身近に感じていた嫌な予感が遂にこの部屋へやって来た。なまえが佐川と顔を合わせるのは久々のことで、真っ先にあの夜のことが頭を過ぎった。肌が粟立つのと同時に、気安く取り繕えないほどの罪悪感に居心地を悪くしていた。目を真っ直ぐに見つめ返せない。嬉々として彼を迎え入れられない。なんて声をかけたら良いのか分からない。佐川は何も変わっていないといった様子で、なまえはすっかり変わってしまったという様子で。ぎこちなく傍に寄れば、佐川の方から腰に手を回された。どうした?今日は元気ねぇじゃん。と変哲のない言葉が心のいちばん柔らかくて脆い部分に突き刺さる。
「……司さん、私、」
「なんだよ。折角、お前にこうやって会いに来てんのに」
「ごめんなさい。でも、言っておきたいことがあって……」
「わかってるよ。真島ちゃんとのことだろ?」
佐川のその一言になまえは心臓を掴まれた。一瞬の内に疑問符が溢れ出し、二の句を忘れてしまう。何故? どうして? と取り留めのない自問が答えを出せぬまま、心の隙間に落ちていく。しかし、こうも思う。佐川と言う男が、いつだって自分の想像の範疇にいたことがあっただろうか。佐川はいつも、自分よりみょうじなまえを知っており、その周囲のことも掌握している。ならば、佐川があの夜のことを知っていても何らおかしいことは無い。真島の優しさに慣れてしまっていたのだろう。彼の女であるくせに、彼にとって当然のことを見失っていたのだから。
「アイツとのことは忘れてやってもいい」
言葉を失った。確か、佐川へ謝罪の言葉を言うつもりだった。それなのに、佐川の意外な一言になまえは何を言うべきか忘れてしまっていた。忘れてやってもいい。そんな馬鹿な、佐川司はそんなに優しい男ではない。彼が裏で何をやっているのか知っている。自分の組員が何かしくじれば、必ずケジメをつけさせる立場である人間が、自分の女の不貞を許す? 飼い慣らそうとしている野良犬のような男との一夜を忘れてやる? なまえは耳を疑った。
「どういうことですか、司さん」
「どうもこうもねえよ。真島ちゃんとのこと、忘れてやってもいいって言ってんの」
「な、何でですか」
「まあ、俺も反省してんだよ。今までお前のこと、放ったらかしにし過ぎたってな」
どういう風の吹き回しなのだろう。佐川の口からそんな言葉が聞けるとは。なまえは嫌な予感の出処が佐川であると確信した瞬間だった。だが、不貞の話を持ち出したのに、佐川本人は酷く上機嫌に見えた。彼から酒の匂いはしない。腰に回された手はそのままに、佐川はなまえを近くのソファーへと連れて行った。丁度、二人がけのソファーに居た堪れない顔の女と、それとは対照的に上機嫌のヤクザの男がいる。背もたれに体を預けようとも、佐川はなまえの腰に回した手を解きはしなかった。
「確かにあの夜は悪かったよ。お前の善意を無下にしちまった」
「……いえ、そんな」
「だから、真島ちゃんもほっとけなかったんだろうな。アイツ、泣いてる女に弱いからさ」
「さっきの話は、本当なんですか」
なまえはまだ信じられなかった。佐川が何度、そうだと言っても。理由が分からない、見えてこないのだ。例え、佐川が自分に愛着のようなものを持っていたとして、別の男と衝動的に寝た女を許すだろうか。寧ろ、裏切りと解釈し、真島と自分の双方に罰を与えるはずだ。命があればまだ良い方で、最悪死に至る可能性もある。佐川はなまえと視線を合わせると、いつもの薄っぺらな笑みでこう言った。
「お前はさ、あの真島ちゃんが一晩の過ちを犯すほどの女なんだよ」
佐川の目に映る自分は酷く動揺している。まるで徐々に冷水へと沈められるような、静かな恐ろしさが体を蝕んでいく。
「そりゃあ、俺の女だって言ってやりたいだろ」
薄氷を踏み潰すように、自分の中の大切な何かにひびが入った。そこに人間的な感情は一欠片もなく、まるで彼の弱みを握りたいがための存在理由に、なまえは目の前が真っ暗になった。佐川にとって自分とは何だったのだろう。自問自答の果てに正解はない。あるのは、男の言葉に素直に喜べなくなった女の姿だけである。
だったら、尚のこと。表面的な関係の方が佐川にとって都合が良かったのだろう。変に深入りしない、感情移入は以ての外、絆されるなど話にならない。だが、不思議と狡い男だと逆恨みはしなかった。あの日から今まで傍に置いてくれたのは他の誰でもなく、この佐川司だけだ。やっと分かった、やっと思い出した。数年前の自分はそれを承知で、この男の傍にいることを選んだのだ。二度と忘れてくれるな、と過去の自分が今の自分を睨み付けている。心臓が締め付けられるように痛い。
「司さんの女だって思ってるのは私だけだと思ってました」
「ああ?そりゃあ、お前の思い違いだよ」
「そうですね」
あの夜から上手く笑えないでいた。笑おうとする度に罪悪感が込み上げ、すぐに喪失感を連れて来るのだ。もう以前の自分には戻れないと、そう思う度に一人には似合わない部屋の広さを恨めしく感じていた。だが、戻る必要はないのだ。
腰に置かれていた手に自分のものを重ね、やんわりと握ってみれば、隣から熱い視線がこの両目を穿つ。決して逸らさず、笑みを浮かべたまま、見つめ返した後に待っていたのは。僅か数秒ばかりの沈黙だった。生暖かい吐息が千切れ、部屋の空気に溶けていく。目を逸らしていなかった。しかし、唇は重ねられた。
「……どうして、」
「たまにはいいだろ?それにさっきも言ったが、お前のこと放ったらかしにしてたの悪いと思ってんだよ」
「だからって、そんな、突然、」
「お前、真島ちゃんの前でもそう取り乱さなかったよな?」
そこが憎いとこだよなあ、お前の。
大切な何かに亀裂が生じていく。佐川はこの胸にひびを入れただけでなく、真島に塞いでもらった穴をまたこじ開けようとしているのだ。今度は自分にしか穴を塞げないようにして。ぞわりと肌を何かが撫でていった。どうすれば、いいのだろう。今までこんなことは滅多に、いや、一度もなかった。軽い戯れのようなものなら、何度も経験しているが、佐川との口づけはこれが初めてだった。苦々しい風味に事前まで煙草を吸っていたのだろうと思い、余計に感情のやり場に困っていた。
「ま、俺も今が正念場でな。これが片付いたら、そん時はお前の相手してやるよ」
奪われた心臓はまだ佐川の手の内にあるらしい。いとも簡単に操られてしまう。意識を奪われてしまう。根深いものがあるのだろう。執着から愛は生まれたりするのだろうか。期待をして、いいのだろうか。しかし、今になってやっと交わされた口づけに、期待をしてみても良いのかもしれない。そう思えた。
そう思ったくせに、明日東京へと発つ男に不穏な胸の内を打ち明けられずにいる。だから、待ってろ。と触れられた手にすら縋りつくことが出来なかった。