カラの一坪。神室町再開発において、最も重要な一区画を巡る抗争に終止符は打たれた。数多の血が流れ、犠牲を伴い、極道、堅気の人間諸共、巻き込んだその抗争は意外な形で決着がつくこととなった。それを機に真島吾朗が蒼天堀と言う名の檻を抜け出し、神室町を自分の庭としてから数日後。真島の元に訃報が届いた。訃報とは近江連合直参のとある男のことであり、真島は忘れ形見となった彼女のことが頭を過ぎった。訃報を聞いてすぐに真島は神室町を飛び出し、かつての地、蒼天堀へと向かったのだった。


***


 駆け寄った彼女の目を見た時、初めて後悔を覚えた。自分ではなく、別の誰かを求めていた瞳が静かに突き刺さる。瞬きの間に涙がこぼれた。彼女は今、睫毛を濡らして泣いている。自分は入口に立ったまま、涙する彼女の肩を抱き締められずにいた。彼女が求めていたのは真島ではなく、亡くなった佐川司だった。一縷の望みに縋り付いていた彼女の手を解いてしまったのだ。真島は自分のとった行動の軽率さを悔やんでいた。
 彼女は、なまえは初め、身なりの変わった真島のことを認識出来ていなかった。だから、開口一番に佐川の部下の者かと訊ねてきた。しかし、聞き慣れた声と口調に面影を見たのか、なまえは訃報の真偽を残酷にも真島に問い掛けた。気休めになることなど何も無かった。だからこそ、真島は佐川の死が事実であると告げた。すると、……どうして。と漏らし、なまえはその場に泣き崩れたのだった。長い髪が顔を遮り、塞ぎ込む彼女の悲しみがより深いものだと告げているようだった。傍に寄ることさえ、今は許されないと真島はいつまでも立ち尽くしていた。


「中、入るで」

 真島がまともに動けるようになったのは、なまえが泣き崩れてから数分後のことだった。まだ冬の寒さが厳しい季節に、彼女を冷えた廊下に放ったらかしに出来ないと思ってのことだ。正面でしゃがみ込み、なまえの肩に手を添え、ここは冷えるからと何度も呼びかけた。彼女が自分の声に耳を傾けてくれるまで、真島は待つことを選んだ。そして、ようやく顔を上げたなまえの顔を見た瞬間、息を詰まらせた。

「……ずっと、ずっとこうなんです」
「ずっと?」
「きっと次にチャイムを鳴らす人が司さんだって」
「すまん」

 なまえはぽつりぽつりと近況を話し始めた。佐川の訃報はすぐに自分に通達されたこと。彼の部下が自分の身を案じていること。だが、告げられた死を受け止められずにいること。そして、最後になまえはこう発した。


「ここから、出られないんです。出て行こうって思えなくて。だって、もしかしたら明日、明後日にでもひょっこりと顔を出すんじゃないかって」

 彼女が言い放ったのは呪いだった。まだ彼女の首には佐川の首輪がぶら下がっており、主を亡くした今、どうすればいいか分からないでいる。この部屋を出て行くのならば、亡き主の手を噛むことになり、この部屋で待ち続けるのならば、流れていく時間に主の死が揺るがないものだと思い知らされることになる。その時、彼女は何を選ぶだろうか。真島が見るなまえの未来は仄暗いものでしかない。

「分かった。分かったから、部屋行こうや」

 泣き濡れた女の瞼は腫れ、鼻先は赤らんでいた。佐川の死を告げられてから、彼女はきっと取り乱したに違いない。悲しみに明け暮れたに違いない。今の彼女は彼女自身の手で傷付けられている。部屋に向かえば、ゾッとするほど生活感のなさが目に付いた。家具の手入れもこまめにされており、この部屋には何不自由がない。無機質だった。どんなに豪華絢爛な家具に囲まれていようとも、どんなに質のいいものに身を包んでいても、生きている心地のない部屋に彼女が今まで一人で居たのかと思うと、恐ろしさよりも物悲しさに襲われた。ここはもう以前のような暖かい場所ではなかった。
 温もりのない部屋に女がぽつんと、死んだ男の帰りを待ち続けている。いつの日かの自分と重なって見える。見えない何かに囚われ、行先さえ満足に見つけられないのだ。そう思うと、自分は酷く身軽になってしまった気がしていた。実際、そうであることに間違いないが、彼女の首輪を外す鍵を真島は持っていない。

『あいつは豆太郎と同じだ。どこぞの猫に喰われねえよう、守ってやりたいんだよ。真島ちゃん』

 故人の言葉が甦る。まるであの日の夜に聞いたのと全く同じ鮮明さで。真島はカラの一坪を巡る抗争で、自分の生き様を貫いた男達の背中を見届けてきた。西谷や佐川が今の自分の在り方を指し示してくれたのなら、そのように生きる他ない。ならば、佐川の忘れ形見である彼女を檻から出してやらなければ、故人も報われないだろう。

「今日一日、邪魔させてもらうで」
「ええ、どうぞ。お好きにしてください」

 力なく答えた彼女はまるで生気のない、精巧な人形のようだった。真島は今日一日をかけて、彼女をこの部屋から、蒼天堀から連れ出すべく説得をするつもりだ。誰も望んでいないのだ、彼女が一人で悲しみに埋もれて消えてしまうことなど。佐川司は望んではいない。

「なまえ、俺はこのままじゃあかんと思うとる」
「……そう、ですか」
「辛い心境っちゅうのも分かっとるつもりや」
「そうですね」
「この部屋に居続けても佐川はんは……、」
「わかってます、わかってますよ……!」

 なまえは悲痛な声を上げた。涙交じりの声が重い静寂に波打って消える。例え、彼女が感傷的であっても伝えなければならない言葉はいくつもある。どんなに無神経な言葉であっても、言わなければならない言葉を飲み込むなんて真似は出来ない。

「……せやったら、どんなに辛くても受け止めな、」
「真島さんの言ってることは正しいと思います。……でも、あの人は待ってろって言ったんです」
「なまえ、」
「あの人は私に嘘をついたことはありません。ただ時間がかかるだけで、いつも必ず言ったことは叶えてくれました」
「なまえさんの気持ちを汲んでやりたいんやが、俺の知っとる佐川はんはそうやない」

 本当は理解しているのだろう。長い間、佐川の傍にいた彼女が無知で居られるはずがなかった。自分の放った言葉に、どんどん顔を歪めていく彼女の姿に胸が張り裂けそうだった。彼女の俯いた横顔に涙だけが何かを物語って落ちていく。大切な存在を失うことの恐ろしさを知らないわけじゃない。真島もかつて自分の兄弟分の安否が知れず、絶望の深淵に立たされた感覚を今でもまだよく覚えている。
 寛ぐでもなく立ち尽くしている彼女の体を抱き締めた。小柄な体は酷く震えている。明日が見えない女を明日に生きる男が繋ぎ止めようとしていた。何者にも脅かされないように、か細い手を放してしまわぬように。今の真島に出来ることと言えば、それだけしかなかった。