り替えていく真島に女は、なまえは何も言えなかった。ただ唇を震わせ、息を詰まらせ、震える頬に涙が一筋伝って落ちていった。縋り付けず、行き場のない感情を抱えていた自分を叱責した真島に涙が溢れて止まらない。その泣き顔を隠すように真島はなまえの頭を胸元に寄せ、シャツが濡れるのもお構いなしに涙を受け止め続けた。
自分と同じく縛られていながら、檻を抜け出そうと手を伸ばし、その手を払われたなまえを庇わずにはいられなかった。払われた手の痛みを真島が一番よく分かっていたからだ。この痛みを理解出来るものなど存在しないだろう。この街だけでなく、この部屋さえも自分達にとっては粗末な檻に変わりないのだから。
***
頼りない背中をしたなまえはようやく顔を上げて話すようになった。胸元に抱き止めてから数十分後のことである。濡れた睫毛のまま、なまえは真島の顔を見上げ、ありがとうと口にした。
「……ごめんなさい、面倒なことに巻き込んでしまって」
「気にせんでええ、俺が来たくて来たんや」
「真島さんにああ言ってもらえてよかった」
「そうか」
「泣いたのいつぶりだろう、もう何年もそうしたことなかったから」
真島のくたびれたジャケットを羽織った女は素直に笑って見せた。そして何を思ったかベッドから立ち上がると、真島の正面に立ち、今度は彼女が真島をその胸に抱き寄せた。真島はそれを拒むことはせず、黙ってなまえの胸の内にいた。
「……きっと真島さんも同じなんでしょう?過去に何があったのかはわからないけど、きっと私と同じ」
胸に大きな穴があいている。
決して満たされず、満たそうにもそれを許されない。大切な何かを奪われて、そのままでただ生かされている。与えられない日々を与えられて。
なまえの言葉に真島は驚きを隠せなかった。今の今まで彼女は盲目的だと、無知であると思っていた。だが、そうではなく、彼女は最初から知った上でこの現状を選んだのだと知らされ、酷く心が揺さぶられている。
「今日は本当に来てくれてありがとう。あなたが来てくれなかったら、」
″ ずっと胸に穴があいたままだった ″
真島は目を閉じ、女の言葉と胸の鼓動を聞いていた。自然とその背に手を回し、もう少しだけこのままでいたいと告げるように抱き寄せる。女も何かを悟ったように、真島の頼りない腕を許していた。今日ほど夜が長いと思ったことはなかった。しかし、本当に首輪が外された時、自分はどうなってしまうのだろう。それはきっと遠くない未来にあるような気がして、女は切なさに震えていた。