腕に着けた時計を見れば、今日もまた遅い時間だと溜め息を吐く。体力には自信があるものの、一日の仕事を終える頃には、やはり疲労を意識してしまう。そして、この疲労とは切っても切れない関係で付き合いも長いものになった。革靴は鳴る、まだ帰路の途中だと。足を使う職業のせいか、これまでに何足もの靴を履き潰してきた。革靴は鳴る、まだ履き潰していない靴は主人をただ家へと誘うばかり。

 とてもやり甲斐のある仕事だ。曲げられない信念も自分の中にあり、それに反してしまわぬよう、己が正義を実行し続ける。例えどんなに小さな事件であろうとも、そこに悪がいて虐げられる誰かがいるのなら、精一杯に仕事をやり抜くのみだ。そんな日々を過ごしてきた自分も四十代という年齢になり、少しだけ未来を考えることがある。未来を考えるに足る人物が身近なところに居ることも関係しているのだろう。
 その身近な存在のことは誰にも話したことはなかった。信頼する先輩にも、同僚の誰にも明かしたことはない。彼女はとても良い人だ。だが、どうしてこんな自分に良くしてくれるのかは分からない。分からないと言っておきながら、実際に彼女を前にしてしまうと自惚れてしまいそうになる。あまりの単純さに男は一人、苦笑する。都合のいい夢を見過ぎてはいけないと帰路行く足を早めた。


***


 都合のいい思考をぶら下げた男は到着した我が家を見やる。どこにでもある、なんてことの無いアパートの一室に男の生活の拠点がある。道路沿いに並ぶ窓は住人が既に休んでいるのか、どれからも照明の明るい光が見えた。その中でもぽつんと暗いままの自分の部屋に、彼女のことを思う。

「もう帰ってしまったか、今日は来なかったか」

 きっと前者だろうな、と男は懐から部屋の鍵を手繰り寄せ、自室の前で立ち止まる。鍵を差し込み、ぐるりと回せば、彼女がしっかり戸締りをして帰ったのだと分かり、男はどこか嬉しそうに微笑む。普通なら心配する必要のないことだ。彼女が自分の部屋を自由に出入り出来ることも、自由に出入り出来るからこそ戸締りをして帰るのも、何もかもが当たり前で普通なのだ。
 だが、その当然の傍に、彼女の名残があると知った時、鍵を渡しておいて良かったとしみじみ思うのだ。今日は顔を見ることが出来なかったが、また近い内に一緒に過ごしたいものだと男は彼女が居たであろう家にようやく帰宅する。


 部屋に入って分かったのは、男の予想通り彼女は今日もこの部屋に来ていたということだ。キッチンにはまな板や包丁などが水切りラックに置かれており、覗き込んだ冷蔵庫の中には案の定、ラップに包まれた皿がいくつかと蓋のされた鍋がしまわれていた。鍋蓋のガラスからは豆腐の白と長ネギの緑が見え、食欲をそそられる。おかずや副菜といった皿にも彼女なりの気遣いがあり、空腹が遅すぎる夕食へと急かす。
 しかし、自分のことより先にやることがあると、男は携帯を取り出して電源を入れ、暗転していた画面に並ぶ通知に目を通した。見慣れたメッセージアプリの通知は、どれも彼女からのもので、つい微笑んでしまうような優しい言葉が添えられていた。

『こんばんは、今日もお仕事お疲れ様です』
『冷蔵庫に作っておいたご飯があるので、良ければ食べてください』
『あと、今日寄ったスーパーで安売りがあって…………』

 暫くは同じ具材のメニューになるかもしれないと、親切な気遣いまで彼女の言葉で残されては、男も感謝以外の言葉が見つからず、すぐにメッセージを返した。浮かんだ微笑みが消えぬ内に男は堅苦しい装いを身軽なものにしようと着替えに行ってしまった。
 その間にも携帯からは彼女からのメッセージの着信音が鳴り、男の着替える手も少しだけ慌ただしくなる。顔は見れずとも、このようにいつでも言葉を交わすことが出来る時代だ。より身近に感じられる距離感は男の堅い表情を柔らかくほぐしていく。


 北村義一とみょうじなまえは親しい仲にある男女だ。しかし、互いに肝心な所へ踏み込めないでいるせいで、関係に発展はない。その気があるのがなまえで、その気がないわけではないが、年の差や立場、互いの生活などと言った自分達の現状を踏まえ、迷っているのが北村である。
 だが、もどかしい関係でありながらも二人は互いのことを思いやりながら生活していた。現になまえは度々北村の家を訪ね、夕飯の支度を済ませて帰宅し、仕事終わりに北村はその食事を口にする。そして、就寝前には夕食の礼やなまえへの気遣いをいくつかのメッセージに分けて送信する、北村のまめな一面が見れる場面が存在する。つまり、関係はもどかしくあろうともその実、一番『それらしい』生活を営んでいるのだ。


 北村が着替えを済ませ、身軽な服装で夕食の支度に取り掛かろうとすると、ふと台所の流しの近くに一枚の白い紙が置かれていることに気づく。疑問に首を傾げながら、北村はその紙切れに書かれた華奢な文字に目を通す。そこには、メッセージにもあった通り、買い込んだ野菜で煮物を作ったこと、労いの言葉が綴られていた。
 ここにもやはり互いを思う気持ちが残されており、北村は再び携帯を手に取ると、メッセージアプリを開き、『台所のメモ読ませてもらった。ありがとう、これから食べる』と続けて送れば、すぐに既読がつかない辺りに彼女らしさを感じ、胸が温かくなる。今日はもう遅いから、と一区切り置き、北村は遅めの夕食に取り掛かるのだった。