粗末な睡眠が二人を明日へと運んで行った。目覚めは眩しい。鼻をついたのは煙草の煙る匂いで、なまえは寝室にあるドレッサーに映る自分の姿を見つめていた。スツールに腰掛け、これが最後だと口ずさみながら、メイクボックスから一つ、また一つと彼の好んだ配色のアイシャドウやリップ、ファンデーションなどを手に取り、どこか幼い顔をしている自分に触れた。
「あの人はよくこの色のアイシャドウが良いって言ってくれた」
「リップは、あんまり派手なのを着けるなって言ってたっけ」
理由は似合わないから。過去のやり取りを胸の小箱から丁寧に取り出し、思い出せる内に思い出しておこうとしたのだ。時間は腐るほどある。しかし、時間には限りがある。それが意味するのは、この先の将来で再び佐川の死を実感する日が来るということだ。人は死を忘れる生き物だ。死んだ事実をではなく、かけがえのない記憶を忘れてしまう。例えば、声や顔、思い出が順に奪われていくそうだ。だからこそ、限りある記憶がまだ鮮明な内に、なまえは愛していた男のことを思い出していたかった。
「今日の私、一番綺麗なのに見せてあげられなくて残念」
けれど、きっと忘れてしまうのだと行き着いた時、なまえはひとり語りかけた。涙の匂いは彼のお気に入りだった香水でかき消し、静かに立ち上がる。やけに短くなってしまった髪が肌に触れ、真島の言っていた通り、こっちの方が顔がよく見えて良いとなまえは涙を零して笑っていた。明日へと向かわなければならない彼女を繋ぐ鎖はこの時初めて断たれた。
「忘れもんはないか?」
「ええ、何も」
「そうか」
やっぱりこっちの方が断然ええわ。と一言添えた真島と共になまえは部屋の外へと飛び出した。手には二つしかないカバンをぶら下げ、扉の開け放たれた部屋を見た。ここにはたくさんの時間と、たくさんの営みがあった。しかし、たった一人を亡くして外に出てみれば、あまりにも身軽で、あまりにも容易く、本当に繋がれていたのかさえ疑問に思ってしまうほどだった。
「さよなら」
先を行く真島には聞こえない小さな声で呟いた。冬の冷たい風が吹き抜けていき、部屋のカーテンがひらひらと気ままに揺れている。扉をそっと閉め、なまえは歩き出した。前へと、先を行く真島に続いて。自身の檻であった蒼天堀から、飼い犬と飼い猫が出て行った。自分の足で歩いていく感覚に、やはり寂しさが拭えないでいたが、それでも行かなければならないのだと自分を奮い立たせて、なまえはマンションを後にした。
***
それから数年が経ち、かつて蒼天堀の飼い猫だった彼女の姿は神室町にある。華やかな内装のマンションではなく、質素でありながら生活感のあるアパートの一室を彼女は住処として選んだ。身の丈に合った生活と言うのだろうか。しかし、彼女がこの生活を手にするのに苦労を重ねていた。初めての土地、社会との関わりを見つけなければならず、越してきた当初は四苦八苦していた。そして、やがてお祭り騒ぎだったバブルも弾けると、世間は現実に酷く失望し、絶望したのだが、それでも彼女が懸命に今を生きているのは。
鍵の差し込む音。ガチャリと回転し、鍵が解錠する音。扉が開き、寒い寒いとこの季節の冷たさを身をもって感じている男の声。煙草の匂いは懐かしいものだが、少しだけ違う。聞きなれた関西弁で今帰ったと部屋に入って来たのは、この街に来てから長い間良くしてくれる男だ。
「今日もホンマに寒いわ」
「そんな薄着でいるからですよ」
「何年もこの恰好しとると、今更急に路線変更出来ひんわ」
「じゃあ、我慢しなくちゃ」
「外にいた時から思うとったが、ええ匂いさせとるやないかァ」
女は台所に立っており、目の前のコンロには大きな鍋が今も強く熱せられている。男は凍える体のまま、その隣に立つともくもくと湯気の立つ鍋の中身を覗き見た。厚く輪切りにされた大根、しらたき、ちくわぶ、餅巾着などが狭い鍋の中でひしめき合い、ふつふつと煮込まれながら味が染み渡るのを待ち続けている。男は鍋の中身がおでんであると気づくと、今の時期に丁度ええ。と呟きながら台所を離れた。それから、洗面所へと消えていった蛇柄の背中を見て、女はぼんやりと思う。
真島吾朗とは、蒼天堀時代から付き合いが長い。神室町に越してきて右も左も分からぬなまえを手助け、支えてくれた人物だ。内縁関係かと問われれば、それに近い気もするが、完全にそうとは言い切れなかった。同居人と呼ぶにはそれほどまでに他人めいておらず、同棲相手と呼ぶには決して越えられない一線がある。そんな真島との出会いは、彼がきっかけだった。蒼天堀に住んでいながら関西の訛りがなく、行く宛てのなかった自分を拾ってくれた男。数年経った今でも失ったものはまだ少なく、記憶の中に留まり続けている。だから、だろうか。
まだ待っているのかもしれない。なんてことの無い平凡な生活を営み、仕事をこなして行く日々の中で、まだ彼を待っている自分がいるのかもしれない。待ってろ。と言われた場面は声が徐々に失われつつあるが、まだ色や景色を忘れてはいない。あれから数年、女は待ち続けている。あの日から音沙汰のない男のことを。
そして、こう思うのだ。やはり、この首に首輪なんてなかったのだと。それでも帰りを待とうとしているのは、あの男との日々が彼女の心の拠り所であり、胸に空いた穴を綺麗に塞いでくれたからなのだろう。凍てつく風が肌を突き刺す季節が来る度、女はかつての男を思い出す。ヤクザでありながら、清い関係でいてくれたあの男のことを ────。
不意に鍋が大きく吹きこぼれ、女ははっとしてコンロの火を弱める。狼狽えながら水に濡らした布巾で辺りにこぼれた汁を慎重に拭き取っていく。飼い猫だった彼女が真島と共に神室町へ移り住んで数年が経った今、みょうじなまえはひっそりと街のどこかで生きている。
end.