なまえは泣き疲れて眠っていた。しばらくは来客のなかったソファーに寝かせ、その上からブランケットを被せた。真島は体を丸めて眠る、彼女の背中に何とも言えぬ感情を抱かされた。例えば、本人にしか分かり得ない喪失感の一端であったり、現実と向き合えない弱さ、無責任に暗闇の中へと放り出されたような孤独感。そんな彼女を目の当たりにして、神室町へ一人で帰れる筈がなかった。出来ることなら、彼女を連れてここを出たい。だが、彼女が拒絶しようものなら、もう為す術はないのだろう。
 考えることは山のようにあった。彼女がこの部屋から出ることを最後まで望まなかった場合、彼女に対して今後どうすべきか。かつての佐川のように監視をつけるのか。それとも、信頼出来る他者へ彼女を託すのか。しかし、それは佐川ですら考えていたことだろう。だからこそ、自分が宛てがわれたようにも思えるのだ。彼女を監視することも、誰かに彼女を預けるような真似はしたくない。逆を言えば、彼女を連れ出せたなら、その後のことは自分が面倒を見るつもりでいた。望まれずとも、出来ることがあるならそれをやるつもりでいる。彼女が東京と言う地で生きていけるだけの助力はしたい。いつまでもここに繋がれていて良いとは思えない。

「……真島、さん」
「ああ、起きたんか。まだ眠っとってもええ」
「いえ、大丈夫です。もう起きます」
「そうか」

 静かで痛々しい目覚めに彼女は暫くの間、黙っていた。体を起こし、掛けられていたブランケットを膝に置き、ぼんやりと黙り込んでいた。そっとしておいた方が良いとは分かっていた。だが、自分が彼女に割ける時間はあまり多いものではないのも事実だった。単刀直入に言うしかなかった。

「なまえさん、俺はアンタをここに一人きりで置いとけへんと思うとる」
「……部屋を出ろと言うことですよね」
「せや。こうなってしもうた以上、アンタがここに居てもええ事なんかあらへん」
「いいじゃないですか、私がここに居たって」
「俺には最悪の結末しか見えてへんのや」
「それはそれで構わないでしょう?真島さんの人生じゃないんですから」
「俺に見殺しにせえ言うとんのか」

 それだけは御免だった。今にも消えてしまいそうな女を前にして、意思の尊重だなんだと屁理屈を捏ね、綺麗事で誤魔化し、踏みとどまらせる責任すら果たせないのは、真島にとって許し難い行為だった。低く唸る。彼女は涙を堪えながら、心を吐き出そうと口を開いた。

「ここには司さんと過ごした日々があるんです。それを置き去りにすることも、捨て去ることも私には出来ない……」

 彼女の首輪は時間が作り上げた強固なものだった。恐らく彼女にはここ以外、何も無いのだ。明日を生きていくための理由や成し遂げたい野望も、自分の居場所すらこの部屋以外に無いのだろう。そうやって生きてきた。そうやって生きることを選んできた。そうやって生きることを強いられていた。野良猫から文鳥を守ってやりたいと言う割には、佐川の秘められた執着が生易しいものではないと露呈した瞬間だった。

「真島さん、ヤクザの女の末路なんてこんなものでしょう……?だから、後は私の自由にさせて下さい」
「佐川はんの幻影にしがみついて、現実に追い詰められた挙句に死ぬようなことが自由やと思うとるんか?」
「……私に未来なんてものはないんです」

 真島は反射的になまえの傍に近寄ると、深く眉間に皺を寄せ、睨み付けるように言葉を吐いた。その言葉になまえが目を丸くするとは思いもせず。

「それがアンタの言う自由やっちゅうなら、お断りや。俺はもうカタギやない、せやからアンタの話を馬鹿丁寧に聞いたる義理はない」

「ええか、俺らヤクザもんはカタギの話に耳傾けたるほど優しない。ついでに言うとくが、所詮カタギのチャチな考え通りに動くなんぞ、ヤクザからしたらおもろないんや」

 なまえは驚いた顔で真島を見ていた。特に最後の言葉に態度の変化が顕著に現れたように思う。この時、真島は彼女が隠していた砂時計を正位置に置き直した、そんな気がしていた。


***


 あの人はもうこの世にいない。そんなこと、幾度となく自分自身に言い聞かせてきた。物分かりだけは良いようにと努めてきたおかげだ。だが、あの人の為にと物分かりが良くなった自分が、弱い自分の甘い考えを殺そうとしている。それは今も変わらない。待てと言われたのだ、彼は今が正念場だと。しかし、世の中は彼を帰してはくれなかった。抗争に終止符は打たれた、彼を失ったままで。その代わりに自分の前に姿を現したのは、以前とは見違える程に身なりの変わった真島だった。彼の顔からも現実を突き付けられたのだ。二度、三度と、佐川司は死んだのだと。


「ついでに言うとくが、所詮カタギのチャチな考え通りに動くなんぞ、ヤクザからしたらおもろないんや」

 怒りを滲ませて真島はそう言った。しかし、なまえの目に映っていたのは、自分の為にと怒れる真島の姿ではなく。

『でもよ、それじゃあ面白くねぇんだよ。カタギの嬢ちゃんが考えた通りにヤクザもんが動いちまったら』

 言葉は違えど、なまえは真島に佐川の姿を見た。面影程度の曖昧な姿だったが、確かにこの目で見たのだ。瞬きの刹那、もうその姿は見えなくなっていたが、幻はもう少しだけ『あの時』を見せてくれる。可哀想なヤツを見ると助けてやりたくてね。と食えぬ笑みで話しかけて来る佐川を最後に、なまえは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。傷が癒え、徐々に塞がっていくようにこの胸もやっとそれを許されたのだ。
 みょうじなまえは、真島吾朗に佐川司の面影を見た。そして、真島がなまえの前に現れたことによって、なまえの胸には心臓が戻って来た。なんて酷い人だろう、なんて嫌な押し付け方だろう。悪かった、の一言を添えて返してくれればよかったものを、となまえは初めて佐川の死を悼み、共に過ごした日々を偲ぶ涙をこぼした。今まで押し黙り、感情を殺してすすり泣いていたのをやめ、感情を吐露するように声を漏らして泣いた。真島は下手に取り繕うことをせず、なまえが涙を枯らし、再び笑顔を見せるまで寄り添い続けた。