涙の匂いが薄れていく部屋の窓は開いていた。滞留する悲しみや切なさを外に逃がしてしまおうと、換気も兼ねて。生活感のなかった部屋に僅かに活気が戻っていた。未だに瞼を腫らし、鼻の頭の赤みが抜けない彼女は人形であることをやめた。喜怒哀楽を見せるようになった彼女に、真島はその理由を聞き、佐川司という男の存在がいかに大きなものであったかを知った。
 今、彼女は長い髪を一つに束ね、荷造りをしていた。あまり持っていくものは無いと言っていた彼女も、戸棚やドレッサー、装飾の凝った小箱などを前にすると、甦る記憶があるのか動きが鈍くなる。クローゼットからは最低限の衣服を詰め、二つほど用意した鞄の余白を埋めていく。彼女はこの部屋に溢れる膨大な過去を清算しているようだった。部屋にある全てのものに、彼女しか知らない時間がある。それを一つ一つ手に取りながら、明日を生きるための必要なものだけを選んでいる。決して急かすことはしなかった。彼女にとって大切な最後の時間を邪魔するようなことはしたくなかった。


***


 陽が傾き、蒼天堀に夜の帳が下りていく。この部屋から見る蒼天堀の夜景は、これが最後になるだろう。ベランダには煙草の煙がゆらゆらと立ち上っては風に攫われてを繰り返している。彼女の荷造りは無事に終わり、後は明日が来るのを待つだけだった。呆気ないものだった。広さを持て余していた部屋から持ち出そうとしているのは、たったの旅行鞄二つ分の荷物だけで、後は彼女の体一つあれば、すぐにでもここを出られる。だからこそ、この呆気なさが恐ろしく感じた。もし、自分がここに来なければ、彼女はどうなっていただろう。もし、訃報が自分の元に来なければ。
 想像しただけでも背筋が凍る。きっと彼女はここを出る決断も出来ず、悪戯に時間を失い続けていたはずだ。佐川ではなく、過去の亡霊に首輪を繋がれたままで。後味の悪い妄想はここまでにして部屋に戻ろうとした時、窓際に人影を見つけた。寝室で眠っていたはずのなまえが窓際にそっと腰かけていた。

「眠れないんか」
「ここ最近はまともに眠れてませんから」
「でも、しっかり寝とかんと明日に響くで」
「それは真島さんも同じでしょう」
「俺もまだまともに眠れてへん」
「……夜は長いですね。眠れない日ほど、そう思います」

 月光に肌を塗り潰された彼女が切なげに微笑む。夜風がつんと鼻にしみる。煙草の残り香を連れて、彼女の隣に腰を下ろすと前にもこうして窓際にかけたことを思い出した。あの時と比べて彼女の髪は長く伸び、そのシルエットがやけに女性的で真島は目を逸らす。確かに彼女を自分の手元に置いておきたいと思うはずだと、内心、佐川へ理解を示していた。なまえは強かさの中にあどけなさのある人物だった。強かさの大半は佐川の為にと苦労して身につけたものだろうが、しっかりと自分のものにしており、滲む気丈さが彼女の存在を際立たせていたのだ。
 手を出すつもりはない。過去に傷口を塞いでやったことはあったが、今はじりじりと焦げている内情を伝える時ではない。悼み、弔い、偲び、そして、やっと彼女は前に進める。自分が佐川の代わりになれるとは思っていないが、彼女をどんな形であれ支えられる存在になれるのならば、そうなりたいのだ。


「髪、すっかり伸びたなァ」
「ええ、自分のことも最低限にしか見れなかったので」
「なら、俺が切ったるわ」
「……真島さんが、ですか」
「どうせ寝れへんのや、今から支度して髪切るくらいは出来るやろ」
「そうですね。お願いしてもいいですか?」
「ほな、準備しよか」

 真島の一言になまえは驚いていたが、眠れない事実を抱えた自分たちに出来ることと言えば、それくらいしかないと席を立った。ぱちん、と小さな音が聞こえ、夜の部屋に明かりが灯る。洗面所へ向かったなまえは、手にハサミとバスタオルを抱えて戻って来た。真島は古新聞を床に広げ、近くの椅子を持ってくる。なまえを座らせ、首元にタオルを巻き付けていく。そして、ハサミを手にした真島は慎重に少しずつ毛先を切り落としていった。
 古新聞の上に髪が落ちる。ぱらぱらと疎らに散らばっては、新聞紙に静かに積もり続けている。肩まであった髪はいつの間にか背中へと伸び、それをまた肩ぐらいの短さで切り揃えていた。綺麗な髪だった。艶めいて黒々としている、綺麗な髪だった。ハサミの切断音が聞こえる度に真島は彼女から何かを切り離している感覚を覚えた。それは彼女の髪ではなく、もっと内なる何かだった。もしかしたら、切なさであったり、物悲しさであったり、未練であったりするのかもしれない。ただ、髪を切ることでなまえが少しでも身軽になれるのなら、それでいいと思った。

「後ろは……、こんなもんやろ」
「あと前髪もちょっと長くて、」
「わかった」

 なまえの正面に回り、今度は目元を遮る一束に触れる。後ろより慎重にハサミを入れなければと思っていたのだが、切り落としてから気付く。

「……あ、」

 他の毛束が目元を遮っている中、眉上までの長さしかない箇所が一つあった。それは今し方、真島がハサミを入れた箇所である。真島の声に不安げな瞳がこちらを向いた。なまえの目だ。そして、どこか気まずそうにこちらの様子を窺っている。

「切り過ぎちゃったんでしょう」
「……すまん」
「大丈夫ですから、その長さに合わせて他のところも切ってもらえますか」

 今度こそ、静かに入れられたハサミが同じ長さで、彼女の前髪を揃えていく。時折、肌に付着した一本一本を指先で取り払いながら、ようやく身軽になった彼女に声をかける。恐る恐る目を開け、恥ずかしそうにどうかと訊ねるなまえに真島は好印象だと伝えた。

「最初は切り過ぎたかと思うたが、こっちの方がええ」
「そうですか?」
「おう。顔がよう見えてええ、自分で切っといてなんやが」

 彼女は指で短くなった前髪に触れると、一度頷き、そうですね。と返した。薄明かりの下で彼女は首に巻いていたタオルを解きながら、浴室へと向かい、真島は後片付けを任され、それぞれが長すぎる夜をやり過ごそうとしていた。これが最後の長い夜で、最後の蒼天堀の夜なのだろう。二人はそれをしっかりと分かった上で、明日が来るのを待っている。ここを離れれば、二度と帰っては来れないだろう。二度と戻っては来れないだろう。もう二度と。
 真夜中過ぎの蒼天堀。眩い手で夜闇を掻き分けているのは、明日という名の新たな旅立ちの時だった。二人には明日が待っている。