最低限の疲労を連れて部屋を後にした。互いに果てた体は温かなシャワーで洗い流し、温もりの冷めない内に別れを告げた。彼女の感触は今も尚、体の至るところに余韻として残り続けている。それは恐らく彼女も同じ筈だ。背徳感はあっという間に湧いて出た。自分に鎖と檻を用意した相手の女を抱いたのだ。決して無事で居られるはずがない、そんなことは彼女の腕を掴んだ時から分かっていたはずだ。言うべき言葉も取るべき誠意も考えるまでもなく、答えとして真島の中に出ていた。


「よぉ、真島ちゃん」

 煙草の匂いが鼻を掠めた。嫌という程に聞きなれた声に心拍数が上がっていく。部屋を出てすぐ、マンションの通路にその男は立っていた。手には愛飲している煙草を引っ掛け、いつも通りの顔で、装いでそこに立っていた。真島は何から口にすべきか、黙ったまま考え込んでいた。ただひとつ言えるのは、押し黙ったままではいられないということだけだ。

「アイツ、本当にいい女だよな。な、真島ちゃんもそう思うだろ?」

 佐川の言葉が隻眼に彼女の姿を映し出した。切ないと体を震わせて泣いている女の背中が青白く甦る。彼女に触れた指先を強く握り締め、佐川の言葉を聞いていた。ぷかぷかと煙草の煙が綿菓子のように空中を漂い、ゆっくりと消えていく。冬の冷たい空気が沈黙の中、温もりの残る体に突き刺さる。佐川も佐川でまだ本題について話す気はないらしく、その長ったらしい余裕に真島は耐えられなかった。

「他に聞きたいことがあるんちゃうんか」
「あ、なんだよ。イラついてんのか?らしくねぇなあ、真島ちゃん」
「そない余裕なんか、佐川はんは」
「そう、急かすなよ。何を話すかなんて、最初から分かってんだろ?お前だって」

 また一口、煙草の煙を吸い込む。その姿に真島は怒りを昂らせていた。彼女のことを思うと、嫌という程に怒りが湧いて出て来る。あんな粗末に放っておいて、彼女が別の男に抱かれても全く顔色一つ変えない男に、真島は底知れぬ怒りを抱いていたのだ。ったく、仕方ねえなあ。とようやく佐川も重い腰を上げ、煙草の火を靴底でねじ消した。

「なあに、別に怒っちゃいねえよ」
「なまえは自分の女やないんか」
「ああ、そうだよ。俺の女だよ」

 不貞を働いた男が目の前にいると言うのに、佐川の態度は一貫していつもと変わらなかった。なまえの名を口にしても表情は変わらず、咎められるどころか、ただの世間話をしているかと思うくらいに他人事のような口ぶりなのだ。それが余計に真島の怒りに油を注いでいた。

「佐川はんはアイツのこと、どう思っとるんや」
「どうも何もねえよ。なまえはなまえだろ」
「なら、何であの子を突き放したんや」
「それは真島ちゃんには関係ねえ話だ。まあ、でも、真島ちゃんがアイツを欲しいっつうならくれてやるよ」

 この一言に真島は語気を強めざるを得なかった。佐川にとって、彼女の存在は特別なものだと思い込んでいた。でなければ、自分の女だと口にしないと。しかし、ただ彼女を消費するだけの扱いに真島は我慢ならなかった。今にも割れそうな程に青く濡れた、彼女の瞳を知っていたからだ。本来ならば、真島が知ることのなかった瞳を。

「あァ?アンタ、自分が何言うとるか分かっとるんか」
「抱いたんだろ?アイツのこと」
「…………せや」
「だったら、それなりに腹括ってもらわねえとなあ。……そうだろ、真島ちゃん」

 途端に佐川から発せられる雰囲気が様変わりしていた。初めはいつもと何ら変わらないものだったそれが、今では喉頭を押し潰すかのように重たく圧迫するものに変わってしまった。張り詰めた静寂に口を噤んでいると、佐川も真島の様子に何を思ったのか再び口を開いた。

「なあ、言ったろ?別に怒っちゃいねえって。浮気を咎めてケジメとってもらおうなんざ、考えてねえよ」
「……それが俺には分からん。自分の女、放ったらかしで平気な佐川はんの気ィが知れんわ」
「俺はさ、真島ちゃんの弱みが握れて嬉しいってだけだよ」
「弱み、やと?たったそれだけの為に佐川はんは、アイツのこと飼い殺しにしとった言うんか」
「そんなわけねぇだろ」
「ぞんざいに扱うんやったら、あの子のこともう解放したれや」

 真島ちゃんさあ、なんか勘違いしてない?
 今、この瞬間、真島の喉元に鋭い刃先を宛てがわれた。下手なことを言おうものなら、即座に真横に引かれるであろう、そう思わせる状況下で佐川は至って落ち着いた口調でなまえについて話し始めた。まるで過去を懐かしむようにそれは告げられた。

「あいつは豆太郎と同じだ。どこぞの猫に喰われねえよう、守ってやりたいんだよ。真島ちゃん」

 その名に聞き覚えがあった。かつて幼かった佐川は足の折れた文鳥を家へと連れ帰り、甲斐甲斐しく世話をやっていたのだそうだ。だが、密かに増えた家族を黙っていたせいで、飼い猫に生きたまま喰い殺されたと話していた。だが、真島はその後の結末を知っている。家族として大切にされていたであろう、その飼い猫は佐川の手によって殺されてしまった。
 当の佐川は過去を懐かしんでいるように見せかけて、こちらを鋭く射抜いている。その言葉が意味するのは ──── 。


「俺が、その『猫』やったらどないすんねん」

 あ?と聞き返した佐川はあっけらかんとした顔で答えた。

「そしたら、殺すだけだろ」

 死である。彼女にかつての大切なものを重ねている佐川にとって、真島が彼女を脅かす『猫』であるなら、生かしておく必要が無い。例え、兄弟分である嶋野からの預かり物だろうと、この男はなんの躊躇いもなく息の根を止めにかかるだろう。そして、この時初めて真島は理解した。佐川がなまえに抱いているのは、愛などという薄情なものではなく、底のない一方的な執着心なのだと。

「ま、真島ちゃんなら、どう立ち回ればいいかくらいはわかんだろ」

 じゃあな。と佐川が立ち去って、ようやく真島はまともな呼吸が出来たように感じていた。『飼い猫』は、佐川が手にかけたあの『飼い猫』は、一体どのように殺されたのだろうか。彼女はあの部屋が檻だと思い込んでいるはずだ。だが、そうではなかった。本当の『檻』はあの部屋ではなく、佐川自身だと彼女は知らないのだ。それは今までも、そして、これからも続いていくのかもしれない。